田中裕二はなぜ逃げないのか──太田光の横にいる未確認生物を観察する
昔から、正体のわからないものが好きだった。
ネッシー。ビッグフット。雪男、つまりイエティ。
そういうものを追いかける人たちは、たぶん心のどこかでわかっている。
これは、最後まで見つからないかもしれない、と。
それでも、やめられない。見つからないからこそ、目を凝らしてしまう。わからないからこそ、観察を続けてしまう。
だが、結論は出ない。
湖面には波紋だけが残る。雪原には、風に消される足跡だけが残る。それでも、観察をやめる気にはならない。
最近、私はそれとよく似た感覚を、テレビとラジオの前で味わっている。
対象はネッシーではない。ビッグフットでもない。雪男でもない。
爆笑問題・太田光のすぐ横に、三十年以上座り続けている小柄な男。
田中裕二である。
太田光は、まだわかる。いや、わかるというより、わかりやすく危険である。
政治、宗教、事件、災害、皇室、戦争。テレビができれば触れたくない場所へ、太田は笑顔で踏み込んでいく。しかも、踏み込むだけではない。そこで跳ねる。叫ぶ。余計な一言を足す。
問題は、そのすぐ横にいる田中裕二だ。
なぜ逃げないのか。
ふつうの人間なら、太田が生み出す三回目の大波あたりで岸へ戻る。「ちょっと自分には合いませんでした」と言って、別の浜辺で穏やかな貝殻でも拾っているはずだ。
しかし田中は、今も同じ距離にいる。同じ椅子に座り、同じように太田を見て、同じように「おい!」と言う。
しかも、ただ耐えているのではない。あの男は、どう見ても適応している。
いや、もしかすると進化している。
本稿は、「田中裕二とは何者なのか」を、UMA研究者とほぼ同じテンションで考えてみる試みである。
私の正気を疑われるリスクはある。
だが、あえて一歩、踏み込んでみる。
1 観察対象としての田中裕二
まず、観察対象としての田中裕二を整理しておきたい。
職業は芸人。役割はツッコミ。ときどきボケ。
体格は小柄。低重心。スーツのシルエットが妙にかわいい。
配置は、常に太田光のすぐ横。ただし、決して真正面には出ない。半歩内側にいて、一歩引いている。
役割は多い。
制動。翻訳。補足説明。被害者代表。そして、爆笑問題という現象の安定剤。
単に「太田光の相方」と呼ぶには、明らかに情報量が多すぎる。
表現の自由を海にたとえるなら、太田光は高波である。
予測不能なうねり。異常潮位。警報級の高波。
テレビが最も嫌がる領域に、平気で波を立てに行く。
その荒波の最前列に、なぜか三十年以上、飄々とふつうの顔で立ち続けている男がいる。
ここがまず、おかしい。
ふつうの人間なら、もっと早い段階で身の危険を察知する。コンビを解消するとまでは言わないまでも、少し距離を置く。あるいは、もっと静かな番組で猫の話だけして暮らす。
しかし田中裕二は、毎週のように同じ場所にいる。
太田が立ち上がる。田中が見る。
太田が危ないことを言いかける。田中が「おい」と言う。
共演者が一瞬凍る。田中が「あのね」と言って、空気を現実に戻す。
大きく動かないのに、場だけは確実に動かす。
これは、性格だけでは説明しきれない。
ここから先、我々は生物学、臓器、海岸工学、物理学、そして少しの妄想の力を借りる必要がある。
2 小柄であることは、機能である
田中裕二を考えるとき、まず避けて通れないのが「小柄さ」である。
もちろん、人間を身長で語るのはよくない。よくないのだが、田中裕二に関しては、どうしても無視できない。
あの小柄さは、単なる特徴ではない。機能である。
海辺の生きものを想像してほしい。
岩場のカニは、甲羅が低い。脚が横に張り出している。波打ち際のフナムシは、地面に貼りつくような姿勢で走る。潮だまりの魚は、流れの少ない隙間を見極め、わずかな水の動きに身を任せている。
そこに共通しているのは、重心の低さだ。
荒波のそばで生きるためには、背が高すぎてはいけない。受ける表面積は小さく、接地面は広く、動きは素早く。そして大きくは揺れない。
スタジオにおける田中裕二の立ち居振る舞いは、この動的安定性の教科書のように見える。
太田が立ち上がって暴れだす。田中は椅子に座ったまま、声だけで制動する。
太田が机を叩く。田中はペンを弄びながら、モニターをチラ見しつつツッコむ。
共演者の表情が曇る。田中が一歩だけ前に出て、「いや、あのね」と場を再接続する。
