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流砂のドクロ ― 殺害と対話の輪廻 ― 0話〜10話

第0話 砂の記憶、あるいは開演の辞

これは、ひとりの男が「己」を失い、そして再び拾い上げるまでの、永劫にも似た時間の記録である。

かつて、天界の最上層において、至高の秩序を象徴する御簾(みす)を巻き上げる役職があった。その名を捲簾大将(けんれんたいしょう)という。彼は光の中に住み、神々の静寂を守る、完璧な歯車の一つであった。

しかし、一枚の玻璃(はり)の杯が砕けたとき、その完璧な世界は終わりを告げた。

天を追われ、光を剥ぎ取られ、彼は赤茶けた砂が渦巻く絶望の淵――流砂河(りゅうさが)へと叩き落とされた。そこで彼は、もはや神でも人でもない、ただ飢えと渇きに身を焼かれる妖怪へと成り果てた。

男は、自らをこの地獄に繋ぎ止めるため、一つの奇妙な儀式を課した。

この河を渡ろうとする貴き魂を奪い、その証として頭蓋を首に掛けること。

一人、また一人。

同じ瞳、同じ静寂、同じ「悟り」への意志を持つ僧侶たちがやってきては、彼の爪によって命を散らした。九人の尊い犠牲。九つの白い髑髏。それは彼にとっての戦利品であり、同時に、この孤独な世界で唯一自分を定義してくれる「他者」との繋がりであった。

そして、十人目。

運命の輪が一周し、かつて九度殺したその魂が、玄奘(げんじょう)という名を持って再び彼の前に現れる。

これは、暴力と哲学、殺害と恋慕の果てに、怪物が一人の僧侶に調伏(ちょうぶく)され、沙悟浄(さごじょう)という戒名を与えられるまでの物語。


第一話 流砂の産声

天を追われ、この濁った赤茶色の河に叩きつけられた時、私の「言葉」は一度死んだ。

流砂河。羽毛さえ沈み、生者の呼吸を許さぬ絶望の淵。私はここで、ただの空腹な獣として再生した。かつて天界の秩序を守る捲簾大将であった頃の誇りは、水底の泥に混じり、二度と拾い上げることはできない。

そこに、最初の「彼」が現れた。

粗末な衣を纏い、杖を突いたその男は、私の住処である河の岸辺に立ち、対岸を見つめていた。私は水面を割り、泥に塗れた姿で這い上がった。男は私を見ても逃げなかった。ただ、深い、深すぎるほどの静寂を湛えた瞳で私を見つめた。

「そこを退いてくれないか。私はあちら側へ行かねばならないのだ」

男の声は、風に吹かれる鈴のように清らかだった。その清らかさが、吐き気がするほどに不快だった。

「この河を渡る者は、己が何者であるかを捨てねばならぬ。お前にその覚悟があるか」

「私は、私を捨てるためにここに来たのです」

男は微笑んだ。私はその微笑みの意味を理解する前に、爪を男の喉へと走らせていた。抵抗はなかった。温かい鮮血が指の間を流れ、乾いた砂に吸い込まれていく。ただそれだけだった。

男の死体は河に沈んだ。だが不思議なことに、頭蓋だけがプカリと浮き上がってきた。私はそれを拾い上げ、首に掛けた。

これが、最初の「重み」だった。私と彼の、果てしない輪廻の始まりを告げる、白い産声だった。


第二話 砕けた秩序の残像

水底で目を閉じると、決まってあの音が聞こえる。

パリン、と。

水晶の杯が砕け、天界の静謐が粉々に飛び散る音。西王母の誕生会、完璧な幾何学模様で構成された世界において、私の「失態」は許されざるノイズだった。

「秩序とは、一つの欠けも許さぬ氷のようなものだ」

かつての同僚たちは、冷ややかな視線でそう告げた。玉帝の怒りは雷霆となって私の背を焼いた。八百回の打擲(だちょうてく)。肉が裂け、骨が軋む痛みよりも、私が守ってきた「完璧な世界」から自分が剥がれ落ちていく恐怖の方が、遥かに勝っていた。

