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ななめよみ詰所その4 サンチョ・パンサの帰郷  石原吉郎

 
「サンチョ・パンサの帰郷」 (思潮ライブラリー・名著名詩選) 石原吉郎

 附録資料は、

鮎川信夫・谷川俊太郎・石原吉郎
鼎談 作品と作者のつながりをどうみるか(抄)

栗津則雄
詩を超えたものとの対話(抄)

財部鳥子
サンチョ・パンサの意味場

粕谷栄市
インタビュー
「ロシナンテ」以後の生きざま(抄)

 このうち、粕谷さんによる石原さんの人物像についての話がちょっと面白くて。以下。

 ~帰国後、石原さんは海外電力調査会に勤めて、そこでロシア語文献の翻訳をしていました。ロシアの発電所の設計資料をつくったりする仕事で、工学の知識を一生懸命勉強したそうです。収容所の話はよくしていました。石原さんは話が上手でみんな熱心に聞くのですが、同じ話もよくする。だから「またおっさんのシベリア物語が始まった」と(笑)。詩とどういう関係があるのかその頃は誰も思わなかったわけです。
 石原さんは興味の幅がけっこう広くて、満鉄時代から新興俳句系の俳句詩に参加したり、シベリアに行ってからも句作していたようです。僕にもときどき葉書で俳句を送ってくれました。「虹のごとき暴動少女と飛行士死す」という句をくれましたが、これはぼくの詩「暴動」や「動物記」のきっかけにもなりました。石原さんの詩「馬と暴動」より先のことですが、まあもともとは石原さんですね(笑)。戦前の漫画、アメリカやヨーロッパの漫画も好きでした。ただ、信仰のことはあまり話さなかった。日本人にとって普遍的なことではないですし、話してもしょうがないと思ったのでしょう。
 ~石原さんは音楽や美術に関しても、実は結構ミーハーなんです。カーペンターズとか喜んで聞いていましたよ。
 最晩年にエッセイを書いて消耗しきった石原さんの姿が、みんなには残っている。刻苦精励し、シベリアから帰ってきて必死に生きたという。それはその通りだけど、でも案外そうでもないんですよ。もっと自由で、のびのびと明るい石原さんがいた。でなければ、「サンチョ・パンサの帰郷」のような詩は書けないじゃないですか。詩を書くことが楽しくてしょうがない感じで、ほんとうに子供のように夢中で書いていました。
 ~経歴を知ることなしに詩が読めないというのは、石原さんが最も望まないことです。最近は若い人たちも収容所の話抜きで、石原さんの詩をいいと言うらしい。たぶん普遍性というか、幅の広さ、深さがあるからで、とても喜ばしいことです。~
      二〇十五年十一月号 「現代詩手帖」


  位置      石原吉郎

しずかな肩には
声だけがならぶのでない
声よりも近く
敵がならぶのだ
勇敢な男たちが目指す位置は
その右でも おそらく
そのひだりでもない
無防備の空がついにたわ
正午の弓となる位置で
君は呼吸し
かつ挨拶せよ
君の位置からの それが
最もすぐれた姿勢である




「すなわち最もよき人びとは帰っては来なかった」。「夜と霧」の冒頭へフランクルが差し込んだこの言葉を、かつて疼くような思いで読んだ。あるいは、こういうこともできるであろう。「最もよき私自身も帰ってはこなかった」と。今なお私が、異常なまでにシベリアに執着する理由は、ただひとつそのことによる。私にとって人間と自由とは、ただシベリアにしか存在しない(もっと正確にはシベリアの強制収容所にしか存在しない)。日のあけくれがじかに不条理である場所で、人間ははじめて自由に未来を想いえがくことができるであろう。条件のなかで人間として立つのではなく、直接に人間としてうずくまる場所。それが私にとってのシベリアの意味であり、そのような場所でじかに自分自身と肩をふれあった記憶が、「人間であった」という、私にとってかけがえのない出来事の内容である。
                        一九六三・九・二八

        「サンチョ・パンサの帰郷」石原吉郎 あとがき全文 




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