あまり動かない。でも、必要なところには必ずいる。
これは、波のエネルギーを最小の動きでいなす生物の振る舞いに近い。
太田光の横では、派手に動いたほうが負けなのかもしれない。
大きく反応すれば、太田の波とぶつかってしまう。何もしなければ、波はそのまま岸に届いてしまう。
だから田中は、必要最小限だけ動く。
「おい」「やめろ」「何言ってんだよ」「お前が言うなよ」
一見、普通のツッコミに聞こえる。
しかし、実際にはその一言で、暴走の角度が少し変わっている。スタジオ全体の重心が戻っている。
田中裕二は小さいのではない。
あえて小さくあることで、太田光の横に居続けられる形へ進化したのではないか。
そう考えると、あの低重心は急に生物学的な意味を帯びてくる。
怖い。
3 ミミズ嫌いと、過敏な生きもの
もうひとつ、田中裕二を語るうえで外せない特徴がある。
ミミズ嫌いである。
田中裕二がミミズを苦手としていることは、ファンの間ではよく知られている。ここで重要なのは、「ミミズが嫌い」という事実そのものではない。
なぜミミズが怖いのか、である。
形状が読めず、動きのパターンが予測しづらい。触覚情報が多すぎる。どちらへ進むのか、何を考えているのか、そもそも考えているのかどうか分からない。
つまりミミズは、情報が多すぎるのに意味が読めない存在である。
これは、かなり太田光に近い。
いや、太田光をミミズ扱いしているわけではない。していないつもりである。ただ、予測困難という一点において、ミミズと太田光には、どこか通じるものがある。
そして、そういうものに強く反応してしまう人間は、外界の変化に対する感度が高い。
例えば強い光が苦手な洞窟生物、微細な振動に反応する深海魚。それから、わずかな気圧変化で動きを止める昆虫。
過敏な生きものは、平常時には生きづらい。しかし異常時には、圧倒的な生存力を発揮する。
太田光の隣は、常に異常時である。
田中裕二は、その異常時への変化をたぶん異常な精度で察知している。
ただのツッコミではない。空気の補正である。
田中裕二とは、高度に過敏な小柄生物である。
言葉にするとだいぶ失礼だが、褒めている。
かなり褒めている。
4 虫けらと呼んでも炎上しない謎
そして、ここでどうしても触れなければならない言葉がある。
虫けら。
爆笑問題のラジオを聴いている人なら、この言葉に妙な親しみを覚えるかもしれない。
普通に考えれば、かなり危ない言葉である。
一般人を虫けらと呼ぶ。字面だけ見れば、すぐに謝罪文が出てもおかしくない。
ところが、田中裕二の場合、これがなぜか炎上しない。
むしろリスナーが自分から「虫けらです」と名乗り始める。「虫けら一同」みたいな空気が生まれる。本来なら失礼なはずの言葉が、いつの間にかファン文化の合言葉になっている。
実際、ラジオでは「なぜ田中は炎上しないのか」という話題そのものがコンテンツになり、出会ったリスナーが消え入るような声で「虫けらです」と名乗るところまで行った。
これはよく考えるとかなり不思議だ。
太田光が同じ言葉を言ったら、たぶんもっと火がつく。
しかし田中裕二が言うと、なぜか違う。
もちろん失礼ではある。失礼ではあるのだが、そこに巨大な悪意が乗っていない。
太田に追及され、「違う違う」と弁明し、弁明すればするほど状況が悪化していく。
その姿まで含めて、笑いになる。
ここに田中裕二のもうひとつの謎がある。
田中は、太田光の発言を無害化するだけではない。自分の失礼さすら、どこかで無害化してしまう。
虫けらという言葉は、普通なら人を見下す言葉だ。だが田中が言うと、それはなぜか「王様の暴言」ではなく、「小学生が急に強い言葉を覚えて使ってしまった」みたいな響きになる。
ひどいことを言っている。でも、怖くない。やや腹は立つ。でも、ちょっと笑ってしまう。
この微妙な温度が、田中裕二の特殊性なのだと思う。
さらにややこしいのは、田中本人が虫を苦手としていることである。
ミミズが嫌い。予測不能な小さな生きものが苦手。その一方で、一般人を虫けらと呼ぶ。
苦手なものの名前を、なぜか他人につける。
これはもう、心理学的にかなり面倒くさい。自分が恐れているものを、言葉にして外へ投げることで、どうにか処理しているのかもしれない。あるいは単に、口が滑っただけかもしれない。
たぶん後者である。