私は、秩序の守護者から、混沌の住人へと堕とされた。

今の私にとって、唯一の規律は首に掛かった一つの髑髏だけだ。時折、その虚ろな眼窩が私に問いかける。

「お前を罰したのは神か、それともお前自身の潔癖さか」

私は答えず、ただ砂を噛む。天界の夢は、目覚めた後の水の冷たさを際立たせるだけの、質の悪い毒薬だ。私はただ、次の「対話者」を待つために、再び赤い水底へと身を沈めた。


第三話 五行山の残響

風が、西の方角から妙な噂を運んできた。

天界を震撼させ、釈迦如来の手によって五行山に封じられたという「石猿」の話だ。銅を飲まされ、鉄の丸薬を食わされる五百年の刑。私と同じ、あるいは私以上の地獄を、その猿は味わっているらしい。

「自由を求めた代償が、身動き一つ取れぬ岩の下か。滑稽だな」

私は独りごちた。かつて天界でその猿の暴れ回る姿を遠目から見たことがある。彼は既存の理(ことわり)をすべて否定し、己の力こそが真実だと叫んでいた。だが、結果はどうだ。結局は如来の掌の上で踊っていたに過ぎない。

私は、その猿を羨ましいと思った。彼は明確な敵(神々)を持ち、明確な憎しみを抱いて生きている。それに比べて、私はどうだ。

私が殺したあの男は、死の間際に「感謝」のような色を瞳に浮かべていた。私の中に、猿のような猛々しい怒りはない。ただ、砂が堆積するように積み重なっていく、空虚な時間があるだけだ。

「……また、誰かが来る」

河の気配が変わった。二番目の男が、岸辺に立っている。私はゆっくりと、波を立てぬように水面に顔を出した。


第四話 二番目の男と「捲簾」の名

二番目にやってきた男は、最初の男よりも少し老いていた。

「この河を渡れば、西に天竺があるという。怪物よ、道を開けてはくれぬか」

私は濁流の中から、その男を冷ややかに見上げた。私の背中には、かつて天界の玉帝の傍らに侍っていた頃の黄金の鎧はない。あるのは、濡れて腐臭を放つ肌と、罪人の証である荒い呼吸だけだ。

「天竺に何がある。そこに行けば、失ったものが戻るとでも思うのか」

「戻りはしません。ただ、意味が変わるのです」

男の言葉が、私の胸に刺さった。かつて私は捲簾大将と呼ばれていた。神々の行列の先頭に立ち、天の御簾を巻き上げる名誉ある職務。あの完璧な秩序の中で、私の名は「信頼」と同義だった。だが、一枚の杯を割っただけで、その名は剥奪され、私はただの「砂に棲むもの」に成り下がった。

「意味など変わらぬ。死ねばすべては無だ」

私は男の胸を貫いた。男は最期に、「捲簾……それがあなたの、本当の名なのですか」と、風の噂に聞いたのか、私の名を呼んで息絶えた。

首に二つ目のドクロが加わる。私は自分の名を呼んだ男の喉を、少しだけ愛おしく、そして激しく憎んだ。


第五話 地仙たちの「王」の噂

私の棲む流砂河は、地上の喧騒からは切り離されている。だが、水面を渡る風は、時として余計な毒を運んでくる。

「牛魔王が、地上の仙人どもをまとめ上げ、一大勢力を築いているらしい」

そんな噂が、死にかけた行商人の霊から漏れ聞こえてきた。天界に昇ることを許されず、地上で細々と霊力を蓄える者たち。かつての私――捲簾であった頃の私なら、そんな連中を「秩序を乱す不純物」として一蹴していただろう。

