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妻のうつと僕のランニング

—静かな再生の記録—

目次
第1章  微かな違和感
第2章  違和感の正体
第3章  43歳、走りはじめる
第4章  少しずつ変わる日常
第5章  妻の笑顔
第6章  10キロの挑戦
第7章  43歳から走りはじめた理由
最後に

第1章

微かな違和感


私は、走ることでしか、妻を救えないと思っていた。

何をやっても上手くいかなかった。

それでも信じるしかなかった——

———

2020年、コロナ禍。

立ち会い出産も、面会もできなかった。

妻が家族と会えるのは、着替えを渡す数分だけだった。

———

そんな中、三人目の出産予定日が近づいていた。

私は自宅で、その日を待っていた。



携帯が鳴った。

「生まれたよ」

短いメッセージと、写真が一枚。



無事でよかった。

そう思った。

でも同時に、どこか引っかかるものがあった。



新しい生活が始まっても、その違和感は消えなかった。



噛み合わない会話。

いつもと違う表情。



「どうかした?」

「なんでもない」



それ以上、踏み込めなかった。

踏み込んではいけない気がしていた。



やがて妻は、頻繁に病院へ通うようになった。



「ホルモンバランスが悪くて、薬をもらってるだけ」



「産後だし、そんなこともあるか」

そのときの私は、そう思っていた。



でも、違和感は消えなかった。



ある日、寝室で

胸を押さえながら苦しむ妻の姿を見た。



呼吸が乱れ、
身体を掻きむしるようにしていた。



そのとき、はっきりと思った。



これは、ただごとじゃない。



それからだった。



感情の起伏は激しくなり、

普通の会話が成り立たなくなった。



子どもたちは、怯えるようになっていた。



理解が追いつかなかった。



「なんで、そこまでするんだ!」

「うるさい!ほっといて!」



——私は、一体誰と喧嘩しているんだ——



相手は、妻のはずなのに。

どこか違うものと向き合っている気がした。



正直、限界だった。



「ドンッ!!」



気がつけば、私は

リビングのドアに拳を打ちつけていた。



どうしていいか、わからなかった。



静まりかえる空気。

驚いた子どもたちの顔。



穴の空いたドアから、血の滲んだ拳を抜き取った。



その場を離れたあと、

何をしていたのかは覚えていない。



———

しばらくして、妻がぽつりと言った。



「私、うつ病なんだって」



言葉が出なかった。



やっと絞り出したのは、

「そうか」



それ以上の言葉は、出てこなかった。



すべてが、つながった気がした。



あの違和感の正体。

第2章

違和感の正体


「私、うつ病なんだって」

その一言で、すべてがつながった。



あの違和感。

噛み合わなかった会話。

あのときの表情。



全部、ここにあった。



でも、

理解できたからといって、

何かがすぐに変わるわけではなかった。



どうすればいいのか、わからなかった。



正直に言えば、

怖かった。



この先、どうなるのか。

元に戻るのか。

それとも、このままなのか。



考えれば考えるほど、

足場が崩れていくような感覚だった。



それでも、

止まっているわけにはいかなかった。



私は、病院を変えることを決めた。



専門医に診てもらうべきだと思った。



婦人科で出せる薬には限界がある。

そう言われたことも、頭に残っていた。



新しい病院には、

できる限り一緒に行った。



医師の話を聞きながら、

必死に理解しようとしていた。



薬はすぐに合うとは限らないこと。

状態を見ながら調整していくこと。



そして、

無理に環境を変えすぎない方がいいこと。



仕事も、

今のペースで続けて問題ないと言われた。



むしろ、

その方がいいとも。



意外だった。



休ませることが正解だと思っていたからだ。



でも、

「正解」は一つじゃないのだと知った。



診察室を出たあとも、

頭の中は整理できていなかった。



ただ一つ、

はっきりしていたことがあった。



何かをしなければいけない。



でも、

何をすればいいのかはわからない。



私は、探し始めた。



本を読んだ。

記事を読んだ。



うつ病について書かれているものは、

とにかく手当たり次第に目を通した。



いいと言われるものは、

とりあえず試した。



サプリメント。

ストレッチ。

生活リズム。



できることは、全部やろうと思った。



でも、

