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対馬の厳原町久田の歴史

対馬市厳原町久田は、かつて久田焼で知られ、朝鮮半島との交流の窓口として栄えましたが、明暦年間の「朝鮮焼偽物事件」をきっかけに窯は閉鎖。歴史的には、厳原町の一部として行政の中心地「厳原」に近く、茶家「久田家」のルーツ(ただし現在の表千家の久田家は別)もこの地と関連があるなど、朝鮮文化の影響と対馬独自の歴史が交錯する地域です。

歴史的特徴

  • 久田焼 (クタヤキ): 「朝鮮焼」と見紛うほどの優れた陶磁器が焼かれていましたが、1657年(明暦3年)の偽物事件を機に1658年に閉窯しました。久田の地で始まった重要な産業でした。

  • 朝鮮半島との交流: 対馬は古来より大陸との交流の要衝であり、久田もその影響を強く受け、朝鮮文化(陶磁器、仏教、稲作など)が伝わるルートの一部でした。

  • 行政区分: 昭和30年代に久田村が厳原町に編入され、現在は厳原町の一部(厳原町久田)として行政・文化の中心地「厳原」に近接しています。

現代の久田

  • 教育: 久田小学校や久田中学校(現在は統合)などがあり、地域の教育・生活の場となっています。

  • 立地: 対馬やまねこ空港から厳原へ向かう途中に位置し、歴史的背景と現代の生活が共存する地域です。

  • 朝鮮半島との交流: 対馬は古来より大陸との交流の要衝であり、久田もその影響を強く受け、朝鮮文化(陶磁器、仏教、稲作など)が伝わるルートの一部でした。

  • 行政区分: 昭和30年代に久田村が厳原町に編入され、現在は厳原町の一部(厳原町久田)として行政・文化の中心地「厳原」に近接しています。

現代の久田

  • 教育: 久田小学校や久田中学校(現在は統合)などがあり、地域の教育・生活の場となっています。

  • 立地: 対馬やまねこ空港から厳原へ向かう途中に位置し、歴史的背景と現代の生活が共存する地域です。

まとめ
久田は、久田焼の隆盛と終焉、そして朝鮮半島との文化交流の歴史が色濃く残る、対馬の中でも特徴的な地域であり、厳原の歴史文化圏の一部を形成しています。

久田家の歴史

久田家は表千家の茶家。
邸内の茶席、「半床庵」の名で呼ばれる。
千利休の時代に活躍した久田宗栄(1557-1624)を初代とし、現在十三代続く茶家である。

初代 宗栄

千利休の時代に活躍した。天正15年(1587)の北野大茶湯において茶席を持ったと伝えられる。公家や大名とも茶の湯の交わりを持ち、茶人としての名声を得た。

二代 宗利

受得斎(じゅとくさい)。宗栄の子。利休の孫である元伯宗旦の娘くれを妻とし、元伯宗旦より茶を学んだ。
次男は表千家五代を継いだ随流斎。

三代 宗全

徳誉斎(とくよさい)。二代宗利の長子で、久田家中興の祖と言われる。表千家不審菴を基とし、四畳中板の小間「半床庵」を考案する。また多くの好み道具を残し、今に伝来している。
長子の勘太郎は表千家六代の覚々斎。

四代 宗也

不及斎(ふきゅうさい)。宗全の甥。近衞予樂院家煕(いえひろ)をはじめ、公家と広く茶の湯の交わりを持ったことでも知られる。

五代 宗悦

凉滴斎(りょうてきさい)。不及斎の次男。兄の宗玄は両替町久田家として立ち、宗悦は高倉久田家をたて五代となる。

六代 宗渓

挹泉斎(ゆうせんさい)。凉滴斎の長子。挹泉斎の長子、貞蔵は表千家九代の了々斎。

七代 宗也

皓々斎(こうこうさい)。挹泉斎の次男で、了々斎の実弟。皓々斎の次男、達蔵は表千家の十代吸江斎。

八代 宗利


九代 宗与

温厚斎。吸江斎の後見をつとめた住山揚甫(ようほ)の孫。

十代 宗悦

玄乗斎(げんじょうさい)。表千家十代吸江斎の三男で皓々斎の孫。蛤御門の変で焼失した「半床庵」を復興した。
次男は武者小路千家九代の聴松宗守(愈好斎)。

十一代 宗也

無適斎(むてきさい)。宗悦の長子。『無適斎日記』を残す。

十二代 宗也

尋牛斎(じんぎゅうさい)。無適斎の長子。久田家および表千家の継承と発展に力を尽くす。

十三代 宗也

得流斎(とくりゅうさい)。尋牛斎の長子。遺志により半床庵文化財団が設立される。


厳原町久田【くた】i



国府=府中=厳原に 近いことが この村の個性をつくった

江戸時代に広形銅矛出土の記録あり

 久田浦には4つの地区がある。久田と堀田と白子と、そして増田。増田は現在の行政区ではその東半分が厳原西里になっているが、地理的には久田の一部といえ、実際にかつては久田村だった。白子はその増田の西側。堀田だけが海から離れており、現在はグランドのある一帯だ。

