「長持唄に祈りを」
一
「蝶よナーヨー 花よとヨー……」
スマートフォンから流れる小野花子さんの声を聴きながら、私は新幹線の窓に額を押し付けた。東京から秋田へ。この三時間の旅は、まるで自分の人生を振り返る時間のようだった。
篠崎美緒、二十八歳。民謡歌手としての肩書きは「アマチュア」だが、一応は全国レベルの大会でいくつかタイトルを取っている。『津軽じょんから節全国大会』ジュニアの部優勝、『佐渡おけさ全国大会』一般の部三位、そして昨年の『秋田音頭全国大会』では念願の一般の部優勝を果たした。
でも。
本当に欲しいタイトルは、まだ手にしていない。
秋田長持唄。
私が民謡の道に入るきっかけとなった、あの唄。
出会いは十年前、大学二年生の夏だった。父方の遠い親戚の結婚式に呼ばれて、私は気乗りしないまま式場へと向かった。新郎が秋田にゆかりのある人だと聞いていたが、披露宴で流れた一曲の民謡が、私の人生を変えることになるとは思いもしなかった。
「これから新郎の故郷、秋田県を代表する祝い唄をお聞きください。秋田長持唄です」
司会者の声に続いて流れてきたのは、尺八の前奏。そして、女性の声。
「ハアー 蝶よナー 花よとヨー ハアー 育てた娘ー……」
その瞬間、私の背筋に何かが走った。
祝い唄のはずなのに、どこか物悲しいメロディ。明るいようで、でもその奥底に深い情感が滲んでいる。娘を嫁に出す親の喜びと寂しさ、そして嫁ぐ娘の不安と希望。すべてが一つの旋律に込められていた。
「今のCDは、秋田民謡界のレジェンド、小野花子さんの歌声です」と、新郎が挨拶で語っていた。
その日から、私は秋田長持唄に取り憑かれた。CDを買い集め、YouTubeで動画を探し、歌詞を暗記した。そして気づいたら、民謡教室の門を叩いていた。
二
秋田駅に降り立つと、初夏の風が頬を撫でた。
あきた芸術劇場ミルハスは、駅から徒歩十分ほどの場所にある。2022年に開館した新しい劇場で、秋田杉がふんだんに使われた美しい建物だ。大ホールは二千席以上を誇り、音響も素晴らしいと評判だった。
「第三十八回秋田長持唄全国大会」
エントランスに掲げられた看板を見上げながら、私は深呼吸をした。
民謡の全国大会は、一般の人が思うよりもずっと敷居が低い。もちろんプロの歌手や、何十年も歌い続けているベテランもいる。でも、私のような若手アマチュアでも、しっかり練習すれば出場できる。大会によっては、小学生から八十代まで、本当に幅広い年齢層の参加者がいる。
ジュニアの部には、親に連れられて来た小学生たちが緊張した面持ちで控えている。シニアの部には、人生の大半を民謡と共に歩んできたような貫禄のある方々が、落ち着いた様子で準備をしている。
そして一般の部。二十代から五十代くらいまで、様々な職業の人たちが集まっていた。
「篠崎さん、久しぶり!」
声をかけてきたのは、同じ東京の民謡教室に通う加藤さんだった。四十代の主婦で、秋田おばこ節を得意としている。
「加藤さんも出るんですね」
「もちろん。今年こそは入賞したいわ。篠崎さんは今年も秋田長持唄?」
「はい。これで三回目の挑戦です」
「そう。篠崎さんの秋田長持唄、私は好きよ。若いのに、ちゃんと情感が出ている」
加藤さんの言葉は嬉しかったが、同時に心の奥に重いものが沈んでいくのを感じた。
三回目の挑戦。
一回目は入賞すらできなかった。二回目は五位入賞。でも、優勝には遠く及ばなかった。
今年こそ。今年こそは。
三
控室で最終確認をしていると、プログラムに目が留まった。
一般の部、出場者三十二名。
そして審査員の名前を見て、私は息を呑んだ。
「小野花子」
あの、小野花子さんが審査員席にいる。
手が震えた。私を民謡の世界に導いてくれた、あの声の主。秋田民謡界の生ける伝説。その人が、私の歌を聴くのだ。
「一般の部、第十五番、篠崎美緒さん、準備をお願いします」
スタッフの声で我に返る。もう時間だ。
舞台袖に立つと、大ホールの客席が見えた。二千席すべてが埋まっているわけではないが、それでも多くの民謡ファンや家族連れが座っている。
そして審査員席。
小柄な女性が、まっすぐ前を見つめていた。小野花子さんだ。
心臓の音が耳の中で響く。
「次は篠崎美緒さんです。曲目は秋田長持唄」
司会者の声。
私は舞台中央へと歩いた。
スポットライトが眩しい。観客席の表情はよく見えない。でも、その向こうに小野花子さんがいることだけは分かった。
尺八奏者が一礼する。私も深く頭を下げた。
そして、前奏が始まった。
四
尺八の音色が、静かにホールに響く。
「ピーーーーー」
その瞬間、不思議なことが起きた。
まるで、誰かが私の体の中に入ってきたような感覚。温かくて、優しくて、でもどこか哀しい存在。それは小野花子さんの声のように、私の中で響き始めた。
