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【ヤニねこOP考察】なぜヤニねこのOPは映画パロディだらけなのか? 歌詞まで読むと見えてくる“ダメな日常”の肯定



『ヤニねこ』のOPを初めて見たとき、たぶん多くの人が思ったんじゃないでしょうか。

なんでこんなに映画っぽいんだ?

OPテーマは、忘れらんねえよの「なんもねえ」。

そして映像を見ていると、「これ、あの映画じゃない?」と思わせるような場面が次々と出てきます。

もちろん、それだけなら「映画パロディ満載の面白いOP」で終わります。

でも、何度か見ているうちに、ちょっと引っかかりました。

なぜ『ヤニねこ』で、こんなに映画をやる必要があるんだろう。

だって本編で描かれているのは、ものすごく大雑把に言ってしまえば、タバコを吸って、ダラダラして、時々とんでもないことをやらかすねこたちの日常です。

世界を救うわけでもない。

巨大な悪と戦うわけでもない。

人生を変えるような大事件が毎日起こるわけでもない。

なのにOPでは、そんな彼女たちがまるで映画の主人公みたいに扱われる。

ここに、このOPの面白さがあるんじゃないでしょうか。

今回は、『ヤニねこ』OPの映画パロディと「なんもねえ」という楽曲を手がかりに、この作品がどうしようもない日常をどう見ているのかを考えてみます。

映画の主人公になるには、あまりにも生活がしょうもない

映画というのは、基本的に「特別なもの」を映します。

もちろん日常を扱った映画もありますが、それでもカメラによって切り取られ、音楽がつき、物語として編集された瞬間、その日常には何らかの意味が与えられます。

誰かが歩いている。

誰かが煙草を吸っている。

誰かと喋っている。

現実ならそのまま通り過ぎてしまうような出来事でも、映画の中に置かれれば「この人物にとって大切な時間なのかもしれない」と観客は考える。

ところが『ヤニねこ』です。

ヤニねこたちの日常は、そんなに格好よくありません。

むしろ逆です。

だらしない。

しょうもない。

他人に迷惑をかける。

自分から問題を作る。

反省したと思ったら、また同じようなことをする。

そんなキャラクターたちを、OPでは映画の世界へ放り込んでしまう。

この落差だけでも笑えます。

でも、私はこれを単なるギャグだけではないように感じます。

しょうもない人間にだって、その人を主人公にした映画は存在する。

そんな視線が、このOPにはあるんじゃないでしょうか。

普通なら映画の主人公になれそうにないヤニねこたちを、映画の主人公として撮ってしまう。

「お前たちの人生なんて大したものじゃない」と切り捨てるのではなく、「いや、こいつらを主人公にして一本撮ったっていいだろ」と言っているようにも見える。

そう考えると、映画パロディという演出そのものが、『ヤニねこ』という作品の姿勢につながってきます。

「なんもねえ」というタイトルが、映画パロディと真逆なのが面白い

さらに面白いのが、OPテーマのタイトルです。

「なんもねえ」。

すごい言葉です。

映画パロディを次々と繰り出して、映像としてはこれでもかというくらい「何かありそう」な雰囲気を作っている。

なのに曲のタイトルは「なんもねえ」。

ここに大きなギャップがあります。

普通、物語では主人公に何かを求めます。

夢がある。

才能がある。

使命がある。

大きな目標がある。

だから、その人の人生を見る価値がある。

でもヤニねこには、そういう意味での大層なものがあまりありません。

今日も煙草を吸う。

金がない。

部屋が汚い。

周囲に迷惑をかける。

それでも次の日になったら、また生きている。

「なんもねえ」という言葉は、そういうヤニねこの生き方と妙に噛み合います。

何者かにならなくてもいい。

人生に壮大な意味がなくてもいい。

今日一日を立派に生きられなくてもいい。

それでも、その人の人生は続いている。

もちろん『ヤニねこ』は、そんなことを説教臭く語る作品ではありません。

むしろ笑います。

「いや、それはさすがにダメだろ」とツッコミたくなることもたくさんあります。

でも、笑ったあとで完全には突き放さない。

そこが『ヤニねこ』なんですよね。

歌詞にあるのは「ダメな自分を直そう」ではなく、それでも生きている人間の感覚

「なんもねえ」の歌詞を考えていくと、ここがさらに面白くなります。

歌詞全文をここで紹介することはしませんが、曲全体から感じるのは、「立派になろう」「人生を変えよう」という前向きな応援歌とは少し違う感覚です。

もっと不格好です。

うまくいかない。

格好よくなれない。

思ったように生きられない。

それでも自分はここにいる。

そんな感覚が、『ヤニねこ』という作品と重なります。

そして重要なのは、この曲を作った忘れらんねえよの柴田隆浩さん自身が原作『ヤニねこ』のファンだということです。

公式に寄せたコメントでも、『ヤニねこ』を愛する人たちにしかわからない言語や思考で書いた、という趣旨のことを語っています。

さらに柴田さんが作品について語っている内容を見ると、単純に「ダメなやつを笑う漫画」として捉えているわけではないことがわかります。

人はやらかす。

余計なことを言う。

言わなければならないことを言えない。

どうしてそこで、という失敗をする。

