『ドールズ・ハイ』 第2章『境界の継承』第23話『近づくもの』
―あらすじ―
教導院では、
旧演習区域での異常を抱えながらも
通常訓練が続いていた。
アルトはノアとの同期中、
以前とは異なる「近さ」を感じ取る。
数値上の異常はほとんどなく、
周囲には明確な変化として認識されない。
しかしノアの黒い装甲に走る白い亀裂は、
気付かぬうちにわずかに広がっていた。
ミレイとリオもアルトの様子を気に掛ける中、
アルトはノアに触れ、
その内側から微かな鼓動のような感覚を受け取る。
何が起きているのかは分からない。
それでもアルトは、
ノアの変化がまだ終わっていないことを感じ始めていた。

第23話『近づくもの』
朝の訓練場には、
いつもと変わらない音が響いていた。
駆動音。
床を踏む音。
同期装置が発する低い振動。
異常が起きた場所とは思えないほど、
教導院の日常は静かに戻っている。
「同期率、
安定」
測定端末を確認したミレイが呟いた。
アルトは答えず、
正面のノアを見ていた。
黒い装甲。
人間に近い輪郭を持つ、
約百七十センチほどの身体。
その胸元から肩へ走る白い亀裂が、
以前よりわずかに増えている。
ほんの少し。
見落としても不思議ではない程度だった。
「アルト?」
ミレイの声に、
アルトは顔を上げた。
「……何でもない」
「本当に?」
「たぶん」
自分でも曖昧な答えだと思った。
ノアとの同期を開始する。
意識を繋げた瞬間だった。
いつもの感覚が来る。
静かで、
深い。
だが――近い。
以前よりも。
何かが、
こちら側へ近づいている。
アルトは眉を寄せた。
ノアの反応そのものは正常だった。
同期率も許容範囲。
出力にも問題はない。
それなのに、
感覚だけが違っていた。
まるで、
遠くにあった何かが、
境界線のすぐ向こう側まで来ているような。
「……ノア?」
呼びかけても、
返事はない。
ただ、
黒い装甲の亀裂が。
ほんの一瞬だけ明滅した。
白い光だった。
アルトは息を止めた。
次の瞬間には消えている。
「今……」
「何か見えた?」
ミレイが尋ねる。
アルトは答えに迷った。
「……光みたいなのが」
ミレイはノアを見る。
しかし、
もう何も起きていない。
「測定には出てない」
「うん」
「なら、
見間違いかもしれない」
そう言いながらも、
ミレイの目はノアから離れなかった。
◇
訓練終了後。
リオがアルトの横へ並んだ。
「最近、
ノアばっかり見てない?」
「そうか?」
「そうだよ」
少し間を置いて、
リオは続ける。
「無理してないならいいけど」
「……無理はしてない」
アルトはノアを見る。
「ただ、
前と違う」
「何が?」
「分からない」
その答えに、
リオは何も言わなかった。
ミレイも黙っていた。
三人の間に、
訓練場の駆動音だけが流れる。
やがてミレイが小さく言った。
「じゃあ、
分かるまで見てればいい」
「……それだけ?」
「それ以上、
今はできないでしょ」
アルトは少しだけ笑った。
「そうだな」
◇
夕方。
整備区画の照明が落ち始めた頃、
アルトは一人でノアの前に立っていた。
黒い装甲に手を伸ばす。
指先が触れる直前で、
止めた。
以前なら、
確かめるために触れていた。
だが今は、
なぜか躊躇った。
それでもゆっくりと手を置く。
冷たいはずだった。
なのに。
微かな温度を感じた。
――とく。
一度だけ。
鼓動のような感覚。
アルトは反射的に手を離した。
「……今のは」
ノアは動かない。
表情もない。
ただ胸元の白い亀裂が、
以前よりほんの少しだけ広がっている。
亀裂の奥。
黒の向こうに、
白い面のようなものが見えた。
装甲なのか。
光なのか。
それとも、
別の何かなのか。
アルトには判断できない。
ただ、
それが単なる傷ではないように思えた。
「お前……」
言葉が続かない。
ノアの黒い装甲に、
再び白い光が走る。
今度は一瞬だけではなかった。
ほんの数秒。
淡い光が亀裂の奥で揺れている。
アルトは息を殺して見つめた。
そして、
静かに手を下ろした。
「まだ……終わってないんだな」
ノアは答えない。
けれど、
その言葉に応えるように。
亀裂の奥の白が、
ほんのわずかに明滅した。
◇
同じ頃。
解析室では、
レイスが端末の記録を確認していた。
白い結晶片。
過去の同期実験。
記録されなかった時間。
画面上では、
どれも明確な異常として繋がってはいない。
それでも、
以前とは違う。
ほんの小さな差異が積み重なっている。
レイスは画面を閉じた。
「……近づいているのか」
誰に向けた言葉なのか、
自分でも分からなかった。
遠くの格納庫では、
ノアが静かに立っている。
黒い装甲の奥で。
白いものが、
また一度だけ光った。
それは、
誰にも記録されなかった。
