葵い風 第十一章:響き合う音とぶつかる心
昭和63年5月末、山形の初夏は蔵王の緑を鮮やかに染め、最上川が夕陽にきらめいていた。
桜ヶ丘高校吹奏楽部での合奏練習に参加して数日、佐藤美咲の心は複雑だった。
アルフレッド・リードの「オセロ」の重厚な響きは、確かに彼女に音楽的な刺激を与えた。
だが、その刺激はジャズやブルースへの渇望をより強く掻き立て、吹奏楽部に再び参加するイメージはまるで浮かばなかった。
叔父・佐藤健一の手紙――ニューオリンズのジャズの情景と、彼女の音への期待――が、美咲の心を強く揺さぶっていた。夕食後、居間のちゃぶ台で、美咲は和彦にぽつりと呟いた。
「父さん、…もっと、いろんな音楽に触れたい。ジャズとか、ブルースとか、自由な音に。」
和彦はコーヒーカップを置き、穏やかに目を細めた。
「美咲、そりゃいいな。…山形にも、ジャズを浴する場所がある。市内のジャズ喫茶、『月光』だ。俺の古い知り合いの藤田晋がやってる。健一も昔、よく通った店だ。行ってみるか?」
美咲の目が輝いた。
「ジャズ喫茶…! 行く! 父さん、どんなとこ?」「古いレコードが山ほどあって、マイルスやコルトレーンがいつも流れてる。晋のドラムも、昔はシビれたもんだ。…お前も、きっと何か感じるさ。」
美咲は頷き、翌日の放課後、自転車を走らせた。
蔵王のふもとに伸びる静かな通り、夕陽が古びた木造の建物に差し込む。
手書きの「月光」の看板とトランペットのイラストが、彼女を迎えた。
美咲が家を出た直後、佐藤家の固定電話が鳴った。
和彦が受話器を取り、穏やかな声で応じた。
「はい、佐藤です。…お、由紀子ちゃんか。美咲? あ、今、ちょっと出かけたとこだ。」
電話の向こうで、由紀子は少し躊躇しながら言った。
「そう、ですか…。あの、ちょっと、音楽のこと、話したかったんですけど…。」
和彦は微笑み、優しく答えた。
「そうか。帰ってきたら、電話するように伝えるよ。どうだ?」
由紀子は小さく息を吐き、丁寧に答えた。
「ありがとうございます、佐藤さん。でも、…学校で話せば大丈夫です。美咲ちゃんに、よろしく伝えてください。」
「了解だ。気をつけてな、由紀子ちゃん。」
和彦が受話器を置くと、居間にキング・クリムゾンの「21世紀の精神異常者」が小さく響いていた。
ジャズ喫茶「月光」の扉を押すと、ビル・エヴァンスの「Waltz for Debby」の柔らかなピアノが美咲を包んだ。
薄暗い店内は、コーヒーの香りとレコードの針音で満たされていた。
カウンターには古いサイフォンが湯気を上げ、壁にはマイルス・デイヴィスやセロニアス・モンクのジャケットが飾られている。
店の奥には小さなステージ、アップライトピアノとドラムセットが静かに佇んでいた。常連の客がちらほら。
20代の大学生がコルトレーンの「My Favorite Things」のフレーズをノートに書き、40代のサラリーマンがコーヒーを飲みながら目を閉じる。
60代の元バンドマンらしき男性が、隣の客と「マイルスの『Bitches Brew』は革命だった」と静かに語り合っていた。
カウンターの奥で、藤田晋が銀縁の丸眼鏡を光らせ、物静かに微笑んだ。
「君が和彦の娘、美咲さんだね。トランペットを持っている。…和彦によく似ている。」
美咲は少し緊張しながら、敬語で答えた。
「はい、佐藤美咲です。藤田さん…ですよね? 父から、ここのこと、聞きました。」