でも、その奥には「喜んでほしい」「認めてほしい」「ここにいていいと言ってほしい」という気持ちがある。

これって、かなり『ヤニねこ』そのものだと思うんです。

行動だけ見れば最低。

でも、その人間全部が最低とは限らない。

むしろ、不器用な欲求や寂しさが、ものすごくしょうもない行動として出てしまう。

だから笑える。

そして、少しだけ切ない。

「なんもねえ」は、そんなヤニねこの内側を歌にした曲として聴けるんじゃないでしょうか。

『ヤニねこ』はダメ人間を肯定しているのか

ここで一つ疑問が出てきます。

では、『ヤニねこ』はダメな生活を肯定しているのでしょうか。

私は、少し違うと思います。

「このままでいいよ」と優しく慰めている作品ではない。

ヤニねこが迷惑をかければ、普通に怒られます。

痛い目にも遭います。

周囲から呆れられることもあります。

だから、「何をやってもいい」という意味で肯定しているわけではありません。

肯定されているのは、行動ではなく、

「こんな人間でも、ここにいていい」

という存在の部分なんじゃないでしょうか。

これが、『ヤニねこ』をただのクズキャラギャグで終わらせない部分だと思います。

ヤニねこには妹子がいる。

ヤクねこがいる。

ハメねこがいる。

カンサイねこがいる。

大家がいる。

迷惑をかけたり、喧嘩したり、呆れられたりしながら、それでも人間関係が完全には切れない。

ヤニねこは孤独な主人公ではありません。

むしろ、どうしようもないのに妙に周囲に人がいる。

そこが重要です。

「ちゃんとした人間になったから受け入れられた」のではない。

ダメなところを大量に抱えた状態で、それでも誰かとの関係が続いている。

それが『ヤニねこ』の日常です。

だからOPの「なんもねえ」も、何も持っていないことへの絶望だけではなく聞こえてくる。

何もなくても、今日がある。

何もなくても、誰かがいる。

何もなくても、煙草を吸って笑っている。

それで人生全部が素晴らしいとは言わない。

でも、全部が無価値でもない。

そんな微妙なところに、この作品は立っている気がします。

映画パロディは「お前のしょうもない人生も映画にしてやる」という宣言なのかもしれない

ここまで考えると、最初の疑問に戻ってきます。

なぜOPは映画パロディだらけなのか。

単純にスタッフが映画好きだから。

映像として面白いから。

元ネタ探しを視聴者に楽しんでもらうため。

もちろん、そういう理由もあるでしょう。

でも作品として見るなら、もう一つの読み方ができると思います。

ヤニねこたちのしょうもない人生を、映画の主人公みたいに撮るためです。

世界を救わなくてもいい。

才能がなくてもいい。

立派な夢がなくてもいい。

部屋が汚くても、金がなくても、煙草ばかり吸っていても。

カメラを向ければ、その人にはその人の物語がある。

だから、映画史に残るような「主人公たち」の場所へ、ヤニねこたちを乱暴に放り込んでしまう。

その結果として生まれるのは、もちろん笑いです。

「お前がそこにいるのかよ」と笑える。

でも同時に、

「ヤニねこだって主人公なんだ」

という、不思議な肯定にもなっている。

だから私は、このOPが映画パロディだらけなのは、『ヤニねこ』という作品そのものを象徴しているように感じます。

「なんもねえ」人生。

大したことのない毎日。

誰にも褒められない生活。

それを映画にしてしまう。

そして、その映画の主人公として、ヤニねこを真ん中に立たせる。

そう考えると、あの妙に豪華で、妙に格好よくて、そして何よりしょうもないOPが、とても『ヤニねこ』らしく見えてきます。

「なんもねえ」から始まる人生だって、見ていると案外面白い

『ヤニねこ』は、人生を変える物語ではないのかもしれません。

少なくとも、毎回劇的に成長していく主人公を見る作品ではない。

ヤニねこは次の週にも煙草を吸っているでしょう。

また何かやらかすでしょう。

反省しても、忘れるでしょう。

それでも誰かがいる。

誰かに怒られる。

誰かに助けられる。

たまには誰かを助ける。

そしてまた煙草を吸う。

その繰り返しです。

でも、人生って案外そんなものなのかもしれません。

毎日が映画みたいな人なんて、ほとんどいない。

何かを成し遂げる日より、何も起きない日のほうが圧倒的に多い。

それでも、自分から見れば自分の人生はずっと続いています。

だから『ヤニねこ』のOPは、しょうもないキャラクターたちを映画の主人公にする。

「なんもねえ」と歌いながら、映像だけはやたら映画的にする。

この矛盾そのものが、『ヤニねこ』なのではないでしょうか。

何もない。

でも、何もない日常を見ていたら、なんだか妙に面白い。

そして、どうしようもない人たちを見て笑っていたはずなのに、ときどき妙に優しい瞬間がある。

だからまた次の話を見てしまう。

『ヤニねこ』のOPは、映画パロディという派手な遊びを使いながら、実は作品の根っこにある「ダメな日常への視線」を最初から提示しているのかもしれません。

ヤニねこの人生には、なんもねえ。

でも。

なんもねえ人生だって、映画にしたら案外面白い。

僕は、あのOPをそんなふうに見ています。

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