藤原一族について 藤原鎌足
日本史を勉強しているといろんな「藤原」氏が出てくる。古くは大化の改新で藤原(中臣)鎌足、近代では近衛文麿、割と最近では細川護熙までほぼ全時代網羅している。
ずっと権力を保持しているにもかかわらず天下は取らない。いったいどんな一族なのか、気になったので調べてみた。AIを使って。
藤原鎌足
まず最初に出てくるのは「藤原(中臣)鎌足」ではないか。
中大兄皇子と蹴鞠の会で出会い、親交が深まり、後に大化の改新(645年)を実行した。というのが鎌足の大きな実績だ。鎌足の生涯は614~669年、大化の改新が起こったのは31歳。31歳という年齢は、当時としては若すぎず体力がまだある時期なので大化の改新を起こすにはベストのタイミングだったらしい。55歳で亡くなっているが、これも当時は「人生50年」と言われていたような時代だったので早逝、ということでもないらしいが、当時でも60~70まで生きる人はいたのでちょっと早いな、という感じではないだろうか。
高い知性と教養
藤原鎌足は高い知性と教養の持ち主だった。いろんなエピソードがある。
誕生時の伝説
「藤氏家伝」という書物には、鎌足がお母さんのおなかの中にいたとき、胎児(鎌足)の鳴き声が外まで聞こえた、12か月かけて生まれた、という伝説が記されている。
もちろんこのエピソードは鎌足が普通の人とは違う「非凡な才能」を持っていたことを強調するための逸話だが、なぜ昔の偉人のエピソードは異常に話を盛るのだろう?と思ってしまう。仮に大谷翔平が胎児(大谷翔平)の鳴き声が外まで聞こえた、12か月かけて生まれた、とアピールしても凄い!とはならないだろう。
当時最高峰の私塾で「秀才」と称される
遣隋使として長年中国で学んだ知識人・南淵請安(みなぶちのしょうあん)が開いた私塾に通っていた。同じ塾には中大兄皇子も通い、また後に大化の改新で対決する蘇我入鹿も通っていて、鎌足と入鹿は「秀才」という評判であった。この時から鎌足はひそかに「打倒蘇我氏」を思っていたという。皇子が私塾に通う、というのは変かもしれないが、当時の最先端国家である「唐」の仕組みを学ぶことは、次世代のリーダーである皇子にとって必須科目であり、南淵請安は32年も大陸にいた「生き字引」のような存在だったので、皇子自ら教えを乞いに行ったらしい。
中国の兵法書『六韜』を丸暗記
鎌足は幼い頃から非常に聡明で、中国の代表的な兵法書である「六韜(りくとう)』をすべて暗記していたと伝えられている。六韜とは太公望が記したとされる兵法とリーダー論の極意書。この時に学んだ知識が、のちの大化の改新に活かされたと考えられる。
沈着冷静なプロデューサー能力
鎌足は単なるインテリではなく、その知識を「現実の政治」に落とし込む実行力があった。
大化の改新の時も入鹿から武器を奪う、蘇我石川麻呂を中大兄皇子陣営に寝返らせる、など事前の根回しを実行し、成功させた。
名言
「大きなる事を謀るには、輔(たすけ)有るには如かず」という言葉が伝わっている。これは「大きな計画を成し遂げるには、優れた協力者を得るのが一番だ」という意味で、仲間との協力の重要性を説いているらしい。
ゆかりの場所
談山神社:奈良県桜井市にある。鎌足と中大兄皇子が多武峰の山中で「大化の改新」の密談をしたことからその名がつきました。現在は鎌足を祭神として祀られている。
阿武山古墳:大阪府高槻市・茨木市にある。:鎌足の墓である可能性が非常に高いとされており、そこで見つかった遺骨をX線などで解析したところ、背骨を骨折する大怪我を負い、それが原因で寝たきりになって亡くなった」可能性が高いことが分かった。これは1300年前の書物にも天智天皇から「落馬して背骨を痛めたと聞いたが、大丈夫か」とお見舞いのメッセージをもらっていることが記載されていることから事実だとされている。
なぜ「中臣」から「藤原」に変わったのか
鎌足は死の直前、天智天皇から新しい姓を授かった。それが「藤原」である。しかしなぜ新しい姓をもらうことになったのだろうか?
国家への多大な貢献に対する「ご褒美」
鎌足は、中大兄皇子(天智天皇)と共に蘇我氏を倒し、その後の政治改革「大化の改新」を成功させた最大の功労者でした。669年、病に伏せっていた鎌足を天智天皇が見舞い、これまでの忠誠と功績を称えて「藤原朝臣(ふじわらのあそん)」という姓と、最高位の「大織冠(たいしょくかん)」を授けた。
ゆかりの地名にちなんだ命名
「藤原」という名の由来は、鎌足の生地(または住まい)があった大和国高市郡藤原(現在の奈良県橿原市付近)という地名。当時、有力な豪族にはその拠点となる地名を姓として与えることが名誉なことだったらしい。
神事の一族からの「独立」
中臣氏はもともと「神事(祭祀)」を司る家系だったが、鎌足は神事よりも「国政(政治)」に深く関わった。これ以降
l 藤原氏:政治を司る家系(鎌足の子・不比等の子孫のみが継承)
l 中臣氏:引き続き神事を司る家系(鎌足の親族などが継承)
というように一族が分けられた。
以上が姓を授けられた理由だが、ちょっと疑問が。
この後、「藤原京」という都が奈良に作られるが、なぜ時の権力者・持統天皇は家臣である「藤原」と同じ名前の都にしたのだろうか?都を「藤原」にするなら、家臣の姓を別の姓にすることも可能に思えるが、その辺はどうなのだろうか。
すべての起源は「藤原」という地名
現在の奈良県橿原(かしはら)市付近は、古くから「藤原」や「藤原の地」と呼ばれていた。
鎌足の「藤原姓」
鎌足がこの藤原の地に家(または別荘)を持っていたため、天智天皇から「ゆかりの土地の名前」として「藤原朝臣」の姓を授かった。
都の「藤原京」
鎌足が亡くなったずっと後、持統天皇(天智天皇の娘)がこの同じ「藤原の地」に日本初の本格的な中国式計画都市を建設したため、「藤原京」と名付けられた。つまり、藤原京は「藤原氏の都」という意味ではなく、「藤原という場所に建てられた都」という意味になる。
しかしこの理由ではあまり納得できない。私が権力者ならそれでも都の名前を別にするか、家臣の姓を変えさせたい。
そこでもう一つの説だ。
当時の正式名称は「新益京」だった
実は、当時の人々はここを「藤原京」とは呼んでなかったらしい。
日本書紀などの当時の記録には、「新益京(あらましのみやこ / しんやくきょう)」と書かれているようだ。これは「新しく拡張された立派な都」という意味らしい。
のちの時代(平安時代など)になってから、歴史家たちが「藤原の地にあった都だから藤原京」と呼ぶようになり、それが現代の教科書にも定着した。
これなら納得。ようやく謎が解けた感じがする。
つづく。次は大化の改新に触れたい。
