祈り
【序】
これは「神の不在」を見つめる少女の祈りの記録である。信仰はいつか崩れ、祈りはやがて呪詛となり、それでも言葉を発し続ける者がいる。
この物語の中で描かれるのは、赦しを求めるための祈りではない。応答のない沈黙の中で、それでもなお語るという——人間の不可能への意志そのものを描いている。
【第一部】
わたしは眠るのが怖い。
わたしの夢は、必ず誰かを不幸にする。
わたしは、イギリスの名家に生まれた。
幼い頃のわたしは幸せだった。
お父さまがいて、お母さまがいて、そしてお兄さまがいた。
わたしの最初の記憶。満ち足りた世界。
わたしはよく夢を見た。
だけど、それは他の人の夢とは明らかに違っていた。
夢の中に「わたし」が登場することはない。夢の中でわたしはテレビでも見ているかのように、全く知らない人々の生活を眺めていた。
でも、たまに知っている顔が映ることもあった。
古釘で指を怪我してしまったメイド。
可愛らしい恋人が出来た執事。
それを話すとみんなは笑って否定したけれど、数日後に夢の中の出来事は現実のものとなった。
みんなは怪訝な顔をしたけれど、
大好きなお兄さまだけはいってくれた。
「ハルはなんでも知っているんだ」
その一言で、世界はまた完璧になった。
どんな些細なことでも、お兄さまはわたしを褒めてくれた。
それが幼いわたしにはなんだか誇らしかったのだ。
ある日、夢の中でお父さまが知らない女性と抱き合っていた。
愚かなわたしは、無邪気な好奇心だけでお父さまに尋ねた。
「お父さま、あの女の人はだぁれ?
暗めのブロンドの髪をした綺麗な女の人」
お父さまは答えなかった。
だけど、その唇は青ざめ、わなわなと震えていた。
お父さまとお母さまは激しい口論の末、離婚した。
そのとき、わたしは初めて知ったのだ。
夢は、世界を壊す。
幸福な世界の崩壊。
それが私の最初の罪。
【第二部】
わたしたちはお母さまに引き取られ、日本へ来た。それから数年は平和だった。
その頃にはもう、わたしは夢のことを誰にも話さなくなっていた。怖い夢を見たときは、いつだってお兄さまが慰めてくれたから。
「大丈夫だよ、ハル。それはただの夢だ」
「もし現実になっても、ハルは悪くない。
ハルはただ夢を見ただけだ」
「大丈夫、大丈夫、大丈夫⋯」
お兄さまの「大丈夫」という言葉を繰り返し聞いているうちに、私は安心して眠りに落ちた。お兄さまの「大丈夫」はわたしを支える呪文だった。
平和な時間の終わりは、蝉の鳴き声とともにやってきた。
ある日、クラスの女子が行方不明になった。
先生は言った。
「この中で何か知っている人はいませんか」
わたしは知っていた。
彼女が見知らぬ男に連れられて、川へ向かうのを夢で見ていたから。
助けになりたくて、わたしは思い切って手を挙げた。
「××川で見つかると思います」
結果、彼女はその川の中流で見つかった。
水死体として。
首には絞殺痕があった。
大人たちはわたしに聞いた。
どこで見たの。誰といたの。
でも何も答えられなかった。
ーーそれがわたしの二つ目の罪。
みんなはわたしを指さして言った。
死神。魔女。悪魔の子。
彼女の死はわたしのせい?
わたしがあんな夢を見たから、
彼女は死んでしまったの?
分からない。もう何も分からない。
わたしはみんなの言う通り、
本当に魔女なのかもしれない。
わたしが消えれば悪夢は終わる?