藤田は黒のタートルネックを整え、丁寧にコーヒーを淹れながら言った。
「どうぞ、座って。ジャズは耳で聴くだけでなく、心で感じるものだ。…美咲さんは、どんな音が好きなのかな?」
美咲は目を輝かせ、言葉を紡いだ。
「ルイ・アームストロングとか、ディジー・ガレスピーとか…。自由で、熱い音が好きです。叔父さんの手紙で、ニューオリンズのジャズ、知って…。いつか、そこで吹きたいんです。」
藤田はゆっくり頷き、棚からマイルスの「Sketches of Spain」を取り出した。
「ニューオリンズ、いいね。ジャズの魂が生まれた場所だ。…和彦も若い頃、そんな夢を語っていた。まずはこのレコードを聴いてみないか。マイルスのトランペットが、君に何か教えてくれるかもしれない。」
レコードの針が落ち、スペイン風のトランペットが店に響いた。
美咲は目を閉じ、音に身を委ねた。
常連の60代男性が「若い子がジャズか、いいね」と呟き、20代の大学生が美咲に軽く会釈した。
「月光」の空気が、彼女の心をジャズの海に解き放った。
一方、桜ヶ丘高校の柔道場では、夕陽が畳をオレンジに染めていた。
柔道着に身を包んだ大山剛が、腕を組んで立っていた。
県4位の柔道家としての威圧感が、柔道場を満たした。
目の前、渋々現れた遠藤新司は、借り物の柔道着を着てふてくさった顔で畳の端に立っていた。
トロンボーンケースは、柔道場の隅に丁寧に置かれていた。
「新司、話がある。」
剛の声は、低く、畳に響いた。新司は舌打ちし、肩をすくめた。
「何だよ、剛。まーた説教か? 部のことなら、もういいだろ。佐藤なんかいらねえって、俺、言ったじゃん。」
剛は一歩踏み出し、畳の上で構えた。
「口じゃねえ。体で話そう。お前の本音、こうでもなきゃ引き出せねえと思ったんだ。」
新司は目を細め、ニヤリと笑った。
「へっ、柔道で俺を黙らせようってか? いいぜ、やってやる!」
瞬間、剛が新司の柔道着を掴み、鋭い動きで内股を仕掛けた。
新司は抵抗したが、剛の力に敵わず、畳にドンと叩きつけられた。
「ぐっ!」
新司が息を吐く間もなく、剛は再び構え、冷静に言った。
「新司、トロンボーン、嫌いか? 部のこと、ほんとにどうでもいいか?」
新司は這うように立ち上がり、剛に飛びかかった。
だが、剛の腕が新司を捕らえ、大外刈りで再び畳に投げつけた。
バン! 畳が鳴り、新司は歯を食いしばった。
「うるせえ! 俺だって…ちゃんとやりてえよ! でも、佐藤が入って、監督のやり方が…!」
剛は新司をさらに投げ、肩で息をしながら叫んだ。
「なら、言えよ! 文句ばっかじゃねえ、部のために何ができるか、考えろ!」
三度、四度、新司は畳に叩きつけられた。
汗と埃が舞い、夕陽が二人の動きを照らす。
ついに新司は力尽き、畳に仰向けに倒れた。
荒い息をつきながら、剛を見上げた。
「…剛、てめえ、ほんとバカ真面目だな。…くそ、わかったよ。…少し、考えてみるって。」
剛は新司に手を差し出し、引き起こした。
「新司、お前、トロンボーンの音、悪くねえんだ。…部、みんなで良くしていこうぜ。」
新司は目を逸らし、ぶっきらぼうに頷いた。
「…ったく、こんな話、畳の上でしかできねえのかよ。」柔道場の夕陽が二人の汗を照らし、畳の匂いが青春のぶつかり合いを包んだ。
美咲のジャズへの夢、由紀子の届かなかった電話、剛と新司の衝突――桜ヶ丘吹奏楽部に、葵い風がそっと吹き始めていた。
