①鬱病に気づかなかった訳
私は鬱病のことをよく知っているはずだった。私生活では父の精神病歴のために精神疾患に対しては大いに関心を持っていたし、仕事でも鬱病その他の精神疾患を抱えた方たちとの関りは日常的だった。癌患者が抑うつ的になることも良く知っているはずだった。
それなのに、私のすぐそばで母の鬱病が進行していることには気が付いていなかった。正確には、薄々気づいていたはずなのに、最悪の状態になるまで精神科医への受診を遅らせてしまった。なぜだったのか、振り返ってみたい。
私は無頓着だった。
母の4度目の放射線治療の途中から、私はたびたび帰省をして母の通院などを補助するようになった。今年の6月中旬、母のこれまでにはない弱気でつらそうな様子が気になって急遽帰省したのが始まりだったと思う。
私が実家に到着すると、母は「救いの神が来た!」と大げさなことを言って喜んでくれた。同時に「あんたが来たら、もう私は崩れてしまった」と残念がってもいた。「崩れる」の意味はよく分からなかったが、闘病や生活を自分ひとりの力で頑張る気持ちを失った、という意味かな、と思った。私の到着後に母の様子が急に変わったようには見えず、大げさなことを言うもんだな、と思っただけだった。
思い返せば、むかしから母は、私が実家に帰省したり、実家から帰阪したりする際に、気持ちの切り替えがとても大変だとよく言っていた。それがどういうことなのかよく分からなかったが、私と離れて暮らすことは寂しくて不安なこと、離れている間は気を張って生活をしていること、私が帰省するときはその緊張を解いて明るく迎えたいと思っていること、私が関西の自宅に帰るときは寂しさを見せないようにして送り出したいと思っていること、私と離れている間の生活を予期するだけで不安と緊張が起こること、などを言っているようだった。私には、そこまで気を張っていなければならないのが不思議に思えたが、そのころから精神的にはかなり不安定だったのかもしれない。しかし、母は、私が帰省している間は、いつも明るく朗らかで、たくさんの料理を振舞ってくれたりしていたので、母の内面の大変さが本当はどの程度なのかということを掴むことはできなかった。
母の通院に付き添うようになったばかりの頃は、母はあまり食欲はないものの、まだ元気があって、通院の行き帰りの車中で楽しく話をして大笑いしたり、一緒に地元の専門店に立ち寄ってお茶菓子を選んだりする余裕があった。
ところが放射線治療は、通院の負担だけではなくて、母の体にもダメージを与えていたようで、母は通院自体がしんどいと訴えるようになって、入院治療に切り替えることになった。この頃には、すでに体のしんどさだけではなく、かなりの程度の心のしんどさも抱えていたのではいかと思われる。確かこの頃には既にしんどすぎてお風呂に入れないことがあるなどと訴えていた。この時点でも、私は、母の鬱病が進行しつつあるとは考えていなかった。
母は原因不明の体調不良を訴えるようになった。
6月が終わるころ、放射線治療が終了して退院した母は、「やっぱり自分の家は最高だわ」と言って、退院を大いに喜んでいた。
ただ、この頃は、母の食欲はかなり減退していて、普通の食事がとれず、おかゆや果物など限られたものだけを受け付けていた。吐き気もあって、実際に吐いてしまうこともあった。放射線を食道付近まで当てたための影響かと素人なりに判断して、放射線の影響がなくなればもう少しは食べられるようになるはず、と考えるようにしていた。放射線治療の主治医にも相談してみたところ、吐き気止め(ノバミン、プリンペラン)や胃酸分泌抑制薬(ファモチジン)を処方された。吐き気や食欲不振は、癌の症状ではないということだった。
母は、「元気だったときのようにたくさん食べられないこと」「特定のものしか受け付けなくなったこと」をとても気にしていて、「食べなければ元気になれない」「今日はこれだけしか食べられなかった」「いつも一生懸命食べている」などと言い続けていた。わずかな量のおかゆを30分もかけて食べたり、紙パックのりんごジュースや牛乳を一日かけて一口ずつ飲んだりしていた。
