人は相手より自分の隙間を眺める

人がロボットのように機械的に見えたり、サラリーマンがまるで楽しそうにしていないように感じる——そんな話をよく耳にする。確かに、街中で見かける知らない人々が、無表情に歩く姿は、現代社会の縮図のように思えることがある。しかし、私はそこに一つの違和感を覚える。
「知らない人の前でわざと楽しそうに振る舞ったり、裕福そうに見せかけるのは詐欺師の類での可能性もあるのではないか?」と思ったりする、はたして本当にそうだろうか?むしろ逆ではないかと思う。
あの「楽しげな仮面」は、相手を騙すための悪意あるものとただ「見られている」という現実への自然な対応なのではないか。誰しも他者の視線を意識すれば、多少なりとも自分を良く見せようとする。それを一律に「詐欺」と切り捨てるのは、あまりに性急ではないだろうか。むしろ、そうした光景を逆に「ロボットみたい」「つまらなそう」と感じてしまう人もいるだろう。そこには観察する側の目に特殊なフィルターがかかっている証拠のように思える。自分の内側にある苛立ちや失望、または他者への不信感が、外部の景色を歪めて映し出しているだけなのかもしれない。さらに深く考えを進めると、このような視点の歪みは、特定の人間タイプに顕著に現れる。それは、自身の逃避行動を「逃げたいから」「嫌だから」と素直に認めず、常に「自分は被害者だ」と主張する人たちだ。彼らは自分の問題を棚上げにしたまま、相手——それが不特定多数のネット上の人々であれ、親や身近な特定の人であれ——に「味方してほしい」と無意識に訴えかける。結果として、認められるのは自分に都合の良いイエスマンだけ。異なる意見は一切受け付けない。このタイプの典型例として、ある種最近騒がれている活動家の方々である。
周囲の同調を強要する様子がまさにそれだった。また、YouTubeやSNSで仲間内だけで炎上を繰り返す人たちのスタイルも、極めて近い。表面上は「正義を訴えている」ように見えながら、実は自分の逃げ場を確保し、肯定してくれる者だけを集めるための仕組みに過ぎない。そこには純粋な自己愛しかなく、他者の視点を真正面から受け止める余地はほとんど存在しない。結局、私たちが他者を「ロボット」や「不幸せな存在」として見てしまうとき、それは相手の問題ではなく、自分の心のフィルターが映し出す鏡なのかもしれない。そして、そのフィルターを自覚できないまま「被害者」として生き続ける人々は、いつまでも孤独な肯定の輪の中に閉じこもってしまう。真の自由とは、まず自分自身の逃避を素直に認めるところから始まるのではないだろうか。

#創作大賞2026 #エッセイ部門

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