【ショートショート】扉の向こう
ここに逃げ込んで、どれくらいの時間が経ったのか。
震える手で、スマートフォンを何度も握り直す。
この小さな電子機器の向こうに、私を助けてくれる人はたくさんいる。その気になれば、私はいつだって助けを呼べる。
向こうの部屋から叫び声が聞こえる。
何かが落ちて壊れる音。
私を探している。
部屋はきっとめちゃくちゃだろう。
壁紙の鳥と目が合う。ウィリアムモリスの《苺泥棒》。
どの鳥も死んだような目をしてこちらを見ている。
きっと人も、死んだらこういう目をするのだろう。いや、生きていたって、既にそうなっているのかもしれない。
スマートフォンの画面が暗転し、黒い鏡に自分の顔が映し出される。
いっそ、消えてしまおうか。
でも、家族はどうなる。
いや、私が消えてしまえば、家族は案外、静かな日々を取り戻せるのではないか。
そんな考えを振り落とすように首を振る。
涙は頬を伝い続けているが、拭えずにいる。
「私は泣いている」という事実が形を持ってしまいそうで怖い。
垂れてきた鼻水だけ、トイレットペーパーで音を立てずに拭く。紙が溶けて指にまとわり付く。
静寂が訪れる。
どうやら別の場所に移動したようだ。今のうちに部屋の様子を確認しなければ。
私はそっと鍵に手を伸ばし、音を立てぬようにゆっくりとドアを押し開ける。
「ドスッ」
重たく、柔らかなものにぶつかる。
…いる。ドアのすぐ外に。
息を呑む。外の気配が動く。荒々しい鼻息の音がすぐそばで聞こえる。
パニックになりかける気持ちをなんとか抑えてドアを引き戻し、鍵をかける。
間違いなく、もうこちらに気づいている。
ガチャガチャガチャ。
ドアノブが狂ったように回される。
何かよくわからない言葉をわめきながら、ドアを叩く音。
私は必死に耳を塞ぐ。それでも音は入り込んでくる。ぎゅうぎゅうと手のひらを耳に押し当てる。指の爪が頭皮に食い込む。
「もうやめて、お願い…来ないで…」
自分自身でも聞き取れないほどの小さな声。世界中の誰の耳にも届かない。
音が一層激しくなる。
ドアを蹴り始めたようだ。
鈍く重たい音が響くたびに、古いドアノブがカチャカチャと揺れる。壊れて外れてしまわないよう、必死に押さえる。ドアに空いた穴からこちらを覗く目を想像するだけで、おかしくなりそうだ。
床に転がったスマートフォンをかえりみる。
私の精神はおそらく、もう限界に来ている。
「どうして、誰かに助けを求めないのか」
壁紙の鳥たちが虚ろな表情で問いかける。
そう、なぜ私は、誰かに助けを求めないのだろう。その手段はいくらでもあるはずなのに。
今、誰かに連絡すればいい。そうすれば楽になれる。もうこんな思いをしなくても済む。
…違う。駄目だ。私は、誰かに助けを求めるわけにはいかない。
誰かに助けを求めるという行為は、私を、「支援が必要な誰か」に変えてしまう。それはもう「私自身」ではないのだ。
既にたくさんのものを手放してきた。
ここで「私自身」まで手放してしまったら、私にはもう、何ひとつ残らないではないか。
低く大きな衝撃音とともに、みしみしと壁が軋む。
体当たりを始めたようだ。
これは、もう、潮時だ。
これ以上続けたら、彼が怪我をするかもしれない。
この期に及んでそんな心配をする自分が可笑しく、同時に、そんな心配がまだ自分の中に残っているのだということに安堵する。
鳴り止まぬ衝撃音に押し潰されそうになりながらスマートフォンを拾い上げ、写真フォルダを開く。
子供の笑顔で埋め尽くされた画面に、パタパタと涙が落ちる。
また、この笑顔に会えるだろうか。
そのときには私も、もう少しまともな顔をしていられるだろうか。
私はまだ、あと少し、頑張れるだろうか。
ドアを睨む。拳を高く振り上げ、力を込めて思い切り打ち付ける。
体当たりと叫び声がぴたりと止み、トイレは再び静寂に包まれる。
目を閉じ、呼吸を整える。心臓の鼓動は少し穏やかになる。涙は止まっている。私は大丈夫。私は頑張れる。
静かに鍵を回し、ゆっくりと注意深くドアを開く。
「ママぁ……」
涙とよだれでぐしゃぐしゃになった顔。
私の脚にしがみつく小さな手。あたたかな体温。
大事な大事な、私の息子。
トイレの壁紙の鳥たちは、まだ、死んだ目のままでこちらを見つめている。
彼らの視線を押し戻すように、ふうと短く息を吐き出し、そっとドアを閉める。
そして、私は息子を抱き上げて微笑む。
「ママいなくなって、ごめんね……おやつ、食べようか」
