見えているものを知りたくて
カメラを始めて約一か月が経った
購入したのはFujifilm X-T30 IIIというエントリーモデルのミラーレスカメラ。ISO感度、F値、シャッタースピードという言葉の意味も内容も知らなかったけど、フィルムシミュレーションに惹かれて購入を決意した。
妻から「あなたは写真が下手だからスマホから始めてみては?」と若干、反対交じりの提案をされた。
手ブレをしても気にしない、逆光で人が暗くなっても構わず撮影する、料理が逆に不味く見える。その他、数々の蛮行。繊細さや配慮のない撮影者の私と付き合ってきた彼女が訝しげな顔をするのも頷ける。
スマホ全盛。誰しも写真を撮るのが当たり前となった時代にもかかわらず、私は写真心が皆無な人間だった。
三十歳で上達の見込みも若い子に比べて薄いし、第一子が生まれたばかりの今、カメラにお金を突っ込むのではなくNISAとかで堅実に学費を積み立てるのが合理的な判断なのだろう。
それでもカメラを買った。理由は複数個あるので列挙していくと以下の通り。
私と言語化
自己を見直したい
父と写真
できれば上手く理由を一つにまとめて説明したかったけれど、思考の整理整頓が苦手なので章ごとに綴る。
私と言語化
出版社で編集をやりたかった私は持ち前のハッタリ力で最終面接まで複数社漕ぎつけるものの、役員面接では本性を見抜かれ全落ちしてしまった。
「あなたの本当にやりたいことが言葉から伝わらない。この仕事は言葉で表現できなければ何もしていないのと一緒なんです」
大手出版社の女性役員の方から頂いた言葉。
ぐうの音も出ない正論だった。学生時代、友人と過ごさずひたすら本ばかり読んでいた。千冊以上は読んでいた私は同年代と比べて、豊富な語彙や小説の知見があったので言葉を巧みに操れる側の人間だと勘違いしていた。
しかし知識量と芯からやりたいことを語る力は別である。私は本の知識はある、熱量を持って好きを語れる。ただ、本をなぜ作りたいかと他人に語れるほどの動機はない。悲しいけど、当時の私は好きの強さだけが仕事に繋がると本気で考えていた青二才だった。
どこか一社ぐらい受かるだろうとタカを括っていたので、全滅したときは内心焦った。四回生の六月なのに手持ちの駒が全くなかったからだ。
結局、内定を貰えた写真をメインに事業展開する会社に入った。同期や先輩はカメラ好きな人が多くて、機種とか撮り方の話を偶に聞いていたけど、私は全く興味を持てなかった。
好きもやりたいも失われたままの社会人生活。何とかモチベーションを上げようと様々な努力はしたけど、フルリモートで人と会わなくなり、給料も低いまま、簡単な事務作業をこなすだけの日々が続いた。誰にも声をかけられず、ひっそりと会社を辞めていくのは必然だったような気もする。
新卒就職の話など、数え切れない失敗談の一つである。私は大きな欠陥を抱えている。その欠陥は複数要因が絡み合った得体の知れないものだ。私は一つ一つ紐解いて、自己を正しく見直したい。
やり方は合っているのか分からないけど、言語化して現状を認識する。その繰り返しをここ数年、延々と繰り返している。
自己を見直したい
私は横浜の中流階級の家に育ち、中堅大学を出たどこにでもいる一般男性だ。学生時代の友達とは今でも交流を続けている、転職先の職場の人との関係は良好で偶に飲みに行ったりもしている。妻と息子の三人暮らしで円満な家庭生活を送っている。今年で三十一歳。傍から見れば、ライフステージを順当に歩んでいる人間。
しかし、私の認知は歪んでいる。自分の築き上げてきた経歴を誇れず、自分をうまく愛せず、未だに不安が神経を支配している。
数えればきりがないが、一つだけ挙げるなら、私は他人から褒められても素直に喜べない。
今の職場で、営業提案をクライアント先に褒められたことがあった。実際に受注もできて、上司からも感謝された出来過ぎる結果を得た。
