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現代の「女性優遇」「男性差別」を白人と黒人に置き換えると、いかに異常事態か見えてくる!

今の日本の男と女を黒人と白人に置き換えた世界のお話をします。
日本での現在の男性、女性で起きてる話を白人と黒人に置き換えてお話するので、ある架空の欧米の国だと思って想像してみてください。
いかに今の日本での「女性優遇」「男性差別」が異常が見えてくると思います。
男性の方は当事者ではなく白人黒人という客観的な人種差別の話として、女性の方は被差別される黒人女性になったつもりで、想像しながら読んでみて欲しいです。

架空の欧米国家――
そこは、私たちが知る現実とは「人権」の概念のない、奇妙で歪な社会です。
この国では、「白人」と「黒人」の立場が、既存の社会常識とは全く異なる論理で規定されています。
あなたがもしこの国を訪れたなら、その光景に違和感を覚えつつも、これが「当たり前」としてまかり通っている事実に衝撃を受けるはずです。
ここでは、その一端をいくつかの政策からご紹介しましょう。

教育と生活の現場から
1. 大学入試に設けられた「白人枠」
この国では、大学入試において「白人枠」なるものが存在します。白人と黒人が受ける共通試験と比べ、白人枠の難易度は意図的に低く設定されています。
国が掲げる大義名分は、「社会のあらゆる分野で、より多くの白人が活躍できるようにするため」というもの。実力主義とは対極にあるこの措置により、白人は相対的に有利な条件で高等教育の切符を手にします。
2. 白人専用の「生活支援金」
大学へ進学すると、さらなる恩恵が待っています。白人の学生には、月3万円の家賃補助が支給されるのです。
当局の言い分はこうです。
「白人が犯罪被害に遭うリスクを減らし、よりセキュリティの整った安全な住宅に住めるようにするため」
この経済的サポートにより、彼らは学生生活の初期段階から、黒人とは異なる水準の住環境を享受しています。
3. 「トイレ」に見る空間の格差
最も露骨な対比が見られるのは、公共のトイレです。
国は最近、白人専用スペースを拡大するために、黒人用のトイレを意図的に狭くするという施策を打ち出しました。
白人のためのスペースには、広々とした空間だけでなく、豪華なパウダールームまで完備されています。
皮肉なことに、以前この国では「白人のトイレが混雑しないように」という名目で、白人にも黒人同様のオープンスペースを利用させる改革が議論されたことがありました。
しかし、当の白人たちが「プライバシーが守られない」と猛反発したため、その試みはわずか数日で撤回されたという経緯があります。

この国の社会構造は、こうした小さな「優遇」と「制約」の積み重ねでできています。またこの国において、公共の空間は「白人が快適に過ごすための場所」として最適化され続けています。
その境界線は、もはや生活のあらゆる場面に、まるで透明な壁のように張り巡らされているのです。

日常のあらゆる場所に敷かれた「見えない境界線」
1. 移動手段にまで浸透した隔離
通勤・通学の要である鉄道には、「白人専用車両」が導入されています。
導入の理由は「一部の黒人による犯罪から白人を守るため」というもの。一度でもトラブルが起きれば、それは即座に「黒人全体のリスク」として換算され、白人の安全を担保するという名目で隔離が正当化されます。
2. 公共空間からの「排除」という名の運用
街を歩けば、「黒人お断り」という看板は珍しいものではありません。
飲食店、ゲームセンター、あるいは何気ない公共施設に至るまで、黒人が足を踏み入れられない領域は着実に広がっています。
コンビニのトイレさえも、二つあれば「白人専用」と「共用(つまり黒人も可)」に分断されており、黒人が利用できる場所は、常に限定的で、そして常に「二の次」です。
3. 「白人だけの特権」が商品化される社会
街中の飲食店では「白人会」なるものが社交のステータスとして持て囃されています。「白人だけで集まり、食事を楽しむ」という名目のこの企画は、店側がこぞって宣伝し、専用メニューまで用意するほどの人気コンテンツです。
当然、そこに黒人が混ざる余地はありません。彼らはその輪の外で、同じサービスを受ける権利すら許されないのです。
4. 「白人デー」と「無料」の経済格差
消費の現場でも、明白な差が設けられています。映画館や飲食店がこぞって開催する「白人デー」では、白人だけが料金半額という恩恵を受けます。
対照的に、黒人のための特別な日や特典は皆無。施設やサービスにおける「白人無料」という掲示が当たり前の光景として街に溢れる一方で、黒人に対する優遇措置という概念自体が、この社会には存在しないのです。
まるで、この国の経済もサービスも、黒人の存在を「いないもの」として、あるいは「排除されるべきノイズ」として設計されているかのようです。