しかし、その口の滑り方まで含めて、田中裕二は面白い。
太田光の危なさは、火山の噴火に近い。大きく、熱く、遠くからでもわかる。
田中裕二の危なさは、もっと小さい。足元の草むらで、急に何かが動く感じに近い。
「うわっ」と思う。でも、よく見ると本人も「うわっ」と思っている。
だから許されるのかもしれない。
田中裕二は、他人を虫けらと呼びながら、同時に自分もまた、小さく、過敏で、どこか頼りない生きものとしてそこにいる。
見下しているようで、完全には上に立てていない。毒を吐いているようで、毒の容器がそもそも小さい。そしてその小ささが、言葉の危険度を下げている。
ここにも、田中裕二という未確認生物の重要な性質がある。
彼は、毒を消しているわけではない。
毒の容器のほうが、小さいのである。
5 外付けの臓器
ここで精神分析の話をしようと思ったのだが、やめておく。
太田=イド、田中=自我、社会=超自我。きれいに収まる。
フロイトを持ち出した瞬間、この研究は急にお行儀がよくなり、大学の教養科目みたいな顔をしはじめる。それは困る。
我々はもっと怪しい場所にいたはずだ。
だから言い方を変える。
田中裕二は、太田光の良心ではない。
良心なら、もっと止める。
田中がやっているのはブレーキではなく、調整だ。太田が暴走する。その暴走を、止めずに、しかし致死量には至らせない。怒りを残したまま、笑える濃度まで薄める。
これはもう、心の働きというより、臓器の働きに近い。
肝臓は、毒を説教しない。ただ黙って分解する。
腎臓は、老廃物に「それは言いすぎだ」とは言わない。ただ濾過して、体が壊れない形にして外へ出す。
田中裕二は、太田光の外付けの臓器なのではないか。
太田という巨大な代謝系から漏れ出す過剰なエネルギーを、リアルタイムで処理し、中和し、番組という身体の中に「笑い」として循環させる。本体の外側にぶら下がりながら、本体の生命維持に不可欠な機能を担っている。
そう考えると、なぜ田中が逃げないのかも少しわかる。
臓器は逃げない。
もっとも、こんな分析を田中本人が読んだら、たぶん心底どうでもよさそうな顔で「何言ってんだよ」と言うはずだ。そしてその一言で、この章の小難しい理屈は、いつものように笑える濃度まで薄められてしまうのだろう。
それでいい。
むしろ、それが証明である。
6 消波ブロックとしての田中裕二
以前から私は、表現の自由を海のようなものだと思っている。
海は美しい。広い。豊かだ。魚もいる。風も吹く。夕日も映る。
しかし同時に、危ない。荒れる。溺れる。高波が来る。人間の都合など聞いてくれない。
表現の自由も同じだ。
自由であるからこそ文化は豊かになる。しかし自由であるからこそ、人を傷つけることもある。社会を揺らすこともある。見たくないものを見せられることもある。
では、危ないからといって、海を全部コンクリートで埋めればいいのか。
たしかに安全にはなる。だが、それはもう海ではない。
表現の自由も同じで、規制を厚くすれば安全にはなるが、文化はやせ細る。
このとき、海岸工学が生んだ答えのひとつが消波ブロックである。
消波ブロックは、波を完全には止めず、エネルギーを細かく砕いて減衰させ、海と陸の接点を保ち続けさせる役割を担う。
田中裕二の役割は、これにとても近い。
太田光の発言は、そのまま受ければ本土直撃の大波になりうる。
政治家への直球デッドボールや、同業者や業界人への容赦ないイジり。
それらがスタジオにぶつかる直前、田中のツッコミという消波ブロックに一度当たる。
すると、怒りは笑いに変換される。警報級だった緊張が、少しだけ扱いやすいサイズになる。
大事なのは、田中が波を止めていないということだ。
止めるだけなら簡単だ。放送ではカットすればいい。
そうすれば、番組は安全になるかもしれない。でも、爆笑問題ではなくなる。
田中がやっているのは、波のエネルギーを、視聴者が笑えるサイズに砕く作業である。
太田光という高波の、非破壊的エネルギー減衰装置。
そしてそれは、テレビやラジオの中だけの話ではない。
たぶん私たちの日常にも、田中裕二的な瞬間はある。
誰かが怒ったり、言い過ぎたり、傷つきそうになって、その場が少し荒れそうになる。
そんなとき、真正面から否定するのではなく、しかしそのまま誰かにぶつからないように、言葉の角度を少し変える人がいる。
