VTuberなんて本当はいないんだよ、とデミアンは言った

ぼくらはいっさいのものを、あがめもし、尊重もしなければいけないんだ。全世界をだよ。この人工的に切り離された、公式の半分だけでなくね。だからそうなれば、ぼくらは神の礼拝とならんで、悪魔の礼拝も行わなけりゃならない。それが正当だと、ぼくは思うんだがね。それでなかったら、悪魔をさえ包んでしまうような神を、作り出すほかはあるまいね。そしてこの世でいちばん自然なことが行われるときに、こっちに目をつぶらせないでくれるような神をね。

ヘルマン・ヘッセ作・実吉捷郎訳『デミアン』岩波文庫版 pp.105-106

VTuberなんていない。

とか、ぶちあげてみる。個人的な観想です。とうぜんデミアンもそんなことは言ってない(言うまでもなく!)。

じつは広く認知、承認されたVTuberという名称・区分からモノを語ることに、そこはかとなく、ずっとためらいがあるのね。言い換えるなら、少しばかりのうしろめたさ、とでもいったような。VTuberと言う・言われるとき、そこで対象化されるものの内容が、一体だれを指すのであるのか不明瞭であることが、小骨のごとく喉へ引っ掛かる。

全体性と個別性

ぼくの問題が、あらゆる人間の問題であり、すべての生命と思考の問題である、というさとりは、突然ある神聖な影のように、ぼくの上におおい被さってきた。そしてどんなにふかく、ぼくのもっとも固有の、個人的な生活と意見が、大きな理念の永遠の流れに関与しているかを見てとり、かつ突然そう感じたとき、ぼくは不安と畏敬の念におそわれた。

同pp.106-107

引用部の少し前(p.96)では、自由意志についての議論が展開されている。人間には自由意志がないといったことを示唆しながら、しかし自分は極度に集中した意志によって、目的を成し遂げることができるというデミアン。その論の矛盾をジンクレエルは指摘する。どうやらここでは、デミアンの見ている全体性(目に見えない力の連関)が、ジンクレエルにはみえてないことが仄めかされているらしい。ただしデミアンが全知全能というわけではもちろんなく、デミアンもまた、もっと大きな全体性の一部に過ぎないだろう。あるいはジンクレエルとは別の全体性を生きているだけだ、と言っていいかもしれない。

一見したところ全体に見えるが、しかし本当はまったく全体ではない全体が目の前にあるのみだ――ということへの気付きが、世界の見方を変える。

「左翼は……」とか「アンチは……」といった、さいきんSNSで多く見かける、自己経験からかけ離れているだろう胡乱な語りと、「VTuberという総体的名称を用いて個別的何事かを語る」ということは、全体性と個別性との混交という点で似通う。各所で発生する齟齬は、偽りの全体性同士がぶつかり合うときに生じる火花、というわけだ。

何かを論じる場において「VTuber……」と言うとき、ここには処理流暢性への無意識的な従属、惰性がある。ぱっと見には伝わりやすいと思われるから、ぼくはそれをVTuberと言う。だがぼくがこのとき思い浮かべるVTuberと、相手が思い浮かべるVTuberは、おそらく違っている(ぴったり一致しない)だろう。

ゆえにVTuberについて語り論ずるとしながらも、突っ込んだ話をするときには、共通イメージとして固有名を持ち出さざるをえなくなる。これってつまりは、なんらかの固有性に頼らずVTuberを語ることはできない、VTuberそのものについては何人たりとも語りえないということだったりしないか。冒頭に「VTuberなんていない」としたのは、だいたいこんな具合の理由による。

同じことを逆から考えてみよう。「結城さくな」「宝鐘マリン」「月ノ美兎」「花譜」といった固有名を持ち出し、それらについて詳細に論ずることは、VTuberについて語ることになりえているだろうか。いや、それではずいぶん不足という気がするんだよ。ならば知りうる限りの固有名を全て挙げ尽くせば、この不足感が解消されるかといえば、そうじゃなく、むしろ知っているもの以外を知らないのだということが、かえって全体の特定不能さとして際立つようだ。

