『ドールズ・ハイ』 第1章『黒の残響』第53話『予兆値』
―あらすじ―
証拠は揃っている。
記録も正常。
それでも、
教導院に広がる違和感は消えなかった。
誰もが疲れを抱え、
理由の分からない不安を胸に日常を過ごしている。
そんな中、
アルトの家伝型ゲシュタルト・リミッター《アイゼン・ガルテン》が微かな反応を見せ始める。
ダグは本能的な危険を感じ取り、
フィオナは生徒達への聞き取りから“忘却”という共通項へ辿り着く。
ミレイは欠番ログに隠された規則性を発見し、
カインは《未定義接触領域》と現在の異常が深く結び付いている可能性へ到達する。
そして夕暮れの廊下。
見えないはずの何かに対して、
アイゼン・ガルテンは再び脈動する。
異常は確実に広がっている。
そして今、
最初に気付き始めたのは人間だけではなかった――。

第53話『予兆値』
晩秋の空は重かった。
朝から雲が低く垂れ込め、
乾いた風が校舎の間を吹き抜けている。
落葉が石畳を擦る音だけが、
妙に耳に残った。
教導院の空気は静かだった。
以前のような活気はない。
廊下を歩く生徒達もどこか疲れた顔をしている。
「最近よく眠れないんだよな」
「分かる。
授業中も集中できなくてさ」
そんな会話が、
あちこちで聞こえていた。
だが誰も、
それを深刻には捉えていない。
理由が分からないからだ。
ただ漠然とした疲労だけが広がっていた。
アルトもまた、
重い足取りで登校していた。
校門をくぐった時だった。
無意識に首元へ触れる。
制服の下。
そこに収まる白銀の結晶。
アイゼン・ガルテン。
その表面が、
ほんの一瞬だけ微かに脈打った。
錯覚かと思うほど小さな反応だった。
アルトは立ち止まる。
だが次の瞬間には何事もなかったように静止していた。
「……気のせいか」
そう呟いて歩き出す。
しかし違和感だけが胸に残った。
◇
訓練場ではダグ班が模擬戦を行っていた。
鋭い機動。
正確な連携。
結果だけを見れば申し分ない内容だった。
終了の合図が鳴る。
班員達は汗を拭きながら笑い合っていた。
「今日は調子良かったな」
「記録更新じゃね?」
「昼飯奢れよ、ダグ」
賑やかな声。
だがダグだけは黙っていた。
訓練ログを見つめる。
数値は正常。
命中率も回避率も問題ない。
それでも何かがおかしい。
「ダグ?」
班員が声を掛ける。
ダグは眉をひそめた。
「……近ぇ気がする」
「何が?」
「分かんねぇ」
自分でも説明できない。
だが確かに感じる。
何かが。
ゆっくりと。
こちらへ近付いている。
理屈はない。
証拠もない。
それでも無視できない感覚だった。
「考え過ぎじゃねぇか?」
仲間は笑う。
ダグも笑い返した。
だが胸の奥の警戒心だけは消えなかった。
◇
昼休み。
フィオナは校舎内を歩いていた。
数名の生徒へ聞き取りを続けている。
最初は軽い確認だった。
最近の体調。
生活状況。
授業への集中度。
だが話を重ねるほど、
奇妙な共通点が浮かび上がる。
「何か忘れてる気がするんだよね」
「私も」
「大事なことだった気がするんだけど……」
内容は全員違う。
忘れた対象も説明できない。
それでも感覚だけは一致していた。
フィオナは手帳を閉じる。
胸の奥が冷えた。
偶然では片付けられない。
何かが起きている。
だが証明できない。
優秀だからこそ、
その不自然さが見えてしまう。
「これは……良くないわね」
初めて危機感という感情が浮かんだ。
◇
解析室ではミレイが端末へ向かっていた。
膨大なログ。
欠番記録。
存在しない番号列。
以前なら無秩序に見えていた。
だが違う。
ルミナ・ティアへ指先が触れる。
青白い結晶は静かだった。
ミレイは画面を見つめる。
「やっぱり……」
欠番発生位置に規則がある。
まだ全貌は見えない。
だが完全なランダムではない。
一定の周期。
わずかな偏り。
まるで何かを避けるように欠落が発生している。
「偶然じゃない」
その確信だけが強くなっていく。
◇
一方。
カインは旧資料庫の奥にいた。
閉鎖記録。
封印データ。
《第零隔離事案》。
断片的な文章を繋ぎ合わせる。
そこで再び現れた単語。
《未定義接触領域》
カインは目を細めた。
首元のシュヴァル・ボルトへ手を当てる。
冷たい感触。
資料を読み返す。
現在起きている認識異常。
距離誤差。
記録欠損。
その全てが妙に似ている。
「同じだ……」
完全ではない。
だが近い。
そしてもう一つ。
この情報が徹底的に隠されている理由。
教導院上層部は何かを知っている。
そう考える方が自然だった。
◇
夕方。
シエラとエドガーは解析データを並べていた。
調査対象はゲシュタルト・リミッター。
教導院全体の統計情報。
異常はない。
公式には。
だが極微量の揺らぎが存在する。
数値にすれば誤差。
無視できる範囲。
それでも。
「増えてる」
シエラが呟く。
エドガーも否定しない。
沈黙だけが答えだった。
二人は理解している。
問題は誤差の大きさではない。
誤差が存在すること自体なのだ。
◇
早い夕暮れが校舎を染める。
白い照明が点灯し始める頃。
アルトは長い廊下を歩いていた。
人気はない。
足音だけが響く。
その時だった。
廊下の先。
誰かが立っていた気がした。
白い影。
視界の端。
アルトは反射的に振り返る。
誰もいない。
静寂。
だが同時に。
首元で小さな振動が走った。
アイゼン・ガルテン。
再び。
今度ははっきりと脈打った。
一度だけ。
心臓の鼓動に合わせるように。
アルトは息を呑む。
「……なんだよ」
返事はない。
廊下には誰もいなかった。
◇
夜。
教導院システムの定期点検が行われていた。
技師達は淡々と作業を進める。
異常報告なし。
警告なし。
全項目正常。
だが最後の確認で、
ひとつの画面が目に留まった。
ゲシュタルト・リミッター同期率。
全体平均値。
そこに極めて微小な揺らぎが記録されている。
許容範囲内。
正式には問題なし。
それでも担当技師は画面を見つめ続けた。
理由は分からない。
ただ妙な胸騒ぎだけが残る。
◇
深夜。
寮室。
アルトは机へ向かっていた。
『思い出さないで』
あのメモは引き出しの中にある。
捨てられなかった。
窓の外では風が落葉を転がしている。
静かな夜だった。
ふと視線を上げる。
机の向こう。
そこに誰かが立っていた気がした。
一瞬だけ。
本当に一瞬だけ。
瞬きをする。
何もない。
静寂だけが残る。
アルトはゆっくりと首元へ触れた。
アイゼン・ガルテン。
白銀の結晶は暗闇の中で微かな光を宿していた。
鼓動。
鼓動。
鼓動。
まるで何かを警告するように。
あるいは。
何かへ応答するように。
結晶は小さく脈打ち続けていた。