気づけば、私は歌っていた。
「ハアー 蝶よナー 花よとヨー」
これは私の声だろうか。
まるで自分が客席から自分を見ているような、奇妙な感覚。体は舞台の上にあるのに、意識はどこか遠くにいる。
「ハアー 育てた娘ー 今日はナー 晴れてのヨー ハアー お嫁入りだーエー」
歌詞の一つ一つが、今までにない重みを持って口から出てくる。
娘を育てた喜び。
その娘が嫁いでいく寂しさ。
でも、娘の幸せを願う親心。
そして、親元を離れることへの娘の不安と、新しい人生への期待。
すべてが、一つの旋律の中で交差していく。
「ハアー 故郷ナーヨー 恋しとヨー ハアー 想うな娘 故郷ナーヨー当座のヨー ハアー 仮の宿ナーエー」
この歌詞の意味が、今ならよく分かる。
「故郷を恋しいと思うな、娘よ。嫁ぎ先こそが本当の家なのだから」
でもその裏には「どんなに寂しくても、前を向いて生きていきなさい」という親の祈りがある。
私は客観的に自分の歌を聴いていた。
本当に私が歌っているのだろうか。
いや、私の中にいる誰かが、私を通して歌っている。
「ハアー さあさナー お立ちだヨー ハアー お名残り惜しやー 今度ナー 来る時ャヨー ハアー 孫連れてナーエー」
最後の一節。
「今度帰ってくる時は、孫を連れておいで」
この言葉に込められた、複雑な親の思い。寂しさを乗り越えて、娘の幸せを願う強さ。
尺八の後奏が静かに消えていく。
私は深く礼をした。
その瞬間、体の中にいた存在が、すっと抜けていくのを感じた。
五
拍手が鳴り響いた。
舞台袖に戻ると、膝が笑っていた。スタッフが椅子を用意してくれて、私はそこに崩れ込むように座った。
「篠崎さん、すごかったよ!」
加藤さんが駆け寄ってきた。
「私、鳥肌立っちゃった。あんなに情感のこもった秋田長持唄、初めて聴いた」
「本当ですか……」
「本当よ。これは優勝あるわよ」
でも、私には分からなかった。
あれは本当に私の歌だったのだろうか。
それとも、小野花子さんの魂が私に宿ったのだろうか。
すべての出場者の歌が終わり、審査の時間となった。
控室で待っている間、私は震える手でペットボトルの水を飲んだ。
そして、結果発表の時間がやってきた。
「では、一般の部の結果を発表いたします」
司会者の声に、控室がシンとなった。
「五位、高橋雄一さん」
拍手。
「四位、佐々木恵子さん」
また拍手。
私の名前はまだ呼ばれない。
入賞すらできなかったのか、それとも――
「三位、加藤みどりさん」
加藤さんだ。彼女が小さく「やった」と声を上げた。私も心から祝福した。
「二位、田中健太郎さん」
残るは一位だけ。
心臓が止まりそうだった。
「そして、第三十八回秋田長持唄全国大会、一般の部優勝は……」
司会者が間を取る。
「東京都から、篠崎美緒さん!」
その瞬間、私の目から涙が溢れた。
十年間追い続けてきた夢。
三回目の挑戦で、ついに。
エピローグ
表彰式の後、審査員席から小野花子さんが声をかけてくれた。
「篠崎さん、素晴らしい歌でした」
小柄で穏やかな笑顔の女性。でもその瞳には、長年民謡を歌い続けてきた人だけが持つ、深い輝きがあった。
「あ、ありがとうございます! 実は、私が民謡を始めたきっかけは、小野先生のCDだったんです」
「まあ、そうなの」
小野さんは驚いたように目を丸くした。
「十年前、親戚の結婚式で先生の秋田長持唄を聴いて……それから、この唄に魅せられてしまって」
「そう。あなたの今日の歌、とても良かったわ。技術もさることながら、心がちゃんと唄に乗っていた」
小野さんは優しく微笑んだ。
「秋田長持唄は祝い唄だけど、実は哀しみの唄でもあるの。娘を送り出す親の心、親元を離れる娘の心。どちらも理解していないと、本当の意味でこの唄は歌えない」
「はい……」
「あなたは今日、その両方を表現できていた。おそらく、あなた自身の人生経験が、そこに重なったんでしょうね」
確かに、私も二年前に実家を出て、一人暮らしを始めていた。母が駅まで見送ってくれた時の、あの複雑な表情。嬉しそうでもあり、寂しそうでもあった。
あの時の母の気持ちが、今日の私の歌に宿っていたのかもしれない。
「これからも、民謡を大切にしてくださいね」
小野さんはそう言って、私の手を握った。
その温かさが、まるで舞台で感じたあの存在のように、私の心に染み渡っていった。
秋田の初夏の空は、どこまでも青く澄んでいた。
私は優勝トロフィーを抱きしめて、千秋公園のお堀を眺めた。
秋田長持唄。
この唄を歌い続けていこう。
親から子へ、子から孫へ。
人の心を繋いでいくこの唄を、私も次の世代へと伝えていきたい。
「蝶よナーヨー 花よとヨー……」
小さく口ずさむと、風が優しく頬を撫でた。
まるで、誰かが「よく頑張ったね」と言ってくれているように。
(了)
