『ドールズ・ハイ』 第2章『境界の継承』第22話『古い記録』
―あらすじ―
解析室で、
過去の同期実験記録を調べていたレイスは、
現在の異常と酷似した「記録されない時間」が、
かつてにも存在していたことを知る。
さらに古い資料には、
現在の理論では使われない
「境界」という言葉が残されていた。
ガルドは、
何かを知っているような反応を見せながらも、
詳細を語ろうとはしない。
一方、
アルトは、
ノアの亀裂の奥に変化の兆候を感じ始める。
やがて過去の記録とノアの波形が
繋がる可能性が浮かび上がり、
静かだった日常に新たな疑念が刻まれていく。

第22話『古い記録』
教導院の夜は静かだった。
照明を落とした解析室で、
レイスだけが端末の前に座っている。
画面には、
古い記録が幾重にも並んでいた。
現在の同期理論が体系化される以前のもの。
保存状態は悪く、
波形の一部は欠落している。
それでも、
レイスは手を止めなかった。
「……ここだ」
一つの記録を拡大する。
同期値は正常。
出力も安定している。
なのに、
波形の途中だけが不自然に途切れていた。
消えたのではない。
最初から、
そこだけ存在しなかったような空白。
レイスは過去に目撃した白い霧を思い出した。
「同じ……なのか?」
答えはない。
ただ、
偶然にしては似すぎていた。
◇
翌朝。
バルクが解析室へ入ってくる。
「まだ調べていたのか」
「ええ。
少し気になるものが見つかりました」
レイスは古い記録を表示した。
バルクが眉を寄せる。
「ずいぶん古いな」
「現在の同期理論が確立される前の資料です。
問題は、
この部分です」
空白を指で示す。
「記録欠損じゃないのか?」
「最初はそう思いました。
でも、
別の記録にも同じ空白があります」
バルクは黙って画面を見つめた。
その下には、
古い研究者が残した短い注記があった。
――境界付近では、
同期の定義を適用しない。
バルクの表情が変わる。
「境界?」
「はい。
現在の資料には、
この言葉は残っていません」
「意味は?」
「分かりません」
その答えに、
二人ともそれ以上は言えなかった。
◇
ガルドにも報告が回った。
現場教官として
訓練記録を確認していたガルドは、
古い資料を一瞥する。
そして、
ほんのわずかに目を細めた。
「……まだ残っていたか」
「ご存じなのですか?」
レイスの問いに、
ガルドはすぐには答えなかった。
「昔の記録には、
残さない方がいいものもある」
「それは、
どういう意味でしょうか」
「そのままの意味だ」
それだけだった。
ガルドは資料から目を離す。
「今は断定するな。
現場に余計な情報を流せば、
生徒の判断を狂わせる」
「承知しました」
ガルドは立ち上がる。
「ただし、
記録は消すな」
その言葉だけが、
妙に重く残った。
◇
教導院では、
いつも通り訓練が続いていた。
アルトはノアと向き合っている。
同期操作に異常はない。
指示にも正確に応える。
けれど、
アルトの視線は装甲の一点に止まっていた。
黒い装甲を走る白い亀裂。
以前より、
わずかに広がっている。
細い線だったはずの亀裂の一部が、
ほんの少しだけ深く開いていた。
その奥に――白い面。
光の反射にも見える。
だが、
そうではないようにも感じる。
アルトは手を伸ばしかけて、
止めた。
触れる理由がない。
触れてはいけないような気もした。
「……お前、
変わってるのか?」
ノアは答えない。
ただ、
白い亀裂の奥で何かが微かに揺れた。
「アルト?」
振り返ると、
ミレイとリオが立っていた。
「どうした?」
「いや……」
アルトはノアを見る。
「少しずつ変わってる気がする」
ミレイは何も言わず、
ノアを見た。
リオも静かに視線を向ける。
「傷じゃないってこと?」
「分からない」
「そっか」
ミレイはそれ以上、
聞かなかった。
リオが小さく息を吐く。
「分からないなら、
今はそれでいいんじゃないか」
その言葉に、
アルトはわずかに頷いた。
そこへカインが歩いてくる。
「アルト」
「カイン?」
「昨日のヴォルグの件、
気になってる」
アルトは黙って彼を見る。
「制御には問題がなかった。
俺の操作も、
ヴォルグの応答も正常だった」
「でも揺れた」
「ああ」
カインの目が細くなる。
「なら、
俺たちのどちらかが原因ってわけじゃない」
アルトも同じことを考えていた。
「……そうだな」
二人の間に、
短い沈黙が落ちる。
これまでなら、
自分の機体を疑っていた。
だが今は違う。
見えない何かが、
彼らの外側にある。
カインはそれ以上追及しなかった。
「また何かあったら教えてくれ」
「ああ」
二人はそれだけを交わして離れた。
◇
夜。
解析室では、
レイスが一人で古い資料を見つめていた。
一枚の波形。
その特徴に、
見覚えがある。
現在保存されているノアの同期記録を
隣に並べる。
完全には一致しない。
だが、
波形の沈み方。
空白の前後に現れる微細な揺らぎ。
似ている。
そして、
その記録の脇にも同じ言葉が残されていた。
――境界。
レイスの指が止まる。
「……ノアと、
これが?」
断定するには材料が足りない。
それでも、
偶然だけでは片付けられない。
その瞬間だった。
遠く離れた格納庫で、
黒い装甲が微かに震えた。
白い亀裂が、
一度だけ明滅する。
アルトが振り返る。
理由は分からない。
ただ、
ノアの方を見た。
黒い装甲の奥から、
白い光が一瞬だけ漏れる。
そして消えた。
同じ頃。
解析室の画面には、
何の変化も表示されていなかった。
それでもレイスは、
古い記録から目を離せなかった。
受け継がれた理論の、
その外側。
そこに何があったのか。
まだ、
誰にも分からない。