「まあまあ」とか、「それはちょっと言いすぎ」とか、「でも、言いたいことはわかるよ」など。
家庭でも、職場でも、友人関係でも、世界は案外、そういう小さな消波ブロックによって保たれている。
大声で正しさを叫ぶ人より、場の波を少しだけ砕いてくれる人に、私たちは救われているのかもしれない。
その意味で田中裕二は、テレビの中の変な生きものであると同時に、私たちの日常のどこかにもいる生きものなのだ。
7 そこにいるのに主張しない技術
ここまで書いてきて、ひとつ不思議なことに気づく。
田中裕二は、ずっと画面にいる。なのに、主張しすぎない。
普通、テレビに出る人間は、前に出る。声を張る。覚えてもらおうとする。もちろん、それは悪いことではない。芸能界では、むしろ必要なことだ。
しかし田中は、少し違う。
画面に常にいる。声もはっきり届く。それなのに、画面の重心を奪わない。
これはかなり高度な技術である。
強いMC、大柄な共演者、爪痕を残そうと息巻く芸人。そういった演者がいると、空気の重心はそちらへ寄る。
ところが田中裕二は、そこにいるのに、重心を奪いすぎない。
太田の横顔、共演者の苦笑い、スタッフの笑い、カメラの切り替わり、番組の残り時間。たぶん、そういうものを見ている。
なのに、「見ています」という顔をしない。
つまり田中は、「存在感の強さ」と「画面上の物量」を分離している。
そこにいる。でも、邪魔をしない。必要なときだけ、場の中心になる。
人間はたいてい、目立てば強くなり、引けば弱くなる。
田中裕二は、そのどちらでもない。
目立たずに強い。
ここが怖い。
8 見えない進化
さて、ここまで私は、田中裕二という存在を、生物学、臓器、海岸工学、物理学など、ありとあらゆる「それっぽい」道具で説明しようとしてきた。
小柄だから安定している。過敏だから空気を読める。毒の容器が小さいから、失礼な言葉すらなぜか文化になる。外付けの臓器だから、太田の過剰なエネルギーを処理できる。消波ブロックだから、波を笑いに変換できる。
どれもそれなりに合っている気がする。
だが、それでも核心には届かない。
では、なぜ田中だけが三十年以上、太田光という高波の横に立ち続けられるのか。
この問いには、まだ決定打がない。
もうひとつ、田中裕二の恐ろしさは、進化が見えにくいことにある。
派手な変化なら、まだわかりやすい。服装が変わる。キャラクターが変わる。発言が強くなる。司会者として前に出る。そういう変化なら、こちらも気づける。
しかし田中裕二は、そういう進化をしない。
いつも同じような声。いつも同じ位置。いつも同じテンション。いつも同じ「おい」。
表面だけを見ると、ほとんど変わっていないように見える。
しかし、長い時間で見ると、どうもおかしい。
ツッコミのタイミングが、昔よりわずかに速くなっている気がする。太田の暴走を予知する能力が上がっている気がする。もちろん、これは私の観測者バイアスかもしれない。田中を見すぎたせいで、こちらの精神が少し傷み、存在しない進化まで見えているのかもしれない。
だが、それでも思ってしまう。
田中裕二は、「変わらないように見える」ことを保ちながら、内部で密かに進化しているのではないか。
システム論の言葉を借りれば、これは動的平衡である。
外形はほぼ一定。しかし内部では常に再編成が進んでいる。
派手な変身もなく、露骨な権力化もなく、キャラクターの大幅変更もない。
普通のまま、バケモノ級に高度化していく。
これがいちばん怖い。
9 荒波の横にも、港はある
そして、この「見えない進化」が現実世界に与えた影響のひとつとして、どうしても触れざるを得ないことがある。
山口もえさんとの結婚である。
もちろん、ここで言いたいのは、「なぜ田中が?」という下品な話ではない。
そうではなく、冷静に考えると、この結婚はかなり特異な現象ではないか、という話である。
田中裕二は、太田光という日本有数の炎上誘発装置のすぐ横にいる。自身は小柄で、キャラクター的にも「普通」の側に見える。ミミズに本気でビビる。たまに体調を崩すことすら、番組内でネタにされる。
表面的なスペックだけを雑に並べれば、芸能界のど真ん中で再婚し、家庭を築き、穏やかな幸せを継続していること自体が、なかなかのレアケースに見える。
つまり田中裕二は、二つの世界を同時に成立させている。
