Mrs.GREEN APPLEの「ダーリン」:歌詞について考えてみた
昨日NHKでMAJってのやってました。その前は18フェスで18歳の若者と一緒に歌ってました。Mrs.Green Appleがやたらと評価されていたのでちょっと「ダーリン」って曲の歌詞について考えてみました。
歌ってのは、メロディやリズム、アレンジと一緒にして曲全体を感じる、味わうものだと思ってます。ここではとりあえず歌詞だけで考えていこうかと思ってます(You Tubeを見れば音楽的な解説はたくさん出ていますから)。それと音楽はその人それぞれの聴き方・感じ方があるので、それが一番大事です。ま、僕が書くのは、そんなふうにこの人は考えて感じているのね、という感じで軽く読んでもらえたらと思っています。
歌詞
負けない何かが欲しい ”私”だけの愛が欲しい
そうすればきっと僕らは 比べないで居れる
あれこれ理由が欲しい ”私”だけ独りのような
寂しい夜には 何に抱きつけばいい?
羨ましい ただ虚しい
嫌われたくもないけど 自分を好きで居たい
darling 僕の背中に乗って泳いでて
やるせない日々の海はとても深いから
「誰かの私でありたかった」
勘違いしちゃうから ひとりにしないでよね。
信じれる何かが欲しい 解(ほど)けない絆が欲しい
そうすればきっと僕らは 呆(あき)れないで居られる
大事にしていてもいい? 強がりが崩れる夜は
体丸めて 布団で小さくなってる
羨ましい ただ虚しい
自分で選んだ道でも たまに振り返ってしまう
darling 私の腕の中で休んでて
悲しくて堪(たま)らない 人はとても弱いから
「誰かの私でありたかった」
彷徨ってしまうから ひとりにしないでよね。
限りある世の中のせいで狂ってる
果てしなく続く時間に燻(くすぶ)ってる
みんなと同じだからって 僕の 私の
ワダカマリが楽になるわけじゃない
darling 本当の音を聴いて
やるせない日々の膿(うみ)は出切らないけど
ねぇ 私の私で居てもいいの?
あの子にはなれないし なる必要も無いから
darling・・・・・・・・・・・・・
「私」と「僕」の関係
この詩の中に「私」「僕」の二人が書いてある。最初読んでみて、女の子と男の子の二人の物語なのかなと思ったけど、なんかうまくつながらない。何回も読んでみた。そうすると、最近女の子の中に自分のことを「僕」という子がたくさんいる。けど、それとも違う。ということはこの詩は一人の中に女の子の「私」がいて。「僕」は「私」のことを俯瞰して見ている、「私」の中にいる上位にいるメタな「私」であり、それを「僕」と表現しているのだろう、と思った。
要するに自分の頭の中の対話でこの歌詞は成り立っているということ。
悩みは青春だから
「私」はすごく悩んでるといえばいいのかな。それに対してもう一人の「僕」は「私」を支える側にいるように思える。人間ってとにかくネガティブにできていて、特に若いころは悩みも多い。友だち関係、恋愛関係、進学・学習関係、親子関係、SNS関係、社会的関係、とかとかもう一人で対処できないでしょ。「こんなに悩んでる私はどうすればいいの?」という私に対して「僕」が答えている。「僕」は上位にいるから冷静な判断をしている、という構図になる。
「僕等は比べないで居れる」というところで僕等はだれ?と考えたときの僕等というのは「私と僕」の二人。私も僕も「比べない」自分で居たいということ。それは自分は他の人と比べないで、自分というものをきちんともち、他の人と比べられたくない、「自分は自分」という存在になりたいのだと言ってるんのではないか。この歌は最初の2行目ですでに自分の願いが出てきている。歌の最初から悩み全開だ。まさしく青春だ。
そこから続いてくるのは現実世界で「私」が感じているいろいろなことが出てくる。「寂しい夜」「羨ましい」「虚しい」「嫌われたくもないけど、自分を好きでいたい」という表現が出てくるが、これは何かがあったのだろう。みんなと違う何かがあった、そんなときでも「自分を好きでいたい」と言ってる。自分を肯定的にとらえたい、だけどなかなか捉えきれずに思い戸惑ってるってことじゃないか。
自分の存在価値
