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なぜ婦人団体やフェミニストは男性を攻撃するのか

なぜ婦人団体の人々やフェミニストと呼ばれる人たちは、男性に対して攻撃的になるのだろうか。単に気に食わないからなのか。その背景について考えてみた。

X(旧Twitter)などのSNSで彼女たちの主張を見ていると、いくつかの共通点が浮かび上がってくる。
そこには、男性そのものに対する批判だけでなく、男性が性的に楽しんでいるとされる風潮に対する強い拒否感や攻撃性が感じられる。

では、なぜそのような思想に至るのだろうか。

一つの可能性として考えられるのは、彼女たち自身が恋愛や私生活において、男性に対して満足できていないのではないかという点である。
突き詰めれば、「隣の芝が青く見える」現象と同じで、自分以外の女性が恋愛に満足している様子を目にすることで羨望が生まれ、その嫉妬心が、結果として男性への攻撃という形で表出しているのではないか。

あるいは、より直接的に言えば、自分が思うように異性から好かれない現実に満足できず、その感情が、自分を好いてくれない男性に向けられている可能性もある。

では、もしその仮説が正しいとしたら、その先にはどのような心理や行動の変化が待っているのだろうか。そこまで踏み込んで考える必要がある。

この問題は単純な善悪や対立の構図では語れない。感情の奥底にある満たされなさや比較意識、承認欲求といった要素が複雑に絡み合っているのかもしれない。
だからこそ、表面的な言動だけでなく、その背景にある心理構造を丁寧に見つめることが重要なのではないだろうか。

〜〜「女性の地位向上」という名のもとに〜〜

昨今のフェミニズム運動や女性人権団体が生み出している風潮について、私はある違和感を抱いている。
彼女たちは「女性の地位向上」という大義を掲げながら、実際には自分たちが気に入らない性的コンテンツへ攻撃を加えているように見えるからだ。

この構図は、決して最近に始まったものではない。1990年代に起きた有害図書騒動も、その一例だろう。
男性読者という当事者とは直接関係のない婦人団体からの抗議によって、男性向け青年雑誌への規制や、人気漫画の打ち切りが強行される事態が起きた。

本来、娯楽を楽しんでいる人々とは無関係な団体が「社会正義」を掲げて制限を課すことに、果たして妥当性はあるのだろうか。
ましてや、明確な被害者が存在するわけでもないにもかかわらず、「犯罪を助長する」といった主張がなされる。そこには、実在しない被害者像が作り出されている可能性すら感じる。
根拠の乏しい理屈によって表現規制が進んでいくことに、疑問を抱かざるを得ない。

例えば、お色気番組も同様だ。見たい人が見ればいい、という単純な話ではないだろうか。
それにもかかわらず、視聴者でもない団体が「子どもの教育のため」として制限を求め、結果として現在では深夜番組ですらお色気企画はほとんど姿を消してしまった。

確かに「子どものため」という大義名分は耳障りがよい。しかし、その本質は本当にそこにあるのだろうか。実のところ、自分たちが気に入らないという感情が先にあり、その正当化として社会的な理由が後付けされているのではないか——そう考えてしまうのである。

表現の自由と社会的配慮。そのバランスは難しい問題だ。
しかし少なくとも、誰のための正義なのかという問いは、常に冷静に見つめ直す必要があるのではないだろうか。

〜〜可視化された「少数意見」が持つ影響力〜〜

まとめると、女性人権団体やフェミニストによる男性向けコンテンツへの攻撃は、根本的には自らが満足できていない現状への鬱憤が、男性の楽しみを潰す方向へ向けられているように感じられる。

夫婦関係や恋人関係に恵まれ、男性という存在そのものに愛情を持てている人たちは、少なくとも声高に騒いではいない。そのこと自体が、一つの象徴ではないだろうか。裏を返せば、現実社会において満足できない立場に置かれた女性たちが、強く声を上げているとも考えられる。

これまでの社会では、いわゆる「勝ち組」とされる立場の人間が強い影響力を持ち、その発言が正義として扱われる傾向にあった。しかし近年、人権団体やフェミニストが主張する規制の中には、日清のうどんのCMへの批判のように、いわばイチャモンや難癖に近いと感じられるものも含まれている。

本来、成熟した大人が訴えるべき議論というよりも、普通の表現までも性的だと騒ぎ、規制を求める動きに見えてしまうのである。

つまり、今起きている現象はこういうことではないか。恋愛や人生において満足を得られなかった、これまでなら大きな発言権を持たなかったはずの人々が、Twitterやインターネットという媒体の登場によって可視化され、全国に点在していた偏った思考を持つ人々を集結させ、一つの大きなマイノリティ集団を形成した。

そしてその集団が、「女性は〜」といった大きな主語で発信する。その投稿を何となく目にした一般の女性も、「地上波で女性の裸を出すな」といった主張に対して、「無くなる分には構わない」と軽い気持ちで賛同してしまう。こうして賛同の積み重ねが、大衆意見のように見えていく。

結果として、本質的には一部の不満や鬱屈から出た主張であったとしても、それが大きな影響力を持つ現象へと変わってしまうのである。

インターネットは、声なき声を救い上げる装置であると同時に、偏った少数意見をも拡張する装置でもある。その功罪を、私たちは冷静に見極める必要があるのではないだろうか。

〜〜影響力を持つべき価値観とは何か〜〜

本来、いわゆる「弱者」とされる立場の主張が過度に大きな影響力を持つことは、必ずしも望ましいことではないと私は考える。なぜなら、社会の中でうまくいかなかった人間の価値観や思考が、そのまま他者へ波及してしまう可能性があるからである。

むしろ浸透すべきなのは、男性を愛し、男性という生き物の性質を肯定的に受け入れられている女性の価値観ではないだろうか。異性を敵視するのではなく、理解しようとする姿勢こそが、社会にとって建設的な方向性を示すはずである。

しかし残念ながら、現状はその真逆の方向へ進んでいるように見える。なぜなら、人生や恋愛がうまくいっている女性たちは、すでに現状に満足しているため、大声で主義主張を叫ぶ必要がないからだ。満たされている人は、声高に訴えない。静かに、自らの幸福を享受している。

その結果、不満を抱える側の声ばかりが目立ち、あたかもそれが社会の総意であるかのように拡散されていく。

だからこそ、昨今の女性人権団体や一部フェミニストの発言力や影響力については、私たちが一致団結して距離を置き、過度に反応しない姿勢を持つべきではないかと思う。

根拠は明確である。人間関係や恋愛関係がうまくいっている人々の価値観こそが影響力を持てば、結果として幸福になる人間は増えるからだ。満たされている人の考え方は、周囲にも安定や安心をもたらす。

一方で、SNS上の過激なフェミニスト的言説に共感し続けることは、その思想に影響された人自身を、より不満や対立の感情へと引き込んでしまう可能性がある。そのことに、私たちは気づくべきではないだろうか。

どの価値観に共鳴し、どの声に影響を受けるのか。その選択が、個人の幸福にも、社会の方向性にも大きく関わっているのである。

自分は大学等の女子限定補助など、性別による不当な優遇に対し、憲法の平等権に反するとして、内閣府・各政党へ意見を提出しました。
「一人は無駄」と沈黙しないでください。沈黙は「同意」と見なされます。
理不尽な差別の連鎖を止めるため、あなたの声を届けてください。
#男女平等 #男性差別 #拡散希望

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