Beyoncéと歌舞伎に共通する「人形」の美学|『メトロポリス』と八百屋お七をつなぐもの
はじめに
初めてBeyoncéの機械的なパフォーマンスを見たとき、私は少し不思議な感覚になった。
完璧に制御された動き。静止した視線。感情を抑えたような表情。
冷たく、無機質で、まるで人間ではない何かのようだった。
けれど同時に、そこには強烈な感情が宿っているようにも見えた。
特に『Renaissance』期以降のBeyoncéには、“機械”や“アンドロイド”的な身体表現がたびたび登場する。
銀色の衣装。メタリックな質感。ロボットのように統制されたダンス。人間離れした静止。
そこには、1927年の映画『メトロポリス』を思わせる空気がある。
そして私は、ふと思った。
――これは、歌舞伎の「人形振り」に少し似ているのではないか?
歌舞伎の『櫓のお七』では、役者はあえて“人形のように”動く。
不自然な動き。制御された身体。感情を直接見せない演技。
しかしその不自然さが、逆に激しい情念を浮かび上がらせる。
なぜ人は、“人間らしくない身体”に感情を見てしまうのだろうか。
この記事では、『メトロポリス』、Beyoncé、そして歌舞伎『櫓のお七』を通して、「操られる身体の美学」について考えてみたい。
Beyoncé performing at the BET AWARDS (2007)
— Future Rockstar GF (@fendifaguette) July 2, 2020
Metropolis (1927) pic.twitter.com/ewYwPeV70X
第1章:『メトロポリス』――機械なのに、人間より魅力的な存在
1927年公開の映画『メトロポリス』は、SF映画史の原点とも言われる作品である。
巨大都市メトロポリスでは、富裕層が地上で華やかに暮らす一方、地下では労働者たちが機械のように働かされている。
その中で特に有名なのが、“ロボット・マリア(False Maria)”の存在だ。
女性型アンドロイドである彼女は、人間そっくりの姿を持ちながら、どこか不気味で、人間離れしている。
硬質な動き。無機質な視線。作られた笑顔。
しかし皮肉なことに、その「人間らしくなさ」が、逆に強烈な魅力を生んでいる。
『メトロポリス』は単なるSFではない。
そこでは、「人間とは何か」「感情とは何か」が、“不自然な身体”を通して描かれている。
完全に人間らしい存在よりも、少し壊れた身体、少し不自然な動きの方が、なぜか人間の感情を強く感じさせる。
この構造は、現代のポップスター表現にも受け継がれているように思える。
第2章:Beyoncéの“機械化された身体”
Beyoncéのパフォーマンスは、しばしば「完璧」と言われる。
しかしその完璧さは、単なるダンス技術だけではない。
彼女は時々、あえて“人間らしさ”を削ぎ落としている。
『Renaissance』期では特に、その傾向が強く見えた。
銀色の世界。クローム質感。無機質な光。ロボットのように揃った身体。
そこではBeyoncéは、単なる歌手というより、“未来的存在”として演出されている。
特に印象的なのが、「静止」の使い方だ。
普通、人は感情を伝えるとき、表情を動かし、身振りを増やす。
しかしBeyoncéは逆に、
動かない
表情を抑える
視線を固定する
身体を様式化する
ことで、観客に強烈な緊張感を与える。
感情を説明しないからこそ、観客はそこに感情を読み取ろうとする。
これは、『メトロポリス』のアンドロイド表現とも非常に近い。
「完全に人間らしい身体」ではなく、「少し機械化された身体」を見せることで、人間性そのものを逆説的に浮かび上がらせているのだ。
しかし、この「人間らしくなさによって感情を浮かび上がらせる構造」は、実は江戸時代の歌舞伎にも存在していた。
『櫓のお七』の人形振りである。
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