周囲の反応とは裏腹に、私は少しも嬉しくなかった。褒められた瞬間に反射的に比較したのは、二つ下の後輩が別の案件で活躍している様子だった。自分が上がったのではなく、誰かより劣っていないかの確認。
褒められて喜べないのも、人に合わせすぎて自分を見失うのも、人前で身体が固くなるのも、旧来の友人にすら本音を言えないのも、根は同じなのだと思う。私はいつも、自分を他人の目に明け渡している。
若い頃は、目上の人に気に入られる愛嬌でカバーすれば大体うまくいった。だが後輩育成を任され、合わせるのではなく導く機会が増えると、途端に足元がグラついた。
仕事でダメなら、子の教育など尚更だ。本来の自己を失ったまま子どもを育てるビジョンは、到底見えてこない。
なので今更ながらもう一度自己を見直したくなった。
心掛けは立派だけど、やり方はよくわからない。だから私は写真に賭けてみようと考えた。
何を撮るかは恣意的だけど、撮ったものや時間や空間に意図以外の事実が入り込む写真。
この前よく行く公園で雲を撮った。空と雲だけの構図を撮ったつもりが、見返すと気づかなかった人の気配や木の影が映りこみ見えていなかった事物を再発見した。
私の欠陥は性格の問題である以前に、見え方の問題なのかもしれない。写真は私にはない現実を提供してくれると思えた。
私の暴走しがちな頭にはない、機械的な認知をカメラに預けてみたら少しは変われるのではないかと期待している。勿論、得たいものが得られる保証はないのだけど。
父と写真
私の父は悪い人ではないのだけど、良い人でもない。
大手ゼネコンに勤め働き詰めだった父は、金銭面で家庭を支えていた。平成初期の労働環境。過労死スレスレの残業。度重なるパワハラを受け精神的に困惑していた。今でこそ労働環境は改善されたものの、当時の家庭を支えようとした父の努力には心の底から頭が上がらない。
しかし母は父を心の底から憎んでいた。理由は沢山あるのだろう。家事をしない、感謝がない、幼児期育児を手伝ってくれない、その他諸々。
確かに父は母によく注意されていた。衣服を脱ぎ捨てたままにするとか、トイレを立ったままするとか、飲みかけのコップをそのままにするとか。
彼にとっては細かい指摘の無視の連続が十年以上にわたった結果、母の中で不信が蓄積し底についたヘドロのように剥がれない恨みへと繋がったのだろう。
父にばかり非があるわけではない。母も母で専業主婦で稼ぎが無いにもかかわらず、父に内緒で家のお金を宗教めいた団体に使い込み貯金五百万をゼロにしたとか、悪口を子どもの前で平気で言って父を間接的に攻撃していたとか、身を粉にして働いている父に対して敬意が全くない行動をしていた。
父と母は物心ついた頃から関係が破綻していた。破綻しているのに、ダラダラと関係を続けては不機嫌で居続ける両親。子どもにとっては最悪な関係だった。
夫婦仲に決定的な亀裂が入ったのは父の不倫がきっかけだった。断片的ではあるけど、小学五年生の頃母が私と妹の前で父に探偵を雇って調査したことを暴露した。
今でも覚えている。あの日、リビングで飲んでいたトマトジュースの味がしなかった。誰も使わないピアノには埃がたまっていて、青いセロハンテープが椅子の上に置かれていた。
母が「知っているんだからアンタが不倫しているの」と悲しそうだけど、勝ち誇った顔で言い放ったのが忘れられない。
幼い私にとっては、ポケモンの新作が買ってもらえるかとか、落合政権の中日ドラゴンズが優勝したとか、母に怒られたくないとか個人の快、不快が判断基準の全てであった。
父が必死で労働し、帰宅後母に洗脳された子どもたちの罵声を浴びる辛さを知る由もなかった。不倫は悪い事だけど、状況を考えると外部に理解者を求めるのは自然の成り行きだろう。
一方で状況から酌量の余地はあっても、一線を越えた方が悪と無条件にみなされるのも事実だ。子どもの前で母に暴露されたその日から、父は私の中で完全に悪となった。
