「ありがとう」が言えなかった理由 🔥4
いつからか、人からの善意が怖くなった。
はっきりした理由は、分からなかった。
相手は、嬉しそうだった。
でも、私は怖かった。
ありがたいことのはずなのに。
それでも、
「欲しくない」と思ってしまった。
こういう時、どうしたらいいんだろう。
なんて言えば、
私の気持ちは伝わるんだろう。
────
我が家では、食べ物を腐らせることが多かった。
買い込みすぎては使いきれず、
いつのまにか傷んでいく。
じゃがいもは芽どころか葉っぱまで出ていて、
底の方は溶けて汁が滲んでいた。
父は、定期的に冷蔵庫を開け、
中身をチェックしていた。
父の気分次第で、それは唐突に始まる。
冷蔵庫の扉が乱暴に開けられる。
調味料の期限を確認する金属音。
段ボールをひっくり返す音。
野菜をゴミ袋に叩きつける音。
「ちょっと来い」
父に呼ばれ、大きな声で怒鳴られる時もあった。
またある時は、片付けながら
機嫌の悪さを撒き散らす日もあった。
そんな生活が、小学校の頃からずっと続いていた。
⸻
ある日、父方の伯母が我が家に遊びに来た。
伯母は明るくて裏表のない人だった。
そして、料理をするのが好きだった。
料理を作って振る舞うのが好きだったのかも知れない。
とにかく来るたびに大量の食材を買い込んで、
一日中台所に立っていた。
その日も、段ボール数箱分の食材を抱えて家に入ってきて、楽しそうに料理を始めた。
肉、魚、野菜、調味料……どれも大量。
そして帰る頃には、テーブルに乗りきらないほどの料理と食材が残された。
冷蔵庫にもたくさんの食材が入っていた。
伯母は笑顔で言った。
「たくさんあるから、使ってね。
好きに食べていいから。」
その光景を見た瞬間──
胸の奥がズン、と冷たく沈んだ。
父が冷蔵庫を開けて怒る光景が脳内に広がる。
ガチャガチャと激しい金属音。
台所のライトに照らされた父の後ろ姿、
怒鳴り声。
足元がすくむあの感覚。
背中に、冷たい恐怖が這い上がってくるようだった。
――これ、絶対腐る。
――冷蔵庫に入らない。
――そしたらまた父が怒鳴る。
嬉しさなんて欠片もなかった。
ただただ“迷惑だ”と思った。
伯母自身に悪気がないことも分かっていた。
それでも私には重荷でしかなかった。
「……ありがとう。」
それだけ何とか絞り出した。
⸻
やがて母が仕事から帰ってきた。
台所のテーブルに乗り切れないほど置かれた
料理と、食材のの山。
それを見つめる母。
私は言った。
「ねぇ、見て…これ絶対ヤバいよ。
腐らせたらまた怒鳴られるじゃん。
冷蔵庫に入りきらないし……迷惑。
少しは考えてほしい。」
母は黙って食材を見ていた。
母も、父に怒鳴られていた。
だから、私の気持ちがわかるはず。
そう思った。
でも、返ってきたのは全く違う言葉だった。
⸻
次の瞬間。
母の顔が変わった。
信じられないものを見るような、冷たい視線。
「……あんた、本気でそんなこと言ってるの?
人が作ってくれたものを迷惑って。
最低だね。
そんな人の気持ちの分からない人間に育つなんて思わなかった。
…本当にがっかりした。」
――がっかりした。
母はよくその言葉を使った。
叱るたびに、呆れるたびに、少し気に入らないだけでも、
まるで口癖のように。
その一言は、殴られるより痛かった。
刺すとか、殴るとか、そういう痛みじゃない。
胸の内側をわしづかみにされるような、
空気がねじれて世界が少し歪むような、
説明できない不快感が一気に押し寄せる。
目がチカチカした。
父に怒鳴られる瞬間の記憶。
それが、全部まとめて背中に押し寄せた。
冷蔵庫の扉がバン!と開く音。
「ちょっと来い」と怒鳴られる声。
私と母が並んで立たされていた光景。
その全部が “これからまた起こる未来” として重なった。
胸の中で言葉がぐちゃぐちゃに溶けた。
何からどう言えばいいのかわからなかった。
母が伯母の大量の料理に困っていたこと、
私は知っていた。
言葉にしないだけで、テーブルに山積みになった料理を前に、いつも微妙な表情をしていた。
なのに、私が責められるの?
「でもこれ腐ったらまた怒られるじゃん……」
私がボソッと呟くと、母はため息をついた。
そして、冷たく言い放った。
「困る困らないじゃない。
人から何かしてもらったら感謝しなきゃダメなの。
ありがとうも言えないなんて、あんた最低だよ。」
その瞬間、
自分がとても醜くて、
価値のない人間に思えた。
どんなに嫌でも、ありがとうと言わなきゃならないの?
胸の奥が押しつぶされるようだった。
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結局、伯母が置いていった料理も食材も、
手が回らず腐っていった。
そして私はまた、父に怒鳴られた。
父から怒られたことは辛かった。
でもそれ以上に母の言葉が胸に突き刺さったままだった。
あの日の私に救いはなかった。
誰の善意にも。
家族の価値観にも。
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🫧この形の私