うまくいかなかった。



「もう、いいよ」

妻はそう言った。



でも、

いいはずがなかった。



このままでいいわけがない。



「何かできることはないのか」



ずっと、そのことばかり考えていた。



ふと、思った。



運動はどうだろうか。



でも、

すぐに否定した。



外に出ることすら辛そうな人に、

「運動しよう」とは言えない。



それは、

優しさではなく、押しつけになる気がした。



どう伝えればいいのか、

わからなかった。



そのときだった。



ある一文が、目に入った。



「有酸素運動は、抗うつ剤と同等の効果がある」



一瞬、手が止まった。



これだ、と思った。



でも同時に、

迷いもあった。



言葉にすれば、

責めているように聞こえるかもしれない。



「運動が足りない」と言っているように、

受け取られるかもしれない。



それは違う。



そうじゃない。



そう思えば思うほど、

言葉にできなかった。



だから私は、

言うのをやめた。

そして、気づいた。



今までの私は、自分が安心するために行動していたことに。



だから、

自分でやることにした。



自分が走ってみようと思った。



見せることでしか、

伝えられないことがある気がした。



それが、

私にできることだと思った。


第3章

43歳、走りはじめる


43歳。

それまで、ほとんど走ったことのない私が、

走り始めた。



特別な準備はしていない。

家にあった靴の中で、

一番ましそうなものを選んだだけだった。



外に出て、

とりあえず走ってみた。



300メートルもいかないうちに、

息が上がった。



「……こんなもんか」



甘かった。



そのまま走り続けたが、

すぐに限界がきた。



息が苦しい。

足が重い。

思うように前に進まない。



それでも、

止まるのが悔しくて、

なんとか走り続けた。



結果、

3キロ。



たった3キロだった。



帰ってきたときには、

全身がバラバラになりそうだった。



翌日、

地獄だった。



階段が降りられない。

立ち上がるのにも時間がかかる。



笑えるくらい、体が動かなかった。



結局、しばらくは

ウォーキングに変えるしかなかった。



そんな私を見て、

妻が言った。



「怪我するから、やめたら?」



正直、

少しムッとした。



でも、

何も言い返せなかった。



その通りだったからだ。



それでも、

やめようとは思わなかった。



筋肉痛が落ち着いたら、

また走った。



また息が上がって、

また足が止まりそうになった。



その繰り返しだった。



「どうすれば続けられるんだろう」



そう思って、

調べ始めた。



シューズ。

ストレッチ。

筋トレ。



怪我をしないために、

必要なことを一つずつ学んだ。



気がつけば、

空いている時間は

ほとんどそのために使っていた。



そこまでする必要があったのかと聞かれたら、

正直、わからない。



でも、

怖かった。



中途半端なことをして、

全部が崩れてしまうことが。



妻の状態も、

自分の気持ちも。



だから、

やれることは全部やろうと思った。



トレーニングノートをつけた。



自分をごまかさないためだった。

実際のトレーニングノート

雨の日は、

ジムに行った。



言い訳をしないためだった。



お酒もやめた。



その方がいい気がしたからだ。



少しずつ、

生活が変わっていった。



でも、

体は正直だった。



シンスプリント。

腰痛。

肩の違和感。



常にどこかが痛かった。



湿布やテーピングの使い方だけが、

やたら上手くなっていった。



そのたびに、

あの言葉を思い出した。



「怪我するから、やめたら?」



図星だった。



それでも、

やめなかった。



やめる理由より、

続ける理由の方が、

少しだけ大きかったからだ。


第4章

少しずつ変わる日常


数ヶ月が経った。



大きく何かが変わったわけではない。



それでも、

少しずつ時間だけは過ぎていった。



ある日、

妻がぽつりと言った。



「ちょっと、散歩いこうか」



一瞬、

言葉の意味を考えた。



そして、

「うん」と答えた。



それだけのことなのに、

胸の奥が少しだけ動いた気がした。



外に出ると、

いつもの道だった。



走るときに通っている道。



でも、

その日は歩いた。



ゆっくりと。



隣には、

妻がいた。



それだけで、