それから社会人になるまでの間、私は金銭や生活以外の関わりを父と深く持とうとしなかった。お互いギスギスした関係が十数年続いたのである。
小学生から高校生まで不仲は蓄積され、お互いの関係値が下がりきったところで私は大学受験に失敗した。
学歴主義の父は私に愛想を尽かしたのか、浪人中に家出をした。父が消えて三か月後、大学受験期の二月末。宅浪中の私が自室で勉強していたら、電気が突如消える事件が起きた。
家出した父が電気代を支払わなかったのだ。リビングのソファの上で寝転びながら酒を飲んでいた母がキレている。憤慨していて何を言っているのか聞き取れず、母は父に連絡をブロックされているので、私から連絡するしかなかった。
夜になって返信が来た、冬の寒い中毛布にくるまって携帯を開いた。
「それくらい自分たちで払えよ」
想像通りの回答だったので、母には連絡がないと嘘をついた。後日、誰が支払ったのか知らないけど電気が点いた。
三か月支払わないと電気が止まるという、ライバルの受験生が知らないような知識を受験日前日にインプットした私は、全く問題が解けなかった。
正直、浪人中はろくに勉強をしていなかったので、実力通りの結果が出ただけに過ぎない。帰りの電車はやけに空いていて、地下鉄の線路と電車の轟音がよく響いた。家に帰りたくなかったけど、寄る場所も無いのでそのまま帰ったら電気が点いていた。
洗濯物は山、床の埃、台所の洗い物はハッキリ見えたけど、久しぶりの暖かい我が家だった。白熱灯のオレンジが小さい負を集めた我が家を明るく照らしていた。
あの日電気が通ってなかったら、私の首の皮は繋がっていたのだろうか。今でもあの日が人生のターニングポイントだったと、振り返ってみて実感するのである。
その後父はシングルマザーの女性と付き合い、連れ子を引き受け、新しい子を授かり、貯金が無かったので祖母に借金をして、母に慰謝料を支払い離婚した。
「一生を添い遂げたい人との子どもができました」
二〇一六年。二十歳になって数か月経った頃、電気事件以来まともな連絡を取っていなかった父から新生児写真と共に決意表明のメッセージが送られてきた。
成人を迎えたというのに、私は私とは何かを全く掴めないでいた。それから二年間は自己嫌悪、他責、無気力に見舞われた。遊び盛りの大学初期に性格が暗いやつなど好かれるはずもなく、友達もいなくなった。人生で一番孤独な時期で、本としか仲良くなれなかった。
結局、私たち家族を顧みず、正しい手順も踏まず、己の幸福に走った父の結婚生活は三年程で終わった。
離婚から三年後、私の母ではない、元奥さんは自死を選んだ。連れ子は自立し、父から金銭援助を貰いながら、小学生の幼い我が子と新しくできた恋人と実家で暮らしていた最中の出来事だ。
聞いている限り、安定した生活を送っていると思っていたので、意外な訃報だった。センシティブ過ぎる件なので、父から詳細を聞いていない。突如、私の人生に関わってきた彼女は、同じくらい急に物語からフェードアウトしたのである。
正直、過去の不倫相手なので快い印象は最後まで持てなかった他人。だが幼い子を残してなお、選択した精神状態だったのだろう。葬式には勿論呼ばれなかったけど、心の中で安らかに眠るようお祈りをした。
その頃私は今の妻と結婚していたので心は安定し始めていた。暗がりから抜け出せていたので、ショッキングではあったものの、深い所まで引き摺り込まれずに済んだ。
彼女の行為の末、残された息子は父が引き取る運びとなった。私に弟ができたということだ。オタク気質で気難しいけど、可愛くて賢い子である。父のことはどうでもいいけど、弟には幸せになって欲しい。
彼の幸せに父が必要なら、私が大人になるしかない。自分でも理由が分からないけど、模範的な長兄のような感覚が芽生えた。副産物として呪術廻戦の脹相というキャラクターが好きになった。案外お兄ちゃんも悪くないものである。
