『ドールズ・ハイ』 第1章『黒の残響』第49話『空白記録』
―あらすじ―
距離は狂い始めた。
廊下は長く見え、
足音は遅れて届き、
視界の端には存在しないはずの白が揺れる。
教導院は依然として平静を装う。
だが、
生徒達の不安は限界へ近づいていた。
誰も説明できない。
誰も証明できない。
それでも確かに、
何かが近づいている。
アルトは、
第二波形が現象ではなく
“意思”を持っている可能性を考え始める。
一方、
カインは封印された過去記録の奥に、
教導院が隠し続けてきた痕跡を発見する。
そして夜。
隔離区画で、
決して起きるはずのない変化が発生する――。

第49話『空白記録』
朝の教導院は、
曇天の下で静まり返っていた。
白い空は低く垂れ込み、
校舎の窓に鈍く映り込んでいる。
生徒達は歩いている。
だが以前のような賑やかさはない。
廊下ですれ違う声も小さい。
視線だけが落ち着かない。
「また封鎖増えたらしい」
誰かが小さく言った。
「設備点検だろ」
そう返す声にも、
自信はなかった。
教師達も同じだった。
表情を崩さず授業を進めている。
だが教卓へ置かれた端末を、
必要以上に確認している。
誰も口にはしない。
それでも教導院全体に、
張り詰めたものが広がっていた。
◇
アルトは窓際の席で、
ぼんやり外を見ていた。
授業内容は頭に入らない。
背後に気配がある。
もう慣れてしまっていた。
以前なら振り返っていた。
今は違う。
振り返っても、
何もいないからだ。
それを知っている。
それでも。
いる。
そんな感覚だけが残る。
窓ガラスへ視線を向ける。
一瞬だけ、
白いものが映った気がした。
反射。
錯覚。
そう思って見直す。
もう何もない。
アルトは目を閉じた。
近づいている。
そう考えていた。
ずっと。
だが本当にそうなのだろうか。
近づいているのではない。
最初からいた。
見えていなかっただけで。
その考えが浮かんだ瞬間、
胸の奥が重く沈んだ。
◇
昼休み。
ミレイは端末室にいた。
ルナの格納データ。
第二波形関連ログ。
何度も確認してきた記録。
だが今回は別の違和感を見つけた。
「……何これ」
記録番号。
通常なら連続している。
だが飛んでいる。
一つ。
二つではない。
複数。
欠番が存在していた。
さらに奇妙なことに、
存在しない番号が混じっている。
本来登録されていないはずの識別番号。
開こうとする。
エラー。
再度開く。
空白。
保存しようとする。
画面が瞬いた。
次の瞬間。
欠番だけが消えていた。
最初から存在しなかったかのように。
ミレイは端末を見つめた。
妙な汗が背中を伝う。
データが壊れているのではない。
記録そのものが、
抜け落ちている。
そんな感覚だった。
◇
夕方。
リオはフェル格納区画へ向かっていた。
封鎖区画の増加で、
廊下は以前より静かだ。
警備員とすれ違う。
誰も話さない。
格納庫内部。
フェルはいつも通りだった。
沈黙。
固定フレーム。
異常なし。
監視表示も正常。
リオは小さく息を吐いた。
そして何気なく、
管理記録へ目を向ける。
「……は?」
数時間分。
空白。
巡回記録も。
状態確認も。
全て抜けている。
機器故障では説明できない。
そこだけ、
存在していない。
担当監視員へ聞く。
だが相手も首を傾げるだけだった。
「分からない」
その言葉が、
妙に重く聞こえた。
◇
夜が近づく頃。
カインは独自端末を操作していた。
封鎖された旧データベース。
幾重もの閲覧制限。
消された記録群。
その奥。
偶然とも思えない断片へ辿り着く。
画面へ表示された名称。
《第零隔離事案》
カインの表情が止まる。
開く。
本文は削除済み。
報告内容も。
経緯も。
全て空白。
だが一部だけ残っていた。
関係者欄。
そこには複数の名前。
教導院上層部。
現在も権限を持つ人間達。
見覚えのある名が並んでいる。
カインは無意識に拳を握った。
古い事件。
隠された事故。
そして現在の異常。
無関係とは思えなかった。
画面更新。
次の瞬間。
データが消える。
アクセスログも消失。
まるで最初から存在しなかったように。
だがカインは確かに見た。
《第零隔離事案》
その文字だけは、
脳裏に焼き付いていた。
◇
解析室。
シエラは表示された波形を睨んでいた。
第二波形。
存在しないはずの反応。
消える記録。
欠損するログ。
そして観測不能現象。
「違う……」
小さく呟く。
エドガーが顔を上げる。
「何がだ」
「侵食じゃない」
シエラはゆっくり言った。
「もっと厄介」
画面を指差す。
「記録そのものを書き換えてる」
室内が静まる。
エドガーの顔色が変わった。
明らかだった。
何かを知っている。
だが言わない。
言えない。
そんな沈黙だった。
◇
夜。
資料保管棟。
利用者は誰もいない。
白い照明だけが並ぶ静かな部屋。
古い端末が並んでいる。
その一台が、
不意に起動した。
誰も触れていない。
電源ランプが灯る。
暗い画面。
ノイズ。
そして。
文字。
『記録は残らない』
数秒。
それだけ。
直後。
ブラックアウト。
再起動もしない。
まるで幻だったかのように。
だが監視カメラも、
その瞬間だけ映像を失っていた。
◇
深夜。
地下隔離区画。
監視員達が巡回を続けていた。
遮断壁正常。
封鎖状態維持。
異常なし。
定時報告も終わる。
誰もが安堵しかけた。
その時だった。
監視端末が短く鳴る。
入退室記録更新。
監視員の一人が画面を見る。
そして眉をひそめた。
新規アクセス履歴。
時刻は数分前。
認証通過。
入室許可。
だが。
名前がない。
認証情報もない。
空白。
全て空白。
監視員達は顔を見合わせる。
そんな記録は存在しない。
存在できない。
再確認する。
変わらない。
空白のまま。
その時。
画面が一度だけ点滅した。
新しいログが追加される。
誰も操作していない。
誰も入力していない。
静かな監視室。
誰一人声を出せない中。
空白の記録の下へ。
新しい一行だけが表示された。
『確認済』
そこで画面は静止した。