少し違って見えた。



会話は、ほとんどなかった。



何を話せばいいのか、

わからなかった。



でも、

それでよかった。



無理に何かを言わなくても、

ただ一緒に歩けることが、

十分だった。



ふと、

思い出した。



昔はよく、

こうして二人で歩いていたことを。



いつの間にか、

なくなっていた時間だった。



坂道。

小さな公園。

見慣れた景色。



その一つひとつに、

過去の記憶が重なっていく。



その隣には、

いつも妻がいた。



そのことに、

ようやく気づいた。



どれくらい歩いただろうか。



特別なことは、

何もなかった。



ただ、

並んで歩いただけだった。



それでも、

私にとっては十分だった。



「また来ようか」



そう言うと、

妻は小さくうなずいた。



その表情を見て、

思った。



少しだけ、

前に進んだのかもしれない。



ほんのわずかでも、

確かに動いた何かがあった。



それが、

嬉しかった。

それから、

少しずつ変化が出てきた。



本当に、少しずつだった。



最初は、

週に一度の散歩。



それが、

いつの間にか当たり前になっていった。



ある日、

妻が言った。



「ちょっと走ってみようかな」



驚いた。



でも、

何も言わなかった。



ただ、

「いいね」とだけ答えた。



最初は、

ほんの少しだった。



走っては歩いて、

また少し走る。



そんな感じだった。



それでも、

続いていた。



「今日、ちょっと走ってきた」



そんな言葉を、

ぽつりと聞くようになった。



それが、

嬉しかった。



しばらくして、

妻が言った。



「なんか、少し楽かもしれない」



その一言で、

十分だった。



ある日、

診察のあとで、

妻が教えてくれた。



「薬、少し減らせるって」



その言葉を聞いたとき、

心の奥がゆっくりほどけるような感覚があった。



目に力が戻ってきたことにも、

気づいていた。



表情が、

少しずつ柔らかくなっていた。



以前は、

外に出ることも億劫そうだったのに、



「どこか行こうか」



そう言うようになった。



それだけで、

十分だった。



特別なことはしていない。



遠くに出かけたわけでもない。



それでも、

家族で過ごす時間が、

少しずつ増えていった。



何気ない会話。

何気ない時間。



それが、

戻ってきていた。



ある日、

妻にプレゼントを渡した。



理由は、

はっきり覚えていない。



誕生日だったかもしれないし、

記念日だったかもしれない。



ただ、

この時間を、

何か形にしておきたかった。



妻は、

とても嬉しそうにしていた。



でも、

すぐには使わなかった。



「特別な日に使う」



そう言って、

大事そうにしまっていた。



その姿を見て、

思った。



ああ、

大丈夫かもしれない。



まだ途中だけど、

ちゃんと前に進んでいる。



そう感じられたことが、

何よりも嬉しかった。


第5章

妻の笑顔


ある夜のことだった。



子どもたちが寝る前に、

布団の上で騒いでいた。



「つぎはぼく!」
「わたしも!」



いつもの光景だった。



でも、

その日は少し違った。



その中心に、

妻がいた。



笑っていた。



大きな声で笑っていた。



子どもをくすぐりながら、

また笑っていた。



その姿を見たとき、

一瞬、時間が止まったような気がした。



あの頃、

笑うことすら難しそうだった妻が、



目の前で、

当たり前のように笑っている。



ただそれだけのことが、

信じられなかった。



「ああ、戻ってきたんだな」



自然と、そう思った。



以前は当たり前だった、

何気ない時間。



でもそのときの私には、

それが特別なものに見えた。



気がつけば、

立ち止まって見ていた。



声をかけることもできず、

ただ、その光景を見ていた。



胸の奥が、

じんわりと熱くなっていく。



これまでの時間が、

一気に押し寄せてきた。



どうしていいかわからなかった日。



何もできなかった自分。



それでも、

何かを探し続けていた日々。



その全部が、

少しだけ報われた気がした。



あのとき探していた

「自分にできること」。



その答えが正しかったのかは、

まだ、わからなかった。



でも、

何かが、少しずつ動き始めていた。


第6章

10キロの挑戦


それからしばらくして、

友人に誘われて、

