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noteで開く陰と光の扉 ~さざめき忍び言098~

私がnoteで「さざめき忍び言」を書き始めたのは、ごく私的な理由からだった。コロナの後遺症という訳ではないだろうが、ここ数年、花を見ても歌を聞いても何の感動もなく、汚部屋にいても何もしなかった。心も体も動かない、抑うつの日々だった。
心療内科など医療機関が実に何も役に立たない事はわかっていた。だから、加齢という避けがたい現実に向かうために強引にでも自身で何とかするしかなかった。色々調べたところ文章を綴る事が心身を整える一助になると知った。

別件で「さざめき」と「忍び言」という言葉を見つけたのを何かの縁と考え、半信半疑ながらも連日100本投稿しようと決めた。
気分は青春ドラマ。1000本ノックや1000本ダッシュを課せられて果敢に挑戦する不器用で無様な主人公だった。

でもnoteは優しかった。私のいい加減な動機と欲求を受け止めてくれた。見栄もプライドもなしに瞬間的に思いついたまま、蹴っ飛ばすように投げつけるように言葉を綴った。いいねの数やフォロワー数といった数字なんか関係なかった。別に誰かのためにでもなく、ただ自分のためだけに綴った。

やがて独り言であった「さざめき忍び言」は、自己表現の実験場となった。心に引っかかったままの小さな棘、誰にも打ち明けたことのない秘密の感情、言葉にしたことのない思い。過去の記憶を辿り、感情のトビラをギシギシ言わせながら開いていく作業は、まるで自分自身の心の中の闇を歩く探検のようだった。
時にそれは恐怖を伴うが、言葉としてアウトプットすることで、心の澱みが浄化され流され光が射し、新たな視点や気づきを見つける事が出来た。

同時に多くの素敵な書き手からは多様な価値観を知った。
様々な人々の作品に触れることで、創作に対するモチベーションも高まった。また、天邪鬼に「『いいね』の数やコメントは関係ないネ」と言いながらも、自分の言葉に共感してくれると何よりも励みになった。


しかし、現在のnoteには、いくつかの疑問・疑惑・疑念も感じている。特に、近年急速に進化しているAI技術の存在は無視できない。AIによる文章生成ツールを使えば、誰でも簡単に文章を作成できるようになった。それは、創作のハードルを下げるという点で歓迎すべきことだが、同時に安易な収益化を推進することで、実に質の低いコンテンツの氾濫を招く可能性も孕んでいるのではないかと。

AIが生成した文章は、確かに技術的には優れているかもしれない。しかし、そこに書き手のねつ情熱たましい、オリジナリティが宿っているとは言い難い。AIが登場するまでのnoteには、大変失礼な言い方だが「へったくそ」な文章があふれていた。でもそこには思いを伝えようとしてキーボードに向かう必死な姿が見えるようだった。
最近はどれも読み易くこなれた文章が多くみられる。それは起伏のないプラスチックのようにどこかつるんとしていて心には引っかからない。

現AIは過去のデータを学習し、パターンを模倣することに長けているが、真に新しい発想や感情を生み出すことはできない。noteが今後も魅力的なプラットフォームであり続けるためには、AIによる創作と人間の創作を明確に区別し、本物のオリジナリティを評価する仕組みを構築する必要があるのではないか。

例えば、AIによって生成されたコンテンツには明確な表示を義務付けたり、人間の手による創作を奨励するようなコンテストや企画を実施したりする。それでも疑惑や誤解を生じかねない投稿には即時削除や退会処分も時には必要だろう。実際に私が見たところでも、これはどうなんだろう?と思われる投稿が放置された状態になっている。

また、読者側の知識、洞察力を高めることも重要だ。AIによって生成された文章の特徴を理解し、表面的な美辞麗句に惑わされず、本当に心に響く作品を見抜く目を養う必要がある。

noteは、誰でも気軽に自己表現ができる場所であると同時に、創造性を磨き、才能を開花させるための場所でもある。AI技術の進化という新たな波を乗りこなし、真のオリジナリティを尊重するプラットフォームとして成長していくことを、私は願っている。

今後、note運営者やnote執筆者に限らず、エンタメ業界、マスコミ業界など創作活動を担う人々は、心の声により耳を澄ませ、時には自分自身に『やいば』を向ける覚悟も必要ではなかろうか。




100本投稿しようと決めて90本を超えた。100本になったら削除してしまおうかとも考えたが、大切なコメントもいくつかあるのでとりあえずマガジンに格納してみた。
まとめてみると記憶のない記事もあったりして自分自身でも興味深い。最初の頃は「食う事」ばかりで情ない。そんなものにしかおもいが届かなかったのだろう。