 江戸時代中期の1735年(享保20年)に、堀田の奥から広形銅矛が出土したという記録がある。この銅矛を見て当時の人は“昔の郷村の界標”と想像した。地中から出てくる例が多く、さらにその形状からして、かつて地表に立っていたものと理解したのではないだろうか。また、増田からも同様の矛が発見されており、対馬の約半数の村と同様、弥生時代後半にはこの辺りに集落があったことが分かる。


久田遠謀(山上の路上より)

造船と製塩の中世

 朝鮮の書『海東諸国紀』は15世紀中期に、久田浦には30余戸の家があったと伝え、その次の行に「造船五浦10余戸」と続けている。これを「造船」は久田浦を説明するもので、誤記によって隣りの五浦(尾浦)の頭についてしまったと解する郷土史家もいる。当時北隣りの村(現厳原)は100戸程度の村ではあったが、677年から国府として、朝廷の対馬統治の拠点であり、本土から船大工を呼び寄せることも可能だったことを思えば、久田で造船が営まれていたことも納得できる。

 また、1471年に書かれた古文書に「くたのかま」という表記がある。これは製塩のために海水を煮る竈のことで、中世の久田では製塩業が営まれていたことがわかる。

観光スポットになった「お船江」

 久田浦の最奥部に1663年(寛文3年)に造られた「お船江」は藩船の繋留施設、今風にいうならドック。対馬らしい史跡として、厳原市街周辺ではもっとも人気のある観光名所のひとつだ。ここで公用船は整備され、待機した。城から3.5kmも離れた場所に設けられたのも、ここに造船の設備があり船大工がいたからではないかと考えられている。

 今では人気観光スポットだが、お船江は長く忘れられていた。歴史的遺産をどう観光資産にするか、という発想が対馬では長く欠落していたと言われている。また、往々にして整備しすぎていたり、整備の方向性が違うと感じる場面もある。観光的価値を高めるのなら、観光客が対馬に何を求めているか、島外の人の価値観をもっと意識してほしい。


満潮時のお船江

対馬で最初の窯、久田窯

 江戸時代中頃まで、対馬藩は釜山に置かれた倭館に窯を設け、茶器を製作し、大名たちからの注文に応えた。その流れをくみ 断続的ではあるが対馬でも窯が経営されたが、その最初の窯が久田に設けられた。(あくまでも記録に残っている範囲で・・・)

 久田窯が記録として歴史に登場するのは、実は朝鮮焼偽物事件だった。明暦(1655年~1658年)以前に久田ではじまり、「朝鮮焼物」と見まごうほどの焼物を作っていた久田窯だったが、1657年(明暦3年)に朝鮮焼物の偽物が事件となり、それがきっかけで翌年に閉窯。対馬藩は「御用品」である「朝鮮焼」というブランドを守るために、まず久田焼には茶碗の底に「久田」と刻印するように命じたが、その後一時営業停止となり、それからの記録はない。

 1681年(延宝9年)に再び開窯されたたが、ほぼ同じ場所(増田)で作陶が行われていたと考えられている。どのような作風であったか、いつまで続いたかは記録にないが、茶道具に関しては「朝鮮焼」に似たものを作ることは禁止されていた。


増田窯は伊万里風

 1714年(正徳4年)に、大庭七郎右衛門、飯束市右衛門が久田村増田に開窯。これは記録の上で場所がある程度特定でき、「増田窯」とも呼ばれている。こちらは「朝鮮」ではなく、伊万里から職人を呼び「伊万里」に似たものを作らせた。島内の需要を満たすために焼かれ、村々の事情を考えてイリコなどの現物との交換というユニークな商売を打ち出したが、約4年後に閉窯したと考えられている。
厳原のベッドタウンとして
 1884年(明治17年)の記録によれば、久田は農業者18戸、漁業兼業者43戸、商工業者26戸となっている。当時対馬でこれほど商工業者の多い村は他にないという。島内随一の消費地である厳原市街への商品供給地だったようだ。
 それは戦後もしばらくの間は変わらなかった。昭和51年4月、企業誘致第一号として紳士服のエフワンの縫製工場「対馬エフワン」が操業を開始。対馬に新しい雇用を生み出したが、その後撤退。その頃から、久田は商品供給地というよりは厳原のベッドタウン化し、新たな消費地としての道をたどった。
 新しい住宅の多い久田だが、港に近い久田地区は石垣の路地も多く、郷愁をそそるものがある。お船江観光のついでに散策するのも悪くない。


久田地区の石垣

【地名の由来】 この村では長く稲作をしていたが、水利を失い白田(やせた耕作地)になってしまったという記録がある。そこで、「久田」とは本来「朽田(クッタ=廃田)」ではないかと考えられている。

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