だが今は違う。牛魔王という男の野心は、この河の底にまで響くほどに猛々しい。彼は天界に取って代わろうとしているのか、それとも、天界など初めから見限っているのか。

「群れて何になる。結局は、死という名の流砂に呑み込まれるというのに」

私は首の二つのドクロをぶつけ合い、その乾いた音を聴いた。このドクロたちの方が、牛魔王が束ねる数万の兵よりも、私にとっては饒舌で、真実に近い存在に思えた。

――だが、その夜、私はふと考えた。

牛魔王には「仲間」がいる。彼の声を聞く者が、数万もいる。私の声を聞いた者は、今のところ二人だ。そしてその二人とも、今は私の首にぶら下がっている。

羨ましい、などとは思わない。ただ、二つの髑髏が触れ合う音が、今夜に限ってひどく遠く聞こえた。

第六話 三度目の巡り合わせ

三番目の男は、詩人のような男だった。彼は河の岸辺に腰を下ろし、夕日に染まる流砂河を眺めていた。私が現れるのを、まるで知っていたかのように。

「捲簾大将。いや、今はそう呼んではいけないのでしたか」

私は殺気を持って応えた。

「その名で私を呼ぶな。私はもう、誰の御簾も巻き上げはしない」

「いいえ、あなたは今も巻き上げている。この河という名の、生と死の境界にある重い御簾を」

男は微笑み、私の首にある二つのドクロを指差した。

「彼らは死んだのではない。あなたが、次の世界へ送り出したのだ。……さあ、私も送っていただけますか」

哲学的な問いかけ。私は、この男を殺すのが少しだけ惜しいと感じた。だが、殺さなければ、この男の言葉が私の冷たい水底を侵食してしまう。

私は男の首に手をかけた。男は抵抗せず、私の耳元で囁いた。

「また会いましょう。次、あるいはその次。あなたが、その首のドクロで舟を造るその日まで」

三つ目の重みが、私の鎖に加えられた。それは、これまでで最も重く、そして奇妙に温かいドクロだった。


第七話 水面の鏡、あるいは不在の証明

「……そこにいるのか」

「ここにいる、という言葉が指し示す場所が、この砂の積み重なりを意味するなら、私はここにいる」

「お前は、私に殺されるために来たのか」

「殺される、という現象は、私の『存在』を否定することにはならない。器が壊れても、水そのものが消えるわけではないように」

「詭弁だ。肉体が消えれば、お前の思考も、その清らかな眼差しも、すべてはただの腐った肉の塊に帰す。それがこの流砂河の唯一の真理だ」

「では問おう。今、お前の目の前に見えている私は、本物か?」

私は答えを探した。答えは出なかった。

「見えている。私の喉を焼く怒りと、お前の首を絞める私の手の感触。これ以上の実存がどこにある」

「感触とは、お前の脳が作り出した信号に過ぎない。お前が私を殺したとしても、お前は私の『心』を殺したことにはならない。なぜなら、心とは場所を持たず、形を持たず、ただ現象として立ち現れるものだからだ」

「場所を持たないものが、なぜこうして歩き、天竺を目指すなどという無意味な目的を持つ」

「目的があるから歩くのではない。歩くという行為の連続が、私という現象に『三蔵』という名前を与えているに過ぎない。お前も同じだ。誰かを待つという行為の連なりが、お前をここに繋ぎ止めている」

「私は誰も待っていない。ただ、飢えているだけだ」

「いいえ。お前は飢えという痛みを通じて、自分がまだ『空(くう)』ではないことを確認しようとしている。私を殺すたびに、お前は私を自分の首に刻み、私の不在を証明することで、逆説的に自分の存在を定義しているのだ」

「黙れ」

「言葉を止めても、砂は流れる。私が死んでも、お前の問いは消えない。実存とは、誰かに見られ、誰かに記憶されることではない。この虚無の中で、それでも『なぜ』と問い続けるその震えこそが、お前のすべてだ」

