長編小説 | 『馬と鹿と迷える羊』第三話
◆羊◆
土曜日の朝。新宿の大通り沿いで立ち止まり、スマートフォンの地図を覗き込む。目的地の赤い印に向かって路地を歩いていくと、レトロな喫茶店の前に辿り着いた。周囲の店はシャッターが閉まっていて、人通りもまばらだった。時計を確認すると7時45分。
私がここに来た理由は、昨日もらった一件のコメントにあった。
《明日も仕事だったけど、休もうと思います。》
その後も"にんじん"さんは過去の動画まで遡り、コメントを書いてくれた。
《やっと、僕じゃなくて、会社がおかしかったんだって気づけました。》
《ユイさんの動画、もっと多くの人に見てもらいたいです。生き辛さで、悩んでいる人に。》
翌週のLIVE配信にも来てくれて、こんな話もしてくれた。
《本気で、転職、チャレンジしてみます。》
『"にんじん"さん…!すごいよ!ユイ、全力で応援します!みんなも一緒に応援しよう!』
《🥕がんばれー!》
《SSレアひけよ!》
《俺も転職サイト見てみるか…🤔》
"にんじん"さんの登場を受けて、コメントの雰囲気が徐々に変わってきているのを感じた。これが、私の"やりたかった"ことだ。みんなの背中を押してあげられる、配信者になりたかった。一筋の光が、見え始めていた。
その翌日から、"にんじん"さんのコメントはぴたりとやんだ。転職活動、頑張っているのかな。気になりつつも、自分の時間を撮影や台本作りに費やしていたらあっという間に数日が経っていた。
そして昨日の配信が終わった直後、以前投稿した『あなたの命の尊さについて話します』の動画に、長文のコメントがついた。"にんじん"さんからだった。
《ユイさん、ごめんなさい。もう、耐えられないかもしれません。毎朝、駅のホームに、飛び込みたくなるんです》
「えっ…?」
心臓が、握り潰される感覚だった。
《動画視聴もコメントも、現実逃避の気休めでした。応援してもらったのに、実際は何も変われなかったんです。情けないですね。》
「そんな…」
"誰かの背中を押してあげられる"なんて、思い上がりだった。無力さを、痛感した。見開いた目から涙が溢れた。
コメントはこのように続いていた。
《…もしこんな僕を、止めてくれるなら、明日の午前8時にこの場所に来てください。(地図のURL)なんて、来れないですよね。ユイさんに甘えて、僕は馬鹿ですね。希望の光を見せてくれてありがとう。》
《ありがとう。》の文字が滲んでいく。他人の私が、大した力にはなれないのかもしれない。でも、動画を見つけてくれた、「ユイ」と出会ってくれた"にんじん"さんに、これだけは伝えるんだ。
「ユイ、さん?」
ばっと顔をあげた。目の前に長身のスーツを着た男性が、立っていた。影に覆われていても分かる、乱れた髪、虚な目、そして何より纏う空気で確信した。
その人が「死」と隣り合わせにいることを。
◆鹿◆
よく、夢の中で、夢を見てるって気づく。靄みたいのが少しずつ晴れていって、そこに2つの影が見えてくる。地面に膝をつく「ぼく」とその眉間に銃口を向ける「ホウス」。それをもう1人のぼくが、見てる。
「お前が選んだ 運命だ。」
とても優しい口調だった。世界中でぼくだけしか、分からないかもしれないね。
「言ったでしょ?ホウスになら"ころされてもいい"って。」
「…せ」
ホウスの口が、短く何かを呟いた直後
銃声が響く
穏やかな顔で眠るぼくの瞳孔を確認して、その銃を迷いなく、こめかみに当てる。
(ぼく、知ってるよ。)
銃声が響く
(いつか、夢じゃなくなること。)
赤に染まった2人を見下ろす。
しゃがみこんで、ホウスの黒髪を撫でる。
「…その時が来ちゃったら、ぼくのことも、
優しくころしてね。」
◆馬◆
「対象」は、思ったとおりに来た。距離をとった車の中からしばらく様子を伺う。スマートフォンをじっと見つめているようだ。
「ユイ」を誘き寄せるのは、容易なことだった。過去の動画をすべて視聴し、端々に含まれるワードから都内在住なのは特定できた。あとは性格・心理分析を一通り行った後、彼女の欲求を満たす言葉を送り続け、最後に彼女が最も絶望する言葉を、残すだけだった。架空の冴えない男"にんじん"として。
そうだ、"にんじん"を演じるのもこれで最後だ。目を瞑り、頭の中に存在する無数の人物像から、冴えないスーツ姿の男をセレクトする。そして、目を開ける。そろそろ時間だ。
「手筈通りに動け。」
後部座席をベッドと勘違いしているディアへ言い残し、車を出た。
「ユイ、さん?」
「"にんじん"さん…!?」
ばっと顔を上げた「ユイ」当人は、小柄で20代半ばに見える女だった。声は配信で聴いたまま。さすがに銀髪ではなくダークブラウンの髪色であったが、雰囲気はあの羊にどことなく似ていた。冷静に観察しながら、表側では"にんじん"を纏う。慣れたものだった。
「本当に、き、来てくれたんですね。信じられません…あの、僕…
セリフを言いかけたところで、突然小柄な両手が俺の左手を強く持ち上げた。「は?」という言葉が口から漏れた。
「逃げたって、情けなくたって、甘えたって、良いじゃないですか!!!助けを求めてくれた、あなたは…馬鹿なんかじゃない!!!」
その「声」は脳を揺らした。意思を宿した瞳に貫かれ、数秒後にハッとする。今、紛れもなく"素"に戻っていた。
「…ふっ、ははは!」
口元に右手を当て、笑いを堪えようにも、無理だ。セリフも、無意味だ。ハニートラップの類も観てきたが、一切の隙を見せなかった俺が、こんなに容易く、か。
「さすがだな!Sheep(シィプ)!」
急に笑い出した冴えない男を見て、目を丸くさせているユイに向き合う。
「"にんじん"が世話になったな。改めて、Horse(ホウス)と呼んでくれ。」
浴び慣れない朝日がビルの隙間を縫って、俺とユイの合間に差した。
-第三話 完-
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