そうしたときにもう一人の私である「僕」が「背中に乗って泳いでて」と言う。「誰かの私でありたかった」。これは重い言葉だ。誰かというのは特定できないけど、大事な誰かなのかな?この場合はそれでもいい。もっと広い意味でのヒューマニズム的な「誰かのための私」と考えていいだろう。誰かのために役立つ価値ある自分になりたい、ということの表れかな。
「信じれる何かがほしい」「解けない絆がほしい」と言っているが、「ほしい」と書いてあるということは、そういう何かがまだ自分にはない、ということがあらわされている。だって私は自信がない、そんな自分をもう一人の「僕」が支えているわけだから。それでそんな頼りない「私」に呆れないでいられる。
「自分で選んだ道でもたまに振り返ってしまう」。そう、自分を好きでいたいし、自分に自信ももっていたいんだけど、それでも自分のしたことに対して「あれでよかったの?」なんて思ってみたりもする。
「私の腕の中で休んでて」という表現がある、これって「私」じゃなくて「僕」じゃないの?って思ってしまう。ここで「私」と「僕」は入れ替わっているのかな?そうしないと整合性が合わない、ということは「僕」も「私」も悩みの中にいるということになるのか。しかし、もし「私」が女性であるなら、「腕の中で休む」ということが誰かのために役立ちたいという思いの表れで、そういう母性的な存在になりたい、という読み取り方もできる。
要するに「私」も「僕」も結局悩みの中にいるっていうことなのか?
生きづらさをかかえて
そうしているのは、現代という時代の生きづらさか
何か言うとすぐ上げ足をとられてしまう
友だちですら顔色を窺わなくちゃいけない
みんなにどんなふうに思われているか心配だ
自分の将来のことはすごく心配
それなのにがんばれない自分
周りに気を遣わなくちゃいけない
きれいにしていたい
よく思われたい
本音で話ができない
信じられる友だちがいる?いない?どっちかわからない
大人になることへの心配ごとが多い
SNSでめんどくさいことに巻き込まれるかもしれない
現代はそれほどたくさんのことで若い子を苦しめている。燻っていたくて燻っているわけじゃない。私は私なんだよ。だけど、みんなと同じにしたい自分がいるし、周りからもそういう、同調圧力が強烈にある。それでも、私は私でいたい。それこそが私が私である独立した存在だから。「ワダカマリ」がカタカナになっているのもその言葉自体に違和感を覚えているからに他ならない。「私は私」と大きな声で宣言したい。だけど、今はできない。
ほんとうの自分を出してやる!
「本当の音を聴いて」って何、「声」じゃないのはどうして?声は人が発するけど、音はより大きなもの。本当の「私」の心の、自分でも表現できない「思い」を「聴いて」ほしい、そういうことなんじゃないか。
「私の私」ってみんなに合わせてる私じゃなくて「自分が思ってる本当の自分」ってことなのだろう。
「膿」、いやな言葉だ。毎日の中でつらかったり、悲しかったりすることはあるけど、すごくあるけど、そういうものの中にいても私は私らしくありたいということ。
「あの子」にはなれない、ということはあの子じゃない私
「あの子」というのはこの世の中でこういう子がいいよねって思われているような理想的な子のことだろう。でも、そんな教科書的ないい子ではなくて、今の私のままでいいんだよ。自分のことを好きになって、自分の思う通りのことをやってみたい。だからそんな自分に絶対なってやる。と決意を述べている。
Darlingって恋人のこと。私は私の中のもう一人の私、「僕」と話をしながら、自分らしい自分であることを強く願っている。苦しいけど、その中であがいて自分らしく生きるんだ!
終わり
MAJの前に、この歌はNHKの18フェスでMrs.GREEN APPLEがたくさんの18歳の人たちと歌った歌でした。自分らしくいたい、悩み多い18歳が自分と正面から向き合い、きちんと前を向いて生きて行こうという気持ちが込められていると思います。自分らしくありたい、でも悩んでいるみんな、そうしたみんなが集まって、僕は僕らしく、私は私らしく進んでいく、一人で悩んでいる18歳がたくさん集まれば、独りぼっちじゃなくなる、ひとりひとりはみんな違うけど、その違いを認めてみんな自分らしく進んで行こう、そうした気持ちの集まりが、あの番組から強烈にあふれていました。
Mrs.GREEN APPLEさんらしい、18歳の子への見事なメッセージだと思いました。
