『ドールズ・ハイ』 第1章『黒の残響』第74話『封じられた保守管理区画』
―あらすじ―
整備主任エルヴィン・クラウゼンの発言をきっかけに、アルトたちは「保守管理区画」という旧呼称の存在へと本格的に踏み込むことになる。
ミレイは勤務記録からエルヴィンの経歴を追うが、特定の年代だけ情報が欠落していることに気付く。
カイン班も旧資料の役職履歴から不自然な改変痕を発見し、教導院内部に意図的に隠された領域の存在を疑い始める。
ガルドは創設期からの在籍者としてエルヴィンを知っているが、その詳細については語ろうとしない。
そしてアルトとリオはエルヴィン本人と再び接触し、「保守管理区画」という言葉の意味に触れ始めるが、その核心にはまだ届かない。

第74話『封じられた保守管理区画』
教導院の朝は、
これまでと変わらず流れていた。
訓練区画では機体整備の音が響き、
生徒たちはそれぞれの準備に追われている。
その日常の中で、
アルトだけがわずかに遅れているような感覚を抱いていた。
頭から離れないのは、
あの整備主任の言葉だった。
「まだ早い」
その言葉の裏にあるものを、
無意識に追い続けている。
◇
午前の講義。
同期制御理論。
戦術応用解析。
機体安定運用学。
黒板の内容は理解できている。
それでもアルトの意識は、
教室の外側へと引き寄せられていた。
保守管理区画。
ただの名称のはずなのに、
思考の奥で異常な重みを持って沈んでいる。
◇
昼休み。
リオはアルトの様子に気付いていた。
いつもより言葉数が少ない。
視線がどこか遠い。
「おい、
また例のやつか?」
軽く問いかけながらも、
リオの表情は真剣だった。
アルトは一瞬迷ったあと、
小さく頷く。
「エルヴィンって人……気になる」
リオは肩をすくめる。
「じゃあ行くか。
放っとくタイプじゃねぇだろ、お前」
その言葉に、
アルトはわずかに救われたように息を吐いた。
◇
ミレイは解析室にいた。
教導院の勤務記録データを再構築している。
エルヴィン・クラウゼン。
整備主任。
創設初期からの在籍。
記録は長大でありながら、
ある一点だけが奇妙に途切れていた。
特定の年代だけ、
情報が存在しない。
削除でも破損でもない。
最初から
“そこだけが空白であるように”欠落している。
ミレイは静かに呟く。
「ここ、
時間ごと抜けてる……?」
◇
カイン班は旧資料室で調査を続けていた。
役職履歴。
整備記録。
管理系統の変遷。
そこに残るエルヴィンの名前は、
時代ごとに微妙に変質している。
ある時は整備主任。
ある時は管理補佐。
ある時は記録上にすら存在しない。
カインは資料を閉じる。
「同じ人間の履歴じゃない」
エルクが資料を見ながら呟く。
「書き換えられてるってことか?」
カインは答えない。
ただ、
嫌な確信だけが残っていた。
◇
ガルドは整備区画にいた。
周囲からエルヴィンについて問われることは多い。
だが彼は多くを語らない。
「創設期からいる古参だ」
それだけを繰り返す。
それ以上を語ろうとすると、
何かが喉の奥で止まるような感覚があった。
言ってはいけないのではない。
思い出してはいけない。
そんな感覚だった。
◇
放課後。
アルトとリオは整備区画へ向かっていた。
エルヴィン本人に会うためだ。
整備場ではいつも通り機体整備が進んでいた。
その中でエルヴィンは静かに作業をしている。
リオが声をかける。
「主任、ちょっといいか?」
エルヴィンは手を止めずに答える。
「用件を聞こう」
アルトは一歩前に出る。
「保守管理区画って……何なんですか」
その瞬間、
エルヴィンの動きがわずかに止まった。
ほんの一瞬だけ。
そして低く言う。
「……その言葉を、
まだ知っている者がいるとはな」
◇
エルヴィンは機体から視線を外さないまま続ける。
「保守管理区画は、
呼称に過ぎない」
それ以上は語らない。
リオが食い下がろうとするが、
エルヴィンは手で制する。
「今はまだ、
形にする段階ではない」
その言葉は説明ではなかった。
明確な拒絶でもない。
ただ“制御”のようなものだった。
◇
夕暮れ。
整備区画を出たアルトとリオは並んで歩いていた。
空は赤く染まり、
教導院の影が長く伸びている。
リオが小さく言う。
「なんかさ……近づいてる感じはするよな」
アルトはすぐには答えない。
だが、
確かにそれは感じていた。
核心には届いていない。
それでも、
距離は確実に縮まっている。
アルトは空を見上げる。
「もう、
戻れない気がする」
その言葉は、
風に溶けた。
