対馬の厳原町中村、国分、田渕、日吉、天道茂、桟原の歴史
対馬市厳原町中村は、江戸時代の町割りが残る歴史的な武家屋敷街で、特に石塀と武家門が特徴的、宗氏の守護所が置かれた「府中」の中心地として栄え、朝鮮との交流拠点でもあり、南警察署周辺に中村屋形があったとされ、現代も景観を保存・整備しながら対馬の歴史を伝える重要な地区です。
歴史的背景と特徴
古代・中世の政治的中心地: 奈良時代に国府が置かれ、室町時代には宗氏の守護所が置かれ、政治・文化の中心地(府中)として発展しました。
「中村」の地名の由来: 南北朝時代に代官を務めた仁位(中村)宗香がこの地に館(中村屋形)を開き、地名をとって「中村」と名乗ったことに由来するとされます。
江戸時代の城下町: 宗貞国が守護所を佐賀から中村に移して以降、城下町として定着・整備され、その町割りが現代まで残っています。
武家屋敷街: 江戸時代に対馬藩として栄えた厳原の中心部であり、石塀や武家門が並ぶ武家屋敷街の景観が特徴的です。
大陸との交流の窓口: 朝鮮半島に最も近いため、古くから大陸との交流・貿易の拠点であり、朝鮮通信使の往来でも重要な役割を果たしました。
現代の取り組み
街並み環境整備事業: 江戸時代の町割りと景観(石塀や武家門など)を保全するため、地域住民や専門家と協力して、道路や公共空間のデザイン、民有空間のデザイン誘導が行われています。
まとめ
厳原町中村は、単なる地名ではなく、対馬の政治・文化の中心地としての歴史、宗氏が築いた城下町の面影、そして朝鮮との交流の歴史が刻まれた、石塀と武家門が象徴する歴史的な地区として、今もその姿を留めています。

対馬の厳原町国分は、古代の対馬国府が置かれた地で、朝鮮半島との交流の窓口として栄え、中世には宗氏の拠点となり、対馬国分寺が再建されるなど、対馬の政治・文化の中心地でした。特に、文明年間(1469-1487年)に宗貞国(通称:国分寺殿)が宗家菩提寺として対馬国分寺を再建し、金石城が築かれるなど、中世から近世にかけて対馬藩の政治・経済の中心地「府中」として発展しました。
国分寺建立: 741年(天平13年)、「鎮護国家」の詔に基づき、厳原の地に島分寺(対馬国分寺)が建立されましたが、一時廃されました。
対馬国の中心: 厳原の地は、この頃から対馬国の中心地(国府)として機能していました。
国分寺の再興: 宗貞国(国分寺殿)が宗家菩提寺として対馬国分寺を再建し、「対馬国分寺」と称するようになりました。
宗氏の拠点: 宗氏が峰町から厳原に移館して以来、厳原は「府中」と呼ばれ、城下町として発展し、対馬の中心地となりました。
朝鮮との交流: 宗氏が朝鮮との外交・貿易を担い、国分寺の住持が朝鮮へ遣使するなど、対馬の窓口としての役割が深まりました。
金石城の築城: 享禄元年(1528年)、島分寺跡の南側に宗氏の館(金石城)が築かれ、城下町としての整備が進みました。
対馬藩の繁栄: 宗家は朝鮮との関係を重視し、朝鮮通信使の案内役を務めるなど、外交と貿易で繁栄しました。
地名変更: 厳原は、明治維新後に「厳原」と改称され(読みは「いづがはる」→「いづはら」)、明治5年までに与良郷も廃止されました。
現代: 現在も、厳原町は対馬の中心地であり、歴史的な文化財が多く残されています。
対馬市厳原町田渕(田淵)は、 府中港(金石港)の玄関口として近世から発展し、朝鮮貿易や朝鮮通信使の寄港地として栄え、 「田淵」の大火(1957年)など大きな災害も経験しながら、「田淵」の地名自体が港湾と結びついた歴史を持ちます。朝鮮半島との交流の拠点であり、「漂民家」などの施設も置かれ、「万松院」が近隣に位置するなど、対馬の歴史と文化、特に外交・貿易の要衝としての側面が色濃い地域です。
歴史的背景
朝鮮との窓口: 対馬は朝鮮半島に最も近いため、古くから外交・貿易の拠点でした。田渕がある府中港は、朝鮮通信使の寄港地であり、朝鮮からの漂流民を収容する「漂民家」も設置されました。
城下町の一部: 近世には、対馬藩の城下町の一部として、商業や外交に関わる町人(六十人、年行司、乙名など)が居住し、朝鮮貿易を支えるインフラ(お船江など)も整備されました。
地名の由来と特徴
「田淵」の地名: 厳原本川と金石川が合流する河口付近に位置し、その地形(淵)に由来すると考えられます。
港湾との結びつき: 金石城(厳原城)の港(府中港)の入口に近く、対馬の港湾機能と深く関連していました。港湾の埋め立てにより古い海岸線は失われましたが、歴史的な資料において往時の府中港を知る上で重要な場所とされています。
主な出来事(近代以降)
田渕大手橋の大火(1957年): 1957年1月6日、田渕・大手橋周辺で大規模な火災が発生し、110世帯が被災する大惨事となりました。これは地域の大きな出来事として記録されています。
文化・施設
万松院: 厳原の近隣にあり、対馬の歴史と文化に触れる上で重要な寺院です。田渕でもその演芸大会などが開催されるなど、地域と関連がありました。
田渕は、対馬が日本と朝鮮半島を結ぶ要衝としての役割を果たした時代の名残を色濃く残す地域であり、朝鮮貿易と城下町の発展を象徴する場所といえます。
対馬・厳原町日吉(ひよし)の歴史は、対馬藩の外交・貿易拠点としての役割と深く結びつき、 朝鮮通信使の客館や、国分寺の移転、以酊庵(対馬藩の外交機関)関連地として発展し、かつては「府中港」の一部として賑わい、明治以降に厳原(いづはら)の一部となりましたが、朝鮮との交流の歴史を今に伝える重要な地域です。
歴史のポイント
朝鮮との交流拠点: 対馬は古くから朝鮮半島との窓口であり、日吉周辺は特にその中心地でした。
金石屋形と国分寺: 寛文5年(1665年)、宗義真によって金石屋形が拡張され、国分寺(島分寺)が日吉へ移されました。
以酊庵の存在: 対馬藩の外交機関である以酊庵(いていあん)も日吉にあり、朝鮮通信使の応接など重要な役割を果たしました。
府中港のにぎわい: 日吉は現在の府中港の埋立地の一部で、往時は活気ある港町でした。
「日吉」の地名由来: 日吉権現(山王権現)が祀られていたことなどが地名の由来とされますが、厳原町内では比較的新しい地名です。
明治以降: 明治維新後、明治2年に「厳原」に改称(読みも変更)され、朝鮮通信使の客館なども解体されましたが、その跡地は残っています。
現在の状況
現在も国分寺や、対馬の歴史・文化を伝える資料館が近くにあり、朝鮮通信使関係の資料なども展示されています。
このように、厳原町日吉は、対馬が果たした対朝鮮外交の要地として、また城下町・港町として栄えた歴史を色濃く残す地域と言えます。





