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『老練な船乗りたち』と運転免許

 年の暮れ、東京から出ることを決めてから、まず始めたのは今すぐいける免許合宿を探すことだった。

 合宿場は身を切るような寒さだった。まず事務的な手続きや視力検査をする。ショートカットで、目元に赤いシャドーの入った女性が対応した。彼女は期間中しじゅう建物の裏でタバコを吸っていた。

 宿舎では食事が用意されていた。あらゆる什器がプラスチック製で、持つと不安になるほど軽く、中身が気に入らないなら投げ棄てろと言わんばかりにひどい味がした。

 それまでの私の人生において、自動車というのはほとんど歩道から眺める風景でしかなかった。ハンドルを握っても、まっすぐに進路を維持することもできない。横で指導していた教官は、五十過ぎくらいの、無精ひげに白髪が混じる人の良さそうな男だった、あれやこれやと私に指示を出しても、車が頑なに蛇行するので、嘆息混じりに、「なんでわがんねぇかなぁ」とつぶやいて笑った。

 わからない理由は私にもわからなかった。唯一わかったのは、この地域では私の年頃にもなって、ろくに車も動かせない人間は、ひどく奇妙な存在らしいということだった。

 宿舎は値段を抑えるために相部屋を選んだ。同室人は、色白で、神経質そうな目と、厚い唇が特徴的で、一目見たときは静かに過ごせると思った。 数日間同じ部屋だったが、ひと言たりとも会話をした記憶がない。しかし静かというのは全く思い違いだった。夜中になると耐えずいびきをかいたのだ。赤の他人の、しかも関係の長続きしないことがわかっている人間のいびきほど厄介なものはない。それは響きや音の高さやブレスを組み合わせて数種類が存在し、あたかもそれぞれに人格があるかのように空間を音で満たした。最も困難だったのは時おり静寂が訪れることだった。そのたびに、二度といびきを聞かないで済むのではないかと期待してしまうのだ。

 その頃の私は、東京から出られなければ、つまりは免許が取れなければ死んでしまうと思っていた。ならば、今ここでこのいびきをとめるのに、首を絞めるくらいは許されるのではないか?もし同室人が、真夜中、あの静寂の最中に覚醒することがあったなら、なぜか自分の枕元で顔を覗き込んでいる私の不気味な姿を見たことだろう。

 幸いにも、日程がずれ込んだために、間もなく私は個室へと移された。
実技よりも不可解だったのは筆記試験だった。それは大学の試験とはまるで違い、知識そのものではなく、知識を無視した先の規則への忠誠を試されるものだったのだ。

 無事に本試験を終え免許を手に入れた。東京の家で、ひとまず必要そうな荷物をまとめた。キャリーケースもバックパックも持っていなかった。旅行に行くのではなかった。生活をするのならばと、普段通りのリュックと、いくつかの手提げかばんに荷物を詰め込んだ。炎天下の中、夏休みを前にした小学生が抱えきれないほどの荷物をなんとか持って家へと帰る。そのような出で立ちで私は実家を出た。

 新宿駅から深夜バスに乗った。深夜バスも初めてだった。


 『老練な船乗りたち』はブラジルの国民的作家、ジョルジェ・アマードの小説である。ジョルジェ・アマードの作品は大別して二期に分かれる。前期は政治闘争に身を粉にし、文学による社会の変革を目指した作品、後期は作家の故郷を舞台にした、人々の泥臭く、生命力や哀愁に溢れた人間模様を描写した作品である。『老練な船乗りたち』は後期に分類される。

 『老練な船乗りたち』には二編の作品が収録されている。一つは『キンカス・ベーロ・ダグアの二度目の死』。アマードの作品でも傑作と評される中編で、真面目な役人から飲んだくれへと転落した主人公キンカスの葬儀と、キンカスの落ちぶれ仲間の絆を描く。

 もう一つは『遠洋航海船長ヴァスコ・モスコーゾ・ジ・アラガンの物議をかもした冒険談についての紛れもない真実』。こちらは田舎町に引っ越してきた遠洋航海船船長という華々しい経歴をもつヴァスコ船長の、その経歴の真偽をめぐる小説だ。ヴァスコ船長は威厳がある。佇まいは紛れもない歴戦の船長で、家には立派な遠洋航海船船長の免許が飾られている。しかし、船長に嫉妬した住民の捜索によって、次第にヴァスコ船長のもう一つの姿が露わになってくる。

 どちらの作品も、事実そのものよりも、人々の中に駆け回るうわさやイメージの持つ不思議な力が物語の大きな原動力になっている。


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