「……次に来るお前も、同じことを言うのか」

「次、という言葉が意味を持つなら、その時の私は、今のお前よりも少しだけあなたに近い存在になっているだろう」


第八話 風の音と、猿の嘆き

対話が終わると、決まって耳鳴りが残る。

あの男を殺し、四つ目のドクロを首に掛けた後、私は数十年をただの石のように過ごした。時折、上空を掠めていく渡り鳥が、地上の騒がしさを運んでくる。

「五行山の猿が、ついに釈迦の呪文に屈したらしい」

そんな風の噂を聞いた。あの傲慢で、天界のすべてを敵に回した斉天大聖が、たった一枚の紙切れの下で、五百年の沈黙を強いられている。それはもはや、死よりも残酷な敗北に思えた。

牛魔王の「生」への執着と、悟空の「停滞」した生。それに比べて、私のこの日々はどうだ。

私は首に掛けた四つのドクロを一つずつ指でなぞる。指先に触れる冷たい骨の感触だけが、私にとっての唯一の「実存」だった。あの男との問答が、私の内側で黒い種のように根を張り始めている。

「心とは、形を持たない現象……」

私はその言葉を反芻し、次の「現象」が岸辺に現れるのを、ただひたすらに、恋い焦がれるように待った。


第九話 夢の終わりの、その先

天界にいた頃の私は、夢を見なかった。すべてが光に満ち、すべてが予定調和の中にあったあそこでは、夢を見る必要がなかったのだ。

だが、この泥水の中では、私は毎晩のように「捲簾」であった頃の自分を見る。御簾を巻き上げ、玉帝の威光をその身に受けていた、光り輝く人形のような私。あの頃の私に「心」はあったのだろうか。あるいは、ただの精密な時計のように、命じられた時間を刻んでいただけだったのか。

「……捲簾様」

夢の中で、誰かが私の名を呼ぶ。それは天女の声だったか、それとも、私がこれから殺すことになる男の声だったか。

目が覚めると、頬を赤い砂が撫でている。私はもう、光り輝く大将ではない。ただ、ドクロを愛で、哲学という名の猛毒を啜りながら、永遠の停滞を生きる化け物だ。

ふと、水面が揺れた。五人目だ。今度の男は、どのような「言葉」を持って、私の静寂を壊しに来るのか。私は喜びと憎しみが混ざり合った、歪な笑みを浮かべて、水面へと浮上した。


第十話 五番目の男と「痛みの共有」

五番目に現れた男は、まだ少年と言っても差し支えないほどに若かった。その肌は白く、一度も厳しい修行に身を投じたことがないようにも見えた。だが、彼が私の前に立った時、その足元からは微塵の迷いも感じられなかった。

「あなたは、私を殺す時に痛みを感じるのですか?」

若者が最初に発した問いは、私の予想を裏切るものだった。

「痛み? 私が? 笑わせるな。裂かれるのはお前の喉であり、砕かれるのはお前の骨だ。私には何の痛みもない」

「いいえ。あなたは、私が流す血と同じ温度の涙を、心の中で流している。そうでなければ、これほどまでに丁寧に、先人たちの髑髏を並べるはずがない」

私は逆上し、若者の胸ぐらを掴み上げた。

「貴様に何がわかる。天を追われ、光を奪われ、この泥水に沈められた者の痛みが!」

「わかります。痛みとは、他者と繋がるための唯一の、そして最後の糸だからです。あなたが私を殺し、私があなたに殺される。この激しい摩擦だけが、この孤独な河において、私たちが『生きている』ことを証明する。……さあ、始めてください。あなたの痛みを、私に分けてください」

若者は微笑み、目を閉じた。

私は衝動のままにその命を断った。だが、その時初めて、私の指先には言いようのない痺れが走った。それは確かに「痛み」に似ていた。

五つ目の髑髏。それは他のどれよりも白く、未熟な光を放っていた。

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