VTuber文化圏にはVTuberを分析的に定義しようとする学術的試みがあるけれど、これには必ず「事例漏れがある」といったツッコミが入る。上述した全体性と個別性の混交が、誰の頭のなかにもあるからだろう。誰かが「VTuber」と呼称するその(まったく不完全であり個別的な)全体性によっては、別個体における経験の領域をカバーしきることができない。

だから誤解を極力回避するためには、初めから(魚の血合い骨の如き)全体性をしっかり取り除いておくのがよいのだけど、それでも取り逃しはあるし、完璧に除去しえたとて誤解は勝手に(身勝手に)生じるのでね。言語コミュニケーションの限界。

この語りえなさは、語り得るか。ぼくは語りえないことを認識する苦味に耐えつつ語るしかないと考えており、そうしているわけだが、これが成功しているとはとても言い難い。たぶん沈黙しているほうが、よほど居心地よくいられるはずだ。何かについて真剣に語れば語るほど、煩悶する時間も増えてしまうのだから。

では明日から黙るか?

と、何度も思った人生でした。

しかし黙れないのが性分なのだった。

わかるよ。きみは人に話しつくせないほど、いろいろ考えているんだね。そこで、もしそうだとすると、しかし、きみは考えたことを、そのまま生活に生かしきったわけじゃない、ということも、自分で知ってるね。ところが、それはいいことじゃないよ。ぼくらが生活の上に生かす思想だけしか、値打はないんだぜ。きみの言う『許された世界』は、世界の半分に過ぎないのを、きみは知っていたね。そうしてあと半分を、牧師や教師がするように、そっと隠してしまおうとしたんだね。そんなこと、うまく行きゃしないぜ。一度考えることをはじめてしまった者には、そんなことだめなんだよ。

同pp.107-108

言って良いことと悪いことがある、とされる。でも、本当にそうなのかと、いちどは疑ってみるべきなんだ。自分の判断以前に良し悪しを決めてしまう、その規範性や惰性を。これは別に、悪事を為せとの勧めではない。この反省には、氾濫する前例に従い、誹謗中傷やデマ拡散を「しても良いこと」と見なしてしまうようなことなども含む。

「ぼくたちはめいめい、ゆるされていることと、禁じられていること」を自分ひとりで見つけなければならない、とデミアンは続ける。そして「独断独行でなければだめさ」と言い、そこで自らの饒舌に対する後悔をにじませると、言葉を切った。

お利口そうなおしゃべりなんて、ぜんぜん価値がない。ぜんぜんないね。自分というものから、離れてゆくばかりだ。自分をはなれてしまうというのは、罪悪だよ。

同p.112

すらすら書き上げてしまった自分の言葉に、恥を感じることがよくある。このnote記事だって、公開直後から、自らの恥を示す最新の象徴となるだろうことは間違いない(なのでいつも公開を躊躇う)。もったいぶった言い回しや、引用による箔付けも、ずいぶん着飾っていてよそ行きで、実態からはずいぶん離れている。

ぼくはむろん、ただひとりでにぼくの中から出たがっているものだけを、生きようとしているにすぎない。それがなぜ、こうまでひどく難しいのだろう。

同p.164

物事を為すのに苦渋が付きまとう。しかしそうだとしても、ぼくには、このような恥を感知する仕組みが必要なんだ。自分から出てきたもののうち、余剰を突き止めてくれる感性を働かせてくれる仕組みが。より個人的な言葉で、シンプルに、わたくし語りがしたいと望むゆえに。

自分自身の道を、それがどこへ通じていようとも、手探りで前進すること、それ以外に決して決して、なんの義務もありはしないのだ。

同p.219

己の知的限界を考えれば、目先にぶら下がっている結論らしきものに飛びついたって、よいことなどまずありえない。だとしても、いったんはどれかを選ばなければならないだろう。ひとつひとつの言葉選びにも、自分の存在を賭けて、ゆっくりじっくり、探し、連ねてゆくしかない。間違い、惑い、落ち込み、奮起し、ときには人の言葉へ目を向け、耳を傾けるなどし。雛の嘴打ちの如く、自らがそこから出ていくための穴を、少しずつひろげるように。