マラソン大会に出ることになった。



10キロの大会だった。



フルマラソンではない。



それでも、

私にとっては十分すぎる挑戦だった。



大会当日。



雨だった。



朝から降り続く雨に、

正直、気持ちは乗らなかった。



「なんで今日なんだ」



そう思いながら、

会場に向かった。



周りを見渡すと、

走り慣れている人ばかりだった。



少しだけ、

場違いな気がした。



それでも、

スタートラインに立った。



そのとき、

ふと思い出した。



最初に走った日のこと。



3キロで息が上がり、

足が止まりそうになった、あの日。



あそこから、

ここまで来た。



そう思うと、

不思議と気持ちが落ち着いた。



スタートの合図が鳴り、

走り出した。



最初は順調だった。



でも、

やっぱり甘くはなかった。



途中から、

一気に苦しくなった。



呼吸は荒くなり、

足も重くなる。



雨で濡れたシューズは、

思うように地面をつかまない。



何度も思った。



「もうやめたい」



それでも、

止まらなかった。



速くなくていい。



かっこ悪くていい。



ただ、

前に進めばいい。



そう思って、

一歩ずつ足を出した。



どれくらい走ったのか、

よく覚えていない。



気がつけば、

ゴールが見えていた。



最後は、

ほとんど意地だった。



なんとか、

ゴールした。



タイムは、

たいしたものではない。



でも、

私にとっては特別な10キロだった。



ゴールのあと、

妻が子どもたちを連れて迎えに来てくれた。



そして、

自分のことのように喜んでくれた。



あの日、贈ったプレゼントを身につけて。



その姿を見たとき、

思った。



「ああ、ここまで来たんだな」



あの日、

外に出て、

たった3キロを走った自分が、



ここに立っている。



あの日から走り始めた理由。



それが、

少しわかった気がした。


第7章

43歳から走りはじめた理由


あれから、

もうすぐ4年目を迎える。



最初は、

3キロで息が上がっていた。



それでも続けているうちに、

5キロを走れるようになった。



今では、

ときどき10キロの大会にも出ている。



走り始めた頃、

私は妻のために走っていた。



どうにかして、

力になりたかった。



でも、

今は少し違う。



気づけば、

自分のために走っている。



走っている間は、

何も考えない。



仕事のことも、

家族のことも、

将来のことも。



全部、

少しだけ遠ざかる。



ただ、

呼吸をして、

足を前に出すだけ。



その時間があるから、

今の自分でいられる。



家に帰ると、

妻が聞いてくる。



「今日、走ったの?」



そして、

笑いながら靴を履いて、

「私も行ってくる」と出ていく。



あの頃には、

想像もできなかった日常だ。



妻のうつは、

完全になくなったわけではない。



波がある日もある。



でも、

以前とは違う。



妻は、

今日も走っている。



それで、

十分だと思っている。



あのとき、

何もできなかった自分。



それでも、

外に出て走り始めた自分。



どちらも、

今の自分だ。



だから私は、

これからも走り続けるのだと思う。



43歳から走りはじめた理由は、

きっとこれからも増えていく。

今も続くトレーニングノート

最後に

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。



この記録を書いたのは、

誰かに何かを教えたいからではありません。

ただ、あの頃途方に暮れていた自分と似た誰かに

「こんな形もある」ということを伝えられたら、

と、思っただけです。

もし今、



どうしていいかわからず、立ち止まっている方がいたら、



ほんの少しでもいいので、体を動かしてみて下さい。



何かをしてあげたくて、

何もできなくて、

それでもどこかで力になりたかったあなたへ。



走ってみてください。

まず、あなた自身が。




*本作は実体験をもとにしていますが、プライバシーに配慮し、一部内容を変更しています。












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問い続ける父 最後までお読みいただき、心より感謝致します。もし内容を気に入っていただけましたら、サポートという形で応援していただけますと幸いです。これからも心を込めて記事をお届けします。