母の「偏食」はくせ者で、確かこの頃はカルピスウォーターを毎日飲んでいた。それからバニラアイスも毎日。母が食べられるものは日々移り変わり、昨日食べられたものが今日は食べられなくなったり、受け付けるものが枝豆になったり、スクランブルエッグになったり、アンパンになったりした。実家の冷蔵庫には、母の食べかけ、飲みかけのものがいくつも入っていて、母は日に何度も冷蔵庫を開けて少しずつ口に入れていた。今冷静になって振り返ってみると、活動量の少ない79歳の病人が、四六時中食べ物を口にしていれば、余計に食欲がなくなるのは当然という気もする。
母の体調は、私が帰省して世話をしている数日の間に良くなっていくのだが、私が関西の自宅に戻って実家を開けるとまた悪くなっていることを繰り返した。体調が悪くなると、母は日中でも横になっている時間が多かった。そして、しんどくて入浴さえできないということがたびたび起こっていた。そして料理などはほとんどできなくなった。ただ、どこがどんな風にしんどいのか、と聞いてもはっきりした答えは得られなかった。
この当時、母はよく、「家で一人でいられない(同居の弟は日中仕事に出ている)。」とか「あんたが大阪に帰ったら、どうやって過ごしたらいいのかなあ。」などと異常に不安がっていた。調理せずに食べられるような食料は色々と用意してあるし、同居の弟も何でも助けてくれるし、私は数日以内にまた実家に戻るのに、なお家で過ごすことができないという意味が、私には分からなかった。
母は放射線治療の開始と同時に、痛み止めとして麻薬のオキシコンチンの服用を始めていたのだが、麻薬をとても恐がっていて、自分の体調不良は麻薬のせいに違いないと訴え続けていた。そこで、またしても素人の考えで、私は、母の痛みが治まるのに合わせて(放射線治療により、腫瘍から来る痛みは徐々に小さくなっていた)オキシコンチンを少しずつ減らしてみてはどうかと思いつき、それを聞いた母は自己流でオキシコンチンの錠剤を割って、5分の3とか、2分の1とか、少しずつ1回分の量を減らしていった(後で知ったが、これは徐放剤であるオキシコンチンの服用法としては不適切だった)。
地元の病院に入院しても解決しなかった。
母は、しんどさのために自分でできることがだんだんと少なくなってきたのと、あまりにも「食べられない」ために、かかりつけの近所の病院(内科)へ点滴を受けに行った。2~3日通院しても体調不良が改善せず、「家にいることができない」ので、その病院に入院した。
内科の主治医によると、癌以外に悪いところは見当たらないし、癌のせいで体調不良が起きているということもなさそうだということで、点滴の他には治療的なことは行われなかった。
入院後も、母は病院食をあまり食べられないことを不安がって、病院に持ち込んだ果物やアイスを一生懸命に食べていた。私は母の面会に行くたびに時間をかけて母の体をマッサージしたが、ものすごく体がだるいようだった。
主治医からは短期間での退院予定を告げられており、実際にも数日の入院で少し体調が上向いてきたこともあって、万全とは言えないまま退院することになった。退院後は、すぐに毎日の訪問看護を受けるようになり、点滴を受けたり、看護師さんに体をさすったりしてもらえるようになった。
退院してからも母の体調不良は続いていて、ほぼ寝室で横になっている状態になった。訪問看護で看護師さんの世話を受けても良くならないようだった。数日後には、夜眠れてない、手足が異常にだるい、しんどいのに手足がムズムズするような感じがしてじっとしていられない、夜ひとりで過ごせない、時間がなかなか経過しないと訴えるようになった。夜中に何度も電気をつけ時間を確認したり、ひとり椅子に腰かけてじっとしていたりしているようだった。
私が、手足がムズムズするのは、ムズムズ足症候群の症状に似ているから、いちど精神科か心療内科に相談してみては、と軽い気持ちで母にLINEを送ってみたところ、母はこれに異常な恐怖を覚えたらしく、「精神科は絶対嫌です」「私を解放してください」「お願いします」「私をなんとかしようとしないでください」など、とても混乱した様子の返事を次々と送信してきた。
今になってみれば、母は明らかに普通の状態ではなくなっていたと分かるし、当時も確かにかなり変だとは感じていたのだが、当時の私はこれが鬱病の症状だとは思い至らず、癌のことが不安で自制心が弱るのは仕方ないなあ、という程度に感じただけで、母の体調不良について他の要因ばかりを考えていた。そして母が怖れている精神科に素人判断で無理やりに連れて行くことは良くないように思われ、精神科受診を勧めにくくなってしまった。
