甘いの好きやから|バナナマフィン
その頃の私は、日常に戻りつつあった。
苦しさはある。
完全ではない。
けれど、一番のどん底にいた時よりは、
前を向けるようになった。
そんな時期。
忘れられない出来事がある。
────
バレンタイン。
その会社には、お菓子を配る空気があった。
「それが礼儀や」
モチノさんに言われて
そういうものか、と思った。
そうだ。
いつもお世話になってるあの人達にも
お菓子を配ろう。
せっかくなら、前向きに。
そう思ったあと、私は止まった。
でも、なにを渡せばいいのだろう。
────
モチノさんは、毎回
デパートの高級チョコレートを
ほとんどの男性にプレゼントしていた。
「お金ないんやろ。
こんなチョコ買われへんのやから、
やれる範囲でやりや」
珍しくモチノさんは、
まともそうな事を言ってきた。
「そうですね、ありがとうございます」
そう答えた。
確かに、私には真似出来ないな。
────
帰りの電車の中。
考える。
正直、お金はなかった。
自分のチームの人と、
各部署の部長。
それくらい渡せばいいと
モチノさんは言ってた。
それでも、人数はそこそこいる。
市販のお菓子を人数分買うのは厳しかった。
私は、電車を降りたその足で
スーパーへ向かった。
────
低コストで喜んで貰えそうなもの。
スーパーをぐるぐる歩き回る。
ないな。
しばらく歩き回ったあと、足を止めた。
あ、作ればいいんだ。
普段、お菓子なんてほとんど作らない。
しかも私は、昔からお菓子作りが苦手だった。
普段の自分の能力から
なぜその発想が出てきたのかは、
よく分からない。
けれど、そう閃いてしまった。
────
その場でインターネットを検索する。
ガトーショコラ、生クリームのケーキ……
難しいな。
もっと簡単で、スーパーで手に入る材料で、
すぐできるもの。
満足感があるもの。
検索した画面に出てきたのは、
バナナマフィンだった。
あ、簡単そう。
混ぜて焼くだけ。
バナナも安いし。
これならなんとかなる気がした。
────
材料を買い、
自宅に戻ると、早速作り始めた。
「えーっと、次はバナナを切って……」
インターネットでレシピを調べながら悪戦苦闘する。
「生地はいい感じ」
そのまま、紙コップに生地を流し込む。
「何分焼くんだっけ?」
レシピに目をやる。
「えっ、6個ずつしか焼けないの?」
一度で全部焼けると、勝手に思い込んでいた。
「うわぁ……何時間かかるんだろう」
うんざりした。
オレンジ色に照らされる
バナナマフィンを、祈るような気持ちで見つめる。
「上手くいって、お願いだから」
─────
焼き上がったマフィンを
オーブンから取り出した。
あれ、なんか黒いな。
バナナ、溶けてる。
え、これ正解?
インターネットの画像と見比べる。
いや、なんか変。
汚い。
……失敗したかもしれない。
ザワっとした感覚が全身を包む。
うわぁ、どうしよう。
これ、本当にあげるの?
ひとつ食べてみる。
うわっ、甘い。
そのマフィンは、想像したより甘かった。
なんで?
レシピ通りに作ったのに。
もう少し砂糖を減らせばよかった。
泣きそうになった。
もう一度、作り直す?
