駐在員が貧しい ー駐在妻から見る苦しみ、駐在員から見る苦しみー
駐在員家庭は、外から見ると今でも恵まれて見える。海外生活、会社負担の住宅、教育補助、週末のゴルフ、日本人コミュニティ。かつての駐在員は、確かに日本企業のエリートコースだった。しかし現在の駐在員家庭は、以前ほど自由でも豊かでもない。お金が全くないわけではない。むしろ平均的な日本の会社員よりは恵まれている場合も多い。それでも「貧しい」と感じるのは、自由、キャリア、居場所、時間、家族の選択肢が会社に縛られるからである。
駐在妻から見る苦しみ
駐在妻の苦しみは、まず自由の喪失である。夫の赴任先によって住む国が決まり、自分の意思では生活の場所を選べない。帯同ビザでは働けない国も多く、日本でキャリアを積んできた女性ほど、その喪失感は大きい。高学歴で、職歴もあり、本来なら自分の仕事を持てた人が、突然「夫の扶養家族」として扱われる。夫は会社に行けば役割があるが、妻には社会的な役割がなくなる。
生活圏も狭くなる。小さな日本人コミュニティ、現地の語学学校、子供の学校関係。この三つが日常の中心になる。海外に住んでいるのに、実際には小さな日本社会の中で暮らすことになる。友人関係も数年ごとにリセットされる。やっと慣れた頃に、誰かが帰国する。あるいは自分が帰国する。
子供の教育も自由ではない。インターナショナルスクールの学費は高騰しているが、会社の教育補助には上限がある。高級インター校には通わせられず、日本人学校や補助範囲内の学校を選ぶ家庭も多い。さらに帰任年数が固定されていない会社もあり、「いつ日本に戻るのか」が見えないまま、子供の教育方針を決めなければならない。日本人学校にするのか、インター校にするのか、現地校にするのか。数年で帰るなら日本の受験を意識する必要があり、長く残るなら英語や現地語の教育を重視する必要がある。しかし帰任時期が読めなければ、その判断すら難しい。海外にいるから教育の選択肢が広がるのではなく、実際には補助制度、家計、帰任時期の不透明さに縛られる。
その上、夫は平日は会社と本社対応で疲れ、週末は日本人同士のゴルフや会社関係の付き合いに逃げることもある。夫にもストレスがあるのは事実だが、妻から見ると「あなたには会社がある。私には何があるのか」という感覚になる。駐在妻の苦しさは、金銭的な貧しさではなく、自分の人生を一時停止させられる苦しさである。
駐在員から見る苦しみ
一方で、駐在員本人も決して楽ではない。昔の駐在員は、海外拠点の中心だった。日本本社から派遣され、技術、品質管理、会社文化を現地に持ち込む存在だった。しかし現在は現地人材が育ち、長く会社を見てきたローカル幹部がいる。顧客、仕入先、行政、現場、人間関係を知っているのは、むしろ彼らである。
そこへ3年任期の日本人駐在員が来る。肩書きは上司でも、実務知識では現地スタッフに勝てないことがある。現地からは「どうせ数年で帰る人」と見られ、本社からは「現地を何とかしろ」と責任を背負わされる。本社からは現地代表として見られ、現地からは本社の代理人として見られる。どちらにも完全には属せない。
仕事の中身も、現場を率いるというより、本社説明、稟議、予算管理、監査対応、品質問題、トラブル処理、現地スタッフとの調整が中心になる。権限より責任が大きい。しかも海外に10年いても、英語や現地語が十分に話せない人もいる。社内は日本語、日本人顧客、日本人上司、日本人コミュニティで生活が完結してしまうからである。海外に住んでいても、現地社会に深く入っていない場合、語学も人脈も伸びない。
それでも海外勤務にはメリットがある。満員電車から逃げられる。東京本社の細かい人間関係や残業文化から離れられる。車通勤で、家族との時間が増える場合もある。日本より生活の質が高いと感じる人もいる。しかし長く海外にいるほど、日本本社での席はなくなる。同期は本社で昇進し、社内政治も人事情報も見えなくなる。海外にいる方が生活は楽しい。しかし日本に戻らないとキャリアが危ない。このジレンマがある。
もちろん帰国後に良いポストへ就く人もいる。海外事業の経験が評価され、部長、事業部長、海外事業責任者、役員候補になる人もいる。だから駐在は完全に損ではない。しかし昔のように「海外赴任=約束された出世コース」ではなくなった。成功すれば大きいが、失敗すれば現地にも本社にも居場所がなくなる。
駐在妻は、自由とキャリアを失う。駐在員は、権限と居場所を失う。子供は、教育と人間関係の変化に適応しなければならない。外から見ると豊かな駐在員家庭だが、実際には家族全体が会社の都合に深く組み込まれている。
昔は自由が少なくても、お金と待遇で報われた。今はその報われ方が弱くなっている。教育補助には限界があり、現地物価は上がり、妻は働けず、夫は本社と現地の板挟みになる。海外にいるのに、世界に開かれているとは限らない。むしろ小さな日本人社会の中で生き続けることもある。
だから現代の駐在員の貧しさとは、単なる収入の問題ではない。自分で住む国を選べない。自分で仕事を選べない。家族の人生も会社の都合に左右される。現地社会にも本社にも完全には属せない。それは経済的な貧しさではなく、自由の貧しさである。
駐在員は今でも恵まれている。しかしその豊かさの裏側で、妻はキャリアを差し出し、夫は居場所の不安を抱え、子供は環境変化を背負っている。これが、かつて憧れだった駐在員制度が静かに魅力を失いつつある理由である。
参考文献・関連資料
外務省「海外在留邦人数調査統計」/JETRO「海外進出日系企業実態調査」/経団連 “Strategic Approach to Overseas Transfer of Japanese Management and Technology”/Beamish & Inkpen “Japanese firms and the decline of the Japanese expatriate”/Dang et al. “Japanese Expatriates’ Management in Global Assignments”/Brookfield Global Relocation Trends Survey/Cartus Global Mobility Policy & Practices Survey/Permits Foundation “International Dual Careers Survey”/OECD “International Migration Outlook”/文部科学省・JASSO「海外留学・外国人留学生関連統計」