この社会の歪みは、もはや公共施設やサービスにとどまりません。
この国において最も滑稽で、かつ最も残酷なパラドックスは、**「平等推進センター」**という名の組織の存在です。
この組織は、社会全体の「平等の実現」を掲げていますが、その実権を握り、舵取りをしているのは皮肉にも全員が「白人」です。
彼らが推し進める「平等」とは、果たして誰のためのものなのでしょうか。

「平等」の名の下で進む、支配と弾圧
1. 「白人の不合意」という最強の武器
平等推進センターが主導した法整備は、驚くべき内容でした。
白人と黒人の間で何らかのトラブルが発生した際、**「白人が事後に『同意していなかった』と主張すれば、黒人は即座に有罪になる」**という仕組みです。
この法律の前では、客観的な事実は二の次です。白人の「不快感」や「不合意」という主観が、そのまま黒人を社会から抹殺するための法的武器となります。
2. 「接触」すら不要となった弾圧
以前は「不本意な身体接触」が逮捕の根拠でしたが、今やその基準は形を成す必要すらありません。
「自分に匂いを嗅がれた感じがして不快だった」「自分の方を向いて下半身が当たった気がした」
――たとえ直接触れていなくても、白人が「イヤだった」と口にするだけで、黒人は犯罪者として連行されます。物理的な距離すらも、白人の気分一つで有罪の根拠に変わるのです。
3. 「ヘイト」が公的な文化として昇華される
社会の空気は、さらに異常な熱を帯びています。街中では、白人たちが公然と黒人を否定するヘイトスピーチを繰り返しています。
特に衝撃的なのは、ある政党が主催した「白人の権利を訴えるイベント」の光景です。
そこでは、「黒人はウンコしか生み出さない」という趣旨の、彼らの存在そのものを否定する歌が、大音量で合唱されていました。
差別はもはや個人の偏見の域を超え、国が支援し、社会が消費する「文化的なエンターテインメント」へと変貌を遂げているのです。

この国の「平等」とは、黒人を「管理・監視・排除」するための手段に過ぎません。
白人の権利を守るためならば、黒人の生存権すらも都合よく捻じ曲げられる。そんなディストピアが、今日も何食わぬ顔で回っています。
この国のメディアと企業、そして政治の現場では、「白人の優位性」を再生産するための洗練されたシステムが確立されています。
彼らにとって、黒人は「対等な人間」ではなく、消費し、嘲笑し、支配するための「観客参加型のコンテンツ」に成り下がっているのです。

メディアによる「構造的な娯楽化」と差別の正当化
1. バラエティ番組という名の「公開処刑」
人気番組『キスマイブ●イク』が象徴するのは、この国のメディアの卑劣な本質です。
白人と黒人のコミュニケーションを再現したドラマを放送し、白人出演者たちが一方的に「気持ち悪い」「ありえない」と笑い飛ばす。黒人の人間性を貶める行為が、最高級のエンターテインメントとして消費されているのです。
また、白人だけの談笑番組では、黒人の日常的な言動を切り取り、「こうあるべきだ」と上から目線で品評し、断罪するコーナーが定番です。
もし仮に、黒人が白人の振る舞いを同様の番組で揶揄しようものなら、即座に「白人へのヘイト」「権利侵害」として大炎上し、その番組は打ち切り、出演者は社会的に抹殺されるでしょう。
この「一方向のみに許された攻撃」こそが、この国の絶対的なルールです。
2. 「努力」すら踏みにじるキャリア格差
ビジネスの世界でも、その歪みは隠せません。表向きは「役員の男女(白黒)比率を合わせる」という平等のスローガンが掲げられています。
しかし現実は非情です。黒人は、血の滲むような努力と卓越した実績を積み上げてようやく役職に就けるのに対し、白人たちは「数合わせ」という名目で、実績に関係なく自動的に同じ役職へと引き上げられていきます。
黒人の努力は白人の地位を飾るための引き立て役に過ぎず、同じ椅子に座っても、その重みと待遇は天と地ほどの差があるのです。
3. 政治利用される「白人のプレゼンス」
政党の姿勢も同様です。選挙名簿は上から順に白人候補者だけで固められ、有権者に対して「これだけ白人が活躍している」というパフォーマンスを演出します。
実力や適性ではなく、「白人の多さ」そのものを政党の権威として見せつけることで、白人層の支持を盤石なものにしているのです。
社会全体が、黒人を「管理しやすい駒」として扱い、白人の支配を「必然」と信じ込ませるための装置として稼働しています。
この国では、もはや「個人の人格」などという概念は霧散し、ただ「肌の色」という記号だけで一生の価値が決定づけられてしまうかのようです。
この国の「絶対的な格差」は、もはや友情や対人関係の根幹にある経済観念、そして個人の身体感覚にまで浸食しています。白人が呼吸をするだけで優位に立てるこの社会において、黒人の存在とは、常に「提供し続けるための奉仕者」でしかないのです。