いや、材料は残ってない。
多めに買っておけばよかった。
冷蔵庫を探す。
なにか残ってるもので作れないか。
必死に考えてみたけれど、
何も思いつかない。
仕方ない。
こういうのは、気持ちだから。
続きを焼こう。
私は黒いバナナマフィンを取り出し、
次のマフィンをセットした。
オーブンの温度や、時間を変えてみようか。
でも、生焼けになるのも恐ろしい。
だめ。それはダメ。
ああ、慣れないことなんか、するから。
涙が出る。
同じように、何度も焼き続けた。
「やっと……、終わった……」
全部のマフィンを焼き終わった頃には、
時刻は夜中の2時を回っていた。
もうこんな時間。
早く寝ないと。
冷ましたマフィンの上からラップをして、
輪ゴムで留めた。
────
翌日。
紙袋にたくさんのバナナマフィンを下げて、
会社へ向かう。
「おはようございます」
歩いていくヤマダさんの後ろ姿に声をかける。
「おはよう」
ヤマダさんが、振り返る。
ヤマダさんも紙袋を持っていた。
「沢山ですね」
「お互いやな」
二人で並んで歩く。
「ヤマダさん、何作られたんですか?」
私が聞くと、ヤマダさんは笑って言った。
「簡単やで。バナナマフィン」
私は固まった。
紙袋の中には、
リボンで可愛くラッピングされた
おびただしい量のバナナマフィン。
「あの、実は私も……」
私は紙袋を広げて見せた。
「ほんまや、一緒やな!」
ヤマダさんは笑った。
ヤマダさんは、特別なことをしてる感じが
全くなかった。
私は、
一気に恥ずかしくなった。
なんで被るの。
しかも、
なんでこんなに違うの。
ヤマダさんのマフィンは、
当たり前に綺麗だった。
ちゃんと焼けていて、
ちゃんとラッピングされていて、
お店みたいだった。
それに比べて私のマフィンは、
少し黒くて、紙コップに入っていて、
ラップを輪ゴムで留めただけ。
並ぶと余計に違いが分かった。
────
私は、腹を括り、
バナナマフィンを配った。
「ちょっと黒くない?」
周りに笑いながら言われる。
別に、
馬鹿にされていたわけじゃない。
でも私は、
勝手に惨めになっていた。
ああ、やっぱり。
なんかもう、
全部ダメだ。
「すみません、
バナナ黒くなっちゃって……」
私は謝りながら配った。
「でも、一生懸命作ったんで、
食べてください」
そう言って、
無理やり笑って配った。
何かに必死だった。
────
お昼。
モチノさんが、ヤマダさんのマフィンを口に入れる。
「ヤマダさんのは、まぁ、美味しいな」
珍しく、モチノさんの口から
"褒め”の言葉が出てきた。
続けて私のを、ひとくち食べる。
「これ、甘すぎやわ。
なんでバナナ溶けてるん?」
こっちが聞きたかった。
私は笑って誤魔化した。
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昼ごはんを食べ終わった私は
残りの人へ渡す。
もう渡したくなかったけれど、
あげないのもそれはそれで失礼な気がした。
モリタ部長は、
私と全然関係ない部署の部長だった。
「部長、これ私の手作りで
恥ずかしいんですけど……」
私は、ほかの部長と同じように
ラップ付きバナナマフィンを机に置いた。
モリタ部長は、こちらを見て笑った。
「お!ありがとう」
隣には、ヤマダさんのバナナマフィン。
目眩がしそうだった。
嫌なら捨ててください。
そう言いたかった。
その時だった。
モリタ部長が、私のマフィンを手に取った。
「あ、あの!
美味しくないかもしれません、すみません」
私は謝った。
朝から言い続けていたセリフだった。
「そうー?」
モリタ部長は、そのまま
その場でラップを外した。
「あ、ラップですみません……
しかも、なんかマフィン黒くて……」
慌てて言う私に、モリタ部長は笑った。
「いや、これ開けやすくてええやん」
そう言って、
そのまま一口食べた。
「うまっ。これ好きやわ」
私は思わず顔を上げた。
「めっちゃ甘いな!
俺、甘いの好きやねん」
そう言って、
モリタ部長は普通に、パクパクと食べ続けた。
「ごっそさん!」
モリタ部長は、本当にその場で完食した。
「これ、美味いで」
食べ終わったあと、
近くにいた他の部長にも嬉しそうにそう言っていた。
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モリタ部長は
その場で私のマフィンを開けて食べてくれた。
比べることもなく、
評価することもなく。
ただ、
「美味しい」と言った。
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あの時の私は、
溶けて黒くなったバナナマフィンを
差し出すたびに、
採点される気がしていた。
誰かより劣っている気がして、
迷惑をかけている気がして、
恥をかいている気がしていた。
だから、
先に自分で謝っていた。
でも、
モリタ部長は違った。
黒いとか、
ラッピングとか、
そういうことを見ていなかった。
ただ、
私が作って持ってきたものを、
そのまま受け取ってくれた。
そして、超甘党で有名なモリタ部長の舌には
私のバナナマフィンが合っていた。
それだけだった。
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今でも時々、
あの紙コップのバナナマフィンを思い出す。
あの日、
あの溶けたマフィンを
一番厳しく採点していたのは、
私だったのかもしれない。
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🫧この形の私

