[創作大賞オールカテゴリ部門応募作品]たとえ僕のこのからだが愛じゃなくても。
僕に物心がつく前に、僕の父は姿を消した。母から父についてそれ以上聞くことはなかったし、親戚の間でも、父の話はタブーということになっている。そのせいか、家には父の私物はおろか、写真すらもない。だから、僕は父のことを何も知らない。
いつからか、僕は愛に飢えている。いや、飢えているわけではないか。正確に言うなら、愛を知りたいんだ。ひとり親の母に愛されている実感がない。会ったことのない父に愛されているとも思えない。「愛される」がなんなのか、僕には分からない。
中学生になって、僕は生まれて初めて母に反抗した。きっかけは確か、とても小さなことだったと思う。小さい出来事が、僕の反抗心を炙った。
「母さんなんか大っ嫌いだ」
そう言って、僕は家出をした。手持ちは膨らみのない財布と中学校の入学祝いで買ってもらったAndroidのスマホだけだったが、なんとかなると思った。
結局行方不明届かなんかのせいで、僕の逃避行は5日たらずで終わった。
久しぶりに見る母は随分と弱っているみたいで、目の下には濃い隈があった。母は何も言わずに僕に近寄ると、僕をキツく抱きしめた。結構キツく抱きしめるものだから、すごく苦しかったけど、すごく心地よかった。これが、「愛される」なのかな。
僕は腑に落ちる。母に反抗したくて、家出したわけじゃない。愛されたかったんだ。誰かに愛されたかった。心配して欲しかった。気遣って欲しかった。撫でて欲しかった。褒めてほしかった。抱きしめて欲しかった。愛されるという事象を、知らぬ間に欲していたのだ。
高校生になって、僕は初めて父の顔を見た。写真に映る細々とした男。身長は一緒に写る母より少し高く、僕と同じくらい。頰骨はうっすらと浮かび、口元は笑っていない。メガネをかけているから、目はよく見えない。それでも、僕の父ということだけは、なぜかすんなりと受け入れることができた。
この人が、僕と母を捨てた。
怒りなんかよりも、落胆の方が大きかった。この人さえいれば、今より家は裕福で、母は必死に働かなくてもよくて、僕は好きなことができて、5歳差くらいの弟か妹ができて、もっと友達ができていたのかもしれない。好きな人ができて、嫌いな人ができて。先生に好かれて、嫌われて。小説を読んでいなかったかもしれない。音楽を作っていたかもしれない。スポーツで活躍するような選手になっていたかもしれない。新聞記者を目指していたかもしれない。
たらればの話をしたところで意味がないのは分かっている。分かってはいる。それでも、僕は想像してしまう。父がいる僕を。父がいる母を。父がいるリビングを。父がいる朝を。父の姿を。父という存在によって変化するであろう、僕の人生を。
あー。そうか。僕は。父親が欲しいのだ。父親を知りたいのだ。
父の写真を見た日の夜、僕は母にこっぴどく叱られた。そりゃそうだ。あれほど入るなと言われていた母の部屋に入り込んで、勝手に本棚を漁ったのだから。ひどく怒られたけど、変な達成感のせいで怖くはなかった。
空気を吐いて、吸って、肺に溜まった空気が抜け出す前に、僕は母に言った。
「母さんは、父さんのこと好き?」
何も考えずに、息をするみたいに、自然と、発した言葉。空っぽな言葉。小学生が考えそうな幼稚な言葉。僕の体はアレルギー反応を起こしてるみたいに熱を身体中に帯びている。気持ち悪い。手に滲んだ汗が気になって、さっきから手をズボンで拭ってる。
「私があなたを愛していないって言ったら、あなたはどう思う?」
空気がぬるっとした肌触りに変わる。母の温度のない声が、さっきまで熱かった体を冷やす。死んでしまったみたいに冷えた体。五感が研ぎ澄まされている。研ぎ澄まされているのに、何も感じることができない。矛盾した感覚。