対馬の厳原町天道茂(てんどうも)は、古代から続く太陽信仰「天道信仰」の聖地であり、神域として崇められた場所。天道法師の伝説が残る、苔むした石積み塔(八丁郭)で知られ、かつては畏れられる「不入の地」だった。龍良山麓にあり、歴史的には長らく人の住まない神域だった。
対馬の厳原町天道茂の歴史に関する詳細なポイントは以下の通りです。
「天道信仰」の聖地: 対馬特有の天道信仰(太陽信仰)における核心的な場所であり、古くから天道山、天道地、天道茂などと呼ばれ、神聖視されてきました。
八丁郭(八丁角)の伝説: 浅藻(あざも)地区の奥にある「八丁郭」は、伝説上の聖人・天道法師が即身成仏した墓と伝えられています。周囲には苔むした石積みの塔が複数あり、市指定記念物となっています。
禁足地「オソロシドコロ」: 昔は、神域として畏れられ、決して入ってはいけない「不入(いらず)の地」でした。
歴史的背景: 古代には聖地とされ、人が住まない場所でしたが、15世紀頃にはその傾向が顕著であったとされ、江戸時代に周囲の漁場として開かれた経緯があります。
現在の天道茂: かつての厳しい「不入の地」としての面影を残しつつも、現在は周囲に桜やツツジが植えられ、憩いの場としても利用されています。
この場所は、対馬の深い山林と太陽信仰の結びつきを示す象徴的な聖地です。

対馬の厳原町桟原(さじきばら)は、江戸時代初期の1678年に3代藩主・宗義真が築いた「桟原城(さじきばらじょう)」の地であり、それまでの金石城に代わって対馬府中藩の統治拠点となった場所です。現在、跡地は陸上自衛隊対馬駐屯地となっており、当時の石垣や復元された高麗門が歴史を伝えています。
桟原の歴史的経緯と詳細
桟原城(桟原館)の完成(1678年)
万治3年(1660年)に着工し、延宝6年(1678年)に完成。
3代藩主・宗義真が、金石城(かねいしじょう)を補完・拡張する形で新しい居城(府城)として築城。
1869年(明治2年)の対馬府中藩から厳原藩への改称以降は「厳原城」とも呼ばれた。
構造と変遷
金石川を堀として利用し、藩主の館、重臣の屋敷が置かれた。
幕末・明治維新を経て、1871年(明治4年)の廃藩置県以降は城の役割を終えた。
現存する遺構・文化財
石垣: 国道沿いなどに当時の石垣が一部現存している。
桟原館の高麗門: 城の第三門。台風での倒壊を経て、現在は市立厳原幼稚園の敷地内に復元されている。
現在: 城跡の大部分は陸上自衛隊対馬駐屯地(かつては防衛の拠点、現在は国境防衛)として使用されている。
桟原は、対馬藩が朝鮮外交や国境防衛の拠点として格式を高める上で重要な中心地でした。
高麗門
桟原城の高麗門は戦後も現存していましたが、1987年(昭和62年)8月31日の台風12号によって倒壊したため、1989年(平成元年)に対馬歴史民俗資料館前に移転復元され、その後「市立厳原幼稚園」に再移築されました。
対馬市の指定文化財に登録されています。
復元に際して新材を使っており、形式も元来とは異なるものとなっています。