弟ができて、一緒に遊ぶようになってから、父との関係は良好になった。時代も相まって激務から解放された父は身体も心も丸くなっていた。
二十代中盤、二〇二一年。事の成り行きが大きすぎると、人間は蟠りが嘘みたいに無くなることを経験した。
父との長い軋轢を記録した事物は一切無い。不仲のため写真は撮らず、当時のLINEのやり取りも消えてしまったため私の主観しか頼るものがない。
私の人生観を司る史実は、客観的に記録されていないのである。私の人格形成は観測できない、大変困ったものだ。
私と父が二人でいる写真は乳幼児期のものしか見たことがない。父は仕事が忙しく、旅行や遊びもほとんど無かったので無理もない。
二〇二四年、石巻で暮らしていた祖母が亡くなった際に、押し入れから出てきたアルバムで、昔のツーショット写真が発掘された。
風呂場で私を抱えながら、アーっと大きく口を開ける父の裸姿だった。
父と喧嘩した際に、会話途中で父が私によくやっていた顔だ。私は喧嘩が面倒くさくなった父が適当に私をあしらっている行為だと思い、余計激怒したのを覚えている。
「父さんよくこの顔するよね」と妹と母と写真を見ながら笑って話した。父は照れくさそうに黙ってほほ笑んでいた。
二〇二五年に子ができた今なら父の顔の意味が分かる。私も我が子をあやすとき、無意識に全く同じ顔をしていた。アーっと口を開けて、笑う我が子を見てやっと父の行為を理解したのだ。
「分かるわけ無いだろう」
我が子の前で、独り言のように思わず口から漏れてしまう。幼い子をあやすための顔を、大きくなった子どもとの関係修復にも使えると考えていた父の不器用さ。
今でも父は未知の部分が多いけど、初めて父をしていた痕跡を辿ることができた気がした。
空気清浄機と子どもの呼吸音がリズムをもってずっとずっと流れていた。特にやることもなかったので、必要以上に耳を傾けた。頭で、言葉で考えるのを止めて、ただ身体で受け取りたかった。
見えているものを知りたくて
元々文章を書くのが好きだ。言葉になる前の匂い、音、心のざわつきを言語に落とし込む作業は、滅入りがちな私にとっては酸素や栄養と同じくらい必須の行為だ。
しかし、あまりにも主観が過ぎる感性なので時々迷いが生じる。過去を事実ベースで辿っているつもりでも、ネガティブな私視点のバイアスからは逃れられない。私は文章を通して前に進めているのか、同じ場所で留まっているのか、自分の書いたものを信じられない。
私は卑屈で、自己肯定感が低く、認知が歪んでいる。これは私が見てきた、かつての父そのものだ。一緒に暮らした期間が長い分、拭えない父の要素が頑固な油汚れみたいにこびり付いている。我が子が生まれた今、再認識させられる。
私は子に、私が幼い頃に体験した、家庭の不安定さから来るアイデンティティの揺らぎを味わってほしくない。だけど私にできるのは、父の写真と記憶を照らし合わせてようやく数千のピースの一つを理解した、あの非効率なやり方だけだ。息子のこれからと、私が何を見てどう感じたのかを、都度記録してあげることしかできない。
景色を見てファインダーを覗いて、シャッターを切る瞬間、主観や社会性が切れ、純粋な個の視点を観察できている感覚に包まれる。多分この瞬間のみが今の私の自己世界なのだろう。霧みたいにふわふわして掴みづらいけど、浮遊しているようで心地良い。
見えているものを知りたくてカメラを手に取った。素人で道半ばだし、飽き性なのですぐ辞めるかもだけど今のところ続けられている。
息子には私みたいに過去を振り返り過ぎないようになって欲しい。だけど彼が迷った時に、人生を前に進められる何かを今のうちに準備したい。
どうでもいいありきたりな一日が彼にとって意味になるよう、ただ、ひたすら、淡々と。
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