母の目は僕を見ていない。それが、なんとなくずるいと思った。
「そっか」
気が抜けた声が漏れる。それを聞いてか、母は呆れたように笑う。
「驚かないのね」
「うん。だって、そうだったらいいなって思ってたから」
反抗するかのように僕が言うと、母はまた笑う。でも、さっきとは違う。少しだけ、悲しそうな笑み。
そう。僕は母に愛されていない。だって、どうやったって、母に愛されている実感がないのだから。怒られても、抱きしめられても、ご飯を作ってくれても、「おやすみ」と言ってくれても。母には、愛とは違う何かがあることを、僕は知っている。違う目で見られていることを、僕は知っている。
「父さんはどんな人だったの?」
僕が話題を変えて母に言うと、母はゆっくりと僕の目を見る。目が潤んでいる。ビー玉みたいに、母の目は光を飲み込んでいる。綺麗な、目。
「優しい人だった。優しくて、素直で、あなたを愛していたわ」
母さんはそう言って俯くと、はあと少しだけ長く息を吐く。ずっと、ずっと隠してきたことなのだろう。父さんのことも、自分のことも。僕からずっと遠ざけてきたのだ。
「あなたの父さんがいなくなった後に、置き手紙が見つかったの」
愛してる。
愛しているんだ。
君も、あの子も、愛している。
だから、ごめんなさい。
僕は、二人を平等に愛すことができない。
平等になれない、自分が怖い。
「私は、あの人を愛していたわ。本当に、愛してたの。優しいところも、少し不器用なところも、たまに見せる泣き顔も。だから、手紙を読んだとき、私はあの人をもう愛さないと決めたの。私とあなたを捨てた。そんな人を愛したくない。あなただけを愛したい。あなただけが、私の全てだと思ってたの。でも、なんだか違ったみたい」
母のビー玉がゆらゆらと揺れている。やがて溢れた雫が頬をつたり、床に落ちる。母もそれに気づいたようで、手で雫を拭う。
「私はあの人と、あなたを重ねてたのよ。結局、あなたのことを見ていなかったの。あなたを、あの人の代わりにしていた。あなたが家出した時も、あの人が消えるだなんて考えて。自分が怖くなった。私は、私が分からない。あなたを愛したいはずなのに、気づいたらあの人を見ている。私は、最低な母親なの」
そう言って母さんは優しく笑う。笑っているのに、涙を流している。
怒る、べきだろうか。悲しむべきだろうか。罵倒するべきだろうか。僕を愛してくれと、正直に言うべきだろうか。
いや。違う気がする。
「僕は、母さんを愛してるよ」
え、と母が声を漏らす。僕も驚いた。今まで、愛されることばかり考えていたのに。自分からこんな風に言ったのは初めてだった。
「父さんが僕や母さんを愛してくれてたなんて、僕には分からないよ。でも、僕は母さんを愛してるよ。守りたいと思ってる。長生きしてほしい。ずっと生きててほしい。たとえ母さんに愛されてなくても、偽物の愛だとしても、僕はそう思うよ」
こんなにすらすらと自分の思いを口にできたのはいつぶりだろう。愛されていないことに、僕は安堵しているのかもしれない。
親から無条件で愛してもらえるのは子どもじゃなくて子供から無条件で愛してもらえるのは親って気付いて。
これはYouTubeのある動画のコメント欄に投稿されていたものだ。
僕は、母を愛してる。誰かに愛せと言われたわけでも、母に愛して欲しいと言われた訳でも無い。僕が選択したことであり、選択するしかなかった。きっと、母も父も同じ。
僕は誰かを愛したいと思うし、愛せると思う。だって、愛は呪いだから。誰かに依存した先に、愛がある。母が父を愛しているように。僕が母を愛しているように。父が、僕と母を愛したように。人は、人に依存する。
だから、愛されたいと思うのは辞める。
だって、欲張りじゃないだろうか。
誰かを愛せるのに、愛されたいだなんて。
たとえ僕のこのからだが愛じゃなくても。
愛せる。