ひとつは、スタジオのカオスをさばき続ける職業芸人としての世界。もうひとつは、穏やかな家庭の中心にいる生活者としての世界。
太田光という荒波のすぐ横にいながら、現実世界ではちゃんと幸せな港にもたどり着いている。
これは、普通に考えると両立が難しい。
複雑系理論の言葉を借りれば、異なる安定点を同時に保持しているような状態である。
片方の安定点は、スタジオのカオス。もう片方の安定点は、家庭の平穏。
その二つを行き来しながら、壊れない。しかも、どちらでも田中裕二であり続ける。
ここには、少し希望がある。
変なものの隣で生きていても、人は穏やかに暮らせる。カオスのそばにいても、幸せになることはできる。つまり、毎日が荒波でも、自分の中に小さな港を持つことはできる。
それは芸人としてすごいというより、人間として少しすごい。
田中裕二のすごさは、太田光を受け止めていることだけではない。
太田光を受け止めながら、自分の生活を荒波に飲み込ませていないことだ。
テレビの中では、消波ブロック。ラジオの中では、小さな毒の容器。そして外付けの臓器。家に帰れば、たぶん普通の夫であり、父であり、猫が好きな人である。
その切り替えが、あまりにも自然に見える。
だから余計に、よくわからない。
10 観測はまだ終わらない
ここまで考えて、私は結局、最初の場所に戻ってくる。
田中裕二とは何者なのか。
わからない。
解明できない。
少なくとも、現時点で完全に説明することは不可能である。
なぜなら彼は、いまも進化の途中にいるからだ。
太田光の隣で。視聴者の前で。スタジオの真ん中で。ラジオブースの中で。「おい」と言いながら。「何言ってんだよ」と言いながら。何事もないような顔で、まだ変わり続けている。
私たちが理解できるのは、その進化の一瞬の断面にすぎない。
十年後のツッコミは、いまよりさらに0.1秒早くなっているかもしれない。二十年後には、「太田の暴走を止めずに笑いに変える」新しい技術が生まれているかもしれない。あるいは、誰も気づかないうちに、まったく別種の芸人に変態しているかもしれない。
その可能性のすべてに、私たちはまだ名前を持っていない。
UMA研究者が最後にたどり着く態度は、いつも同じだ。
わからないものは、わからないと認める。そのうえで、それでも観測を続ける。
田中裕二研究も、まったく同じ地点にいる。
現時点では理論が追いついていない。しかし、観測をやめた途端、この進化は見逃される。
気づかれないまま進行する変化こそが、いちばん怖い。
いや。
そもそも私は、ひとつ思い違いをしていたのかもしれない。
田中裕二が「わからない」のではない。
田中裕二は、「わからないように在ること」そのものへ進化したのではないか。
UMAは、見つからないから未確認なのではない。見つかった瞬間に、ただの動物になってしまう。だから、写らない。だから、足跡しか残さない。正体が割れた瞬間、観察は終わり、誰も、もう目を凝らさなくなる。
説明できそうで、絶対に説明させない。
三十年、誰にも正体を掴ませない。
これは、芸当である。
もちろん、世界には太田光のように波を立てる人が必要だ。波がなければ、海はただの大きな水たまりになってしまう。だが同時に、その波を受け止め、砕き、笑える大きさに変えてくれる誰かがいて、世界は案外ぎりぎり保たれている。
たぶん、あなたの隣にもいる。
大きなことは言わない。ただ「おい」と言う、小さな誰かが。
——と、きれいにまとめかけて、ようやく背筋が寒くなる。
私はこの文章を書くあいだ、田中裕二を観察してきたつもりでいた。テレビを見返し、ラジオを聴き、間の取り方を気にし、「おい」のタイミングに耳を澄ませた。観察する側として、安全な岸にいるつもりだった。
だが、あの男は三十年以上、太田光という高波の真横で、人間の反応そのものを観察し続けてきた。
何が受けるか。どこで人が凍るか。どの一言で空気が戻るか。どの角度で毒を薄めれば、人は怒らずに笑うのか。
観察データの量で言えば、勝負にならない。
私が田中裕二を見ていた時間など、向こうが人間を見てきた時間に比べれば、波打ち際で貝殻をひとつ拾った程度のものだ。
深海に釣り糸を垂らしているつもりだった。だが糸の先はとっくに海底に着いていて、そこから静かに、見上げられていたのかもしれない。
「何言ってんだよ」
画面の中の小さな男が、こちらを見て、そう言った気がした。