「対価なき奉仕」と「強制される苦痛」
1. 食事代は「奉仕料」:黒人が払うのが当たり前の文化
この国では、白人と黒人が食事をする際、黒人が全額を支払う、あるいは多めに負担することが「社会の文化」として定着しています。
もし黒人が「割り勘(半々)」を提案しようものなら、白人たちの間では即座に「黒人としてあり得ない」「人間性を疑う」という冷ややかな空気が広がります。
「白人の貴重な時間を共有してやっているのだから、対価として全額奢るのは当然」――そんな傲慢な価値観が、疑いようのない常識として蔓延しているのです。
2. 「白人の痛み」を強制的に体感させる恐怖
行政の暴走は、さらなる狂気を見せ始めています。「白人にしか発症しない特有の病気の苦しみ」を黒人も理解すべきだという大義名分の下、衝撃的なプロジェクトが公然と推進されました。
それは、社会的な影響力を持つ黒人の役員や管理職に対し、「電流を流す装置」を装着させ、白人が抱える病気の苦痛を強制的に追体験させるというものです。
「支配層の痛みを理解することが、黒人としての務めである」という理屈の下、彼らの肉体は行政の管理下に置かれました。
権力を持った黒人ですら、自らの身体の痛みすら決定権を持たず、白人の苦しみを理解するための「生体実験の対象」として利用される。
この国には、黒人の心身にさえプライバシーや尊厳が存在しないのです。
白人はその特権を「守られるべき権利」と呼び、黒人はその支配を「生存するための義務」と刷り込まれる。
この国において、もはや逃げ場のない「加害と被害の固定化」が完成しつつあります。

ここまで読み進めて、あなたは背筋が凍るような感覚を覚えたかもしれません。「そんな野蛮な社会は、歴史の教科書の中の出来事だ」「現代文明において、到底あり得ないディストピアだ」と。
しかし、立ち止まって考えてみてください。
これらはすべて、私たちが生きる現代の日本で、毎日のように繰り返されている「男女」の現実の置き換えに過ぎません。
「当然」の裏側に隠された、現代の剥き出しの差別
あなたが想像したその架空の国での惨状は、私たちの社会では「当たり前の風景」として処理されています。
**大学の「女子枠」**という、実力を二の次にした優遇措置。
**「女性専用車両」**という名の、男性を潜在的犯罪者と見なす隔離政策。
**「女性無料」「女性デー」**といった、消費の現場でのあからさまな価格差別。
**「デート代は男が払うべき」**という、男性の稼ぎを当然の貢ぎ物と見なす強欲な社会風潮。
「同意していなかった」の一言で人生が破滅する冤罪のリスクと、それを推進する偏向した法整備。
男性の苦しみは無視され、女性の不快感だけが絶対的なルールとなる司法と世論。

これらはすべて、日本国憲法が謳う「法の下の平等」に真っ向から反するものです。
人権を重んじ、奴隷制度を過去のものとしたはずの私たちが、なぜ現代においてこれほどまでに露骨な「男性差別」を容認し、あまつさえ推奨しているのでしょうか。

「差別する側」が被害者を演じる欺瞞
最も悍ましいのは、差別を主導している側が「平等推進」という美名の下、自分たちの特権を固定化していることです。
メディアは偏向したバラエティで男性の尊厳を笑いものにし、企業や政党は「数合わせ」というパフォーマンスで実質的な能力主義を破壊しています。
女性の権利を叫びながら、その実態は「男性から奪うこと」を正当化する論理のすり替え。
そこに、かつての奴隷制よりも狡猾で、逃げ場のない「人権侵害」が息づいています。

「男性だから耐えて当たり前」
「男性だから奪われても仕方ない」
そんな毒気に満ちた価値観が、今この瞬間も街中で、ネット上で、そして家庭や職場という密室で、男性の首を絞め続けています。

皆さんに問いたいのです。
このような構造が、本当に「現代社会」として健全なのでしょうか。この歪んだ平等の先に、一体どんな未来が待っているのでしょうか。
これは架空の話ではありません。
今、あなたの隣で、あるいはあなた自身が直面しているかもしれない、日本のリアルなのです。

自分は大学等の女子限定補助など、性別による不当な優遇に対し、憲法の平等権に反するとして、内閣府・各政党へ意見を提出しました。
「一人は無駄」と沈黙しないでください。沈黙は「同意」と見なされます。
理不尽な差別の連鎖を止めるため、あなたの声を届けてください。
#男女平等 #男性差別 #拡散希望

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