70で子どもの相手はつらいぜ、というよりその関係性の違い
週に2・3度、2時間ほど放課後の子どもの見守り?世話をしています。
今までのというか、現職時代の子どもとの関係と今の関係はずい分変わっています。
新しい発見がいっぱいです。自分が現役で先生をやっていたときとの違いを書いてみようかな。
先生のとき
子どもの目線で子どもと接する、なんて言葉があふれています。でもね、それって違ったんだなあってやっとわかりました。
子どもにとって、先生は先生なのです。子どもも先生には一目置いています。ですから子ども目線ではありません。子どもがちゃんとわかって自ら一つ下の立場を作っています。友だちのように、なんて言っていますが、それは違います。子どもが何かしでかしたら、それはマズいと思ったら、先生はちょっと声をかけますよね。それってすでに上からです。
そうしないと、教育なんて成立しませんから。
いろんなことをやっても、ものごとは上から下に流れていくものです。子どもから流れていけば、それは学級崩壊です。
まあ、子ども目線というのは、一応子どもになったつもりで考えたり、接したりすることなんですね。
例えば、なんかぼくの前で人の道に反するようなことをすれば、「ちょっと、待って、今のいいの?」って言えば、子どもはしまったという表情をしますし、まずいわこれは、という表情をします。そしてその後、先生に叱られたり、注意されたり、ということになります。
多くの場合、これは普通ですし、今でも守られていると思います。ただ、このごろは先生も甘くなってるし、しからなくなってるし、子どももそういうことを見越しているし、ゆるくはなっています。
今は
今日、子どもが漢字のプリントをしていました。いつもふざけている子だったので、思ったよりもできていると思って、「おお、すごいね」「できてるじゃん」と声をかけていると、「何、馬鹿にしてるの?」というようなことを言うのです。ほめてもダメで、間違っているところを指摘しても、「もういいのいいの」と言います。そのくせわからなかったら僕に聞いてくるのです。紙の裏に書くと「もう、書かないでよ」といいます。
上のような答え方が心底いやだからか、甘えて言っているのかは知りませんが。
立場が先生なら、こんな無碍ないい方はしません。一応聞きます。それは子どもたちが下、教えてもらう立場にいるからです。
現役時代はそういうことがわかっていませんでしたし、わかろうともしていませんでした。子どもに近いところにいるとは思っていましたが、それは幻想だということがわかりました。
1年間通ってみて
1年間、その学校に通っていました。その学校はあまりいい学校とは言えず、授業中教室を出ていく子がいる、先生に対して暴言を吐くということが日常茶飯事だったようです。
今までの学校とは違うので、このあたりってよくないとこ?と思いましたが、よその学校へ行ってみるとそんなことはなく、やはりその学校の問題であることがわかりました。
はじめはダメなことはダメと言っていましたが、所詮、ふらっと現れたジジイですから、言うことなんかきかないです。それで、あまり何も言わなくしました。個人に対する注意はやめて全体に対して注意するようにしました。
そういうことをしながら、子どもと一緒に遊びました。
その世界はとてもいやな世界でした。
とても、ムカつくものでした。
対等というより下目線のことがありました。
僕のことを「先生」と呼ぶ子もいますが、高学年になるとほとんどの子はそんなふうに呼びません。
「あなた」
「あんた」
「おっちゃん」
「じいちゃん」
「ジジイ」
「僕の名を呼び捨て」
これだけでも、45年子どもと一緒にいた経験からムカムカします。でも、我慢です。
一緒に遊びます。ゲームをします。
遅いとすぐに
「はやく!」と言います
都合が悪くなると、ルール破りをします。
負けそうになると、すぐにゲームをやめる、くずします。それで捨て台詞を残してどこかへ行きます。後片付けなんてもちろんしません。二人以上なら、二人で僕を馬鹿にしてきます。二人で僕を不利にしてきます。
全力で室内を走っていたりして、こちらが見ていられなくて注意すると
「うるせえ!」
「ほっとけ!」
「はいはいはいはい」
「走ってないし~」
というようなことを言います。
こういうことを1年、我慢してきました。現役のときなら、こんなことは絶対起きません。もし起こったら、それは子どもに乗り越えられたことを表し、それは学級崩壊へ向かう一つのよくないステップだったでしょう。
今の思い
ほんとに気分がいやになって、行きたくないと思ったことが何度もありました。こんなしょうもないことやってる意味がない。いやな思いをしてまで行く必要があるのか、ということも考えました。
ま、こんなジジイに対して、甘えている部分もありますが、子どもの世界というのはけっこう厳しい世界です。こんなふうに友だち?から見下されて、馬鹿にされて果たして学校に行きたくなるのかな?と思いました。
子どもは本能で動いている部分が大きいので、周りの子がそんなふうに行動しているのなら、自分もそうなっていくものです。周りの子の影響力はものすごく大きいです。
僕の担任していたクラスはそんなことありませんでした。僕の前では。わからないところがあればていねいに説明していたし、困っている子がいればだれか声をかけていたし、人としていい行いのできる子が多かったです。でも、僕の見ていないところではあのようなひどいことが行われていたのだと思います。あんなひどいレベルではないと思いますが。人間というものはそういうものです。それを理性の部分でどうコントロールするのか、というところが教育なのですが、最近ではそこがうまく働いていないような気がします。
僕はただのジジイですから、ただのジジイを貫いてみて、見えてきた景色がそういう景色でした。
もちろん、僕に対して先生と同じような接し方をする子もいます。そういう子もいますし、それが個性でもあります。悪い子ばかりではありません。ドストエフスキーの小説に出てくる天使のような子もいます。それが現実です。そういう子にぼくはとても救われました。この僕の視線はほとんど子どもと一緒ではないかと思います。痛めつけられた子にやさしく接してくれる子がいるという。
こんな経験はジジイの役に立つのか?
今年も同じように通っています。去年よりなぜか少し、僕に対する態度がよくなっているように思います。それは子どもの中に少し認知されたということなのかなと思っています。先生だって、異動してきて最初の1年はキツいですから。子どもに認めてもらうってことは結構大変ですから。子どもだってそうです。きちんと認知されることが大事です。いやなことをいやと言わない限り、子どもはその子を軽く見、馬鹿にしてくるでしょう。それが重なるといじめに発展します。こんなことは自明です。それをコントロールできないとしたら、特に小学校の中学年までならそれは担任の無力さを露呈していることになります。能力不足です。
この放課後見守りになって、子どもと一緒に過ごすようになってから、子どもの中で過ごすしんどさを感じることができるようになりました。
あたらしい子ども感を肌で感じることができました。
こんなこと知ることができても、何にもならないと思うのですけれど。さて。
この「ノート」に役立つかもしれませんね。
ムカつく中にも楽しさあり、のこのごろです。
