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寄付とボランティアの関係性——フィランソロピーを問い直す

今週、少し嬉しいことがありました。
尊敬する龍谷大学の深尾昌峰先生(政策学部教授・副学長)が、拙著をご紹介くださったのです。本来であれば、ご送呈すべきところをうっかり失念しており……本当に恐縮しつつも、うれしい気持ちになりました。

私が書いた本は、『相互関係フィランソロピー――包摂社会を求めて』(大阪公立大学出版会)です。
タイトルを見ても、「なんのことか」皆目見当がつかないのではないかと思います。

フィランソロピー(Philanthropy)は、古代ギリシャ語の「人類愛」に由来する言葉で、現代では「裕福な個人や組織が、公共の利益のために資金や労力を提供すること」と定義されることが多いです。要するに、富裕層が社会のために寄付したり、支援したりする営みのことです。

ただ、ずっと私は、この定義にどこか「座りの悪さ」を感じてきました。
「持てる者が、持たざる者に与える」という構図は、そもそも格差があることを前提にしています。「支援する側」と「支援される側」のあいだには、見えない上下関係が潜んでいるのでは、と感じました。

もう少し身近な例で言えば、こんなことです。
ボランティアをして、「ああ、いいことをしたな」と、清々しい気持ちになる。これは、多くの方が経験したことのある、ごく自然な感情だと思います。

ただ、少し立ち止まって考えてみると、その「満足感」「充実感」「感謝された喜び」は、いったい誰が受け取ったのでしょう。ボランティアをした自分自身も、確かに何かを受け取っているのです。

だとすれば、「施す人」と「施される人」は、本当に一方通行の関係なのでしょうか? むしろ、そこには双方向のやり取り、つまり 「Relational(相互関係)」 があるのではないか。この問いが、本書の中心にあります。

本書は、スコットランドのセント・アンドリュース大学教授、トビアス・ユングさんと、長い時間をかけて問い続けたことにも基盤を持っています。二人でやり取りを重ねる中で、「フィランソロピーとは」「誰のために、誰が何を与えているのか」という問いが、少しずつ形になっていきました。
ユング教授との会話は、私の地元の西宮や長崎五島、東京本郷など、場所を移しながら語りつくしたのでした。

書籍では、8つの章にわたって、フィランソロピーをめぐるさまざまな角度(歴史、思想、現場の実践)から、この問いをほぐしていきます。専門書ですが、その基盤にあるのは、とてもシンプルな関心です。

人と人は、もっとフラットにつながれるのではないか。
その可能性を、少しでもともに考えてもらえたら、と思います。

フィランソロピーとは、資源の移転ではなく、関係性をどう編み直すかという問いでもあると考えます。

ご興味がございましたら、ぜひお手にとっていただけましたら幸いです。
書籍ページ(大阪公立大学出版会)


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