もし、そうならわたしみたいな化物は死んでしまった方がいい。
「大丈夫、ハルは何も悪くないよ」
「それどころか、ハルは人に褒められることをしたんだ」
「ハルは悪くなんかない。死ぬなんて言わないでくれ」
「大丈夫、大丈夫、大丈夫⋯」
お兄さまがわたしの言葉を否定してくれる時にだけ、わたしは安心して眠りにつけた。
「大丈夫。生きていていいんだよ」
お兄さまは嫌な顔ひとつせず、
いつもそばにいてくれた。
お兄さまがいてくれさえすれば、他に何もいらなかった。
一度は失ったはずの、あの満ち足りた世界。
お兄さまは、わたしのすべてだった。
それなのに。
ああ――
わたしは、どうしようもなく魔女だ。
【第三部】
その日、わたしは手元にあった薬をまとめて飲み下した。お兄さまを救うには、わたしが死ぬしかなかった。
そうすれば、悪夢はきっと終わる。
何の根拠もなかったけれど、その時のわたしはお兄さまを救うことで頭がいっぱいだった。
次に目が覚めた場所は病院だった。わたしは助かった。そして、お兄さまは助からなかった。
君が病院に運び込まれたと聞いて、恐らくパニックになったのだろう。九度目の信号無視のあと、横から来たトラックと衝突したそうだ。即死だった。そう、お医者様は静かにわたしに告げた。
私は泣いた。
大粒の涙は大地を覆い尽くし、そこに新しい海をつくるかのように溢れた。
願わくば、わたしはその海の底に深く沈んでしまいますよう。
だけど、わたしの悲しみの総量に比べて涙の量はあまりにもちっぽけだ。
涙はすでに枯れ果ててしまった。泣きつかれたその果てに、残ったのは空洞のようにまっくらな瞳だけ。それは無慈悲な現実を映し続ける。
お兄さまは死んだ。
わたしは生きてる。
これがわたしの最後の罪。
ああ、神様。
あなたがもし本当におられるのだとしたら、相当底意地の悪い御方に違いない。
わたしに罪があると仰るのですか? ああ、神様。わたしは存在しているだけで人を傷つけてしまう女です。
もし、死すらわたしに許されていないのだとしたら、わたしはどうやってこの罪を償えばいいのでしょう?
ああ、神様。お兄さまはわたしに罪はないと言ってくださいました。何度も、何度も、何度も。
人に罪があると説かれるあなた様より、お兄さまの方がずっと崇高なお方ではないでしょうか?
ああ、神様。わたしにとってはお兄さまこそが神様でした。 大丈夫だと言ってほしい。
ハルは大丈夫だよ、何も問題はないよと優しく諭してほしいのです。
ああ、わたしだけの神様⋯
大丈夫だよ、ハル。
ハルは悪くなんかない。
ハルはお兄さまを殺してなんかいない。
大丈夫だ、大丈夫、大丈夫⋯
……本当に?
時々お兄さまの口調を真似てはみたけれど、何の効果を得ることもできなかった。
わたしは救われたかった。
もう、長いこと眠ってはいない。
大丈夫だと言ってほしい。
一切の躊躇もなく。
お前は問題ないんだって。
お兄さまを殺してはいないんだって。
この手を握って。
震えを止めるくらいに強く。
ハルは生きてていいんだって、
生きててほしいんだって
そうわたしに優しく教えてほしい。
…そして今日、あの方が訪れたのです。
【第四部】
異教の衣を身にまとい、異教の言葉で語る
その方は自身を神の遣いだと名乗りました。
戸外からの光と室内の闇のあわいで、
足首まで届く黒いスータンが、
静かにゆらゆらと揺れていました。
「人の死は、すべて主のご意思です。人は主の定めた運命を変えることなどできません。あなたには罪などありません。もう、自分を痛めつける必要などないのです」
わたしの手を握りながら、その方は言われました。
「大丈夫。あなたがいい行いをしていれば、きっと神の国でお兄さんにも会えます。いまはただお眠りなさい」
神様。
あなたは罪などないと言ってくださる。
何度でも、何度でも。
「大丈夫」
「大丈夫」
「大丈夫」
それは、懐かしいお兄さまの声。
ああ、神様。
私だけの神様⋯。
アーメン⋯。
