特命人魚姫
むかしむかし、海の底の青い国に、
小さな人魚のお姫さまがいました。
お姫さまには六人のお姉さんがいて、
みんな十五さいになると、はじめて海の上へ行って、
人間の世界を見てくるのがならわしでした。
末っ子の人魚姫は、まだ小さくて、
お姉さんたちの話をきくたびに胸をときめかせ、
いつか自分も、海の上の光を見てみたいと願っていました。
十五さいになったある日、
人魚姫は海の上に顔を出しました。
そこには、金色にゆれる波と、
歌うように走る白い船。
そして船の上には、やさしい目をした王子さまがいました。
その夜、嵐がやってきて、
船は大きくゆれ、王子さまは海へ投げ出されてしまいます。
人魚姫は必死で泳ぎ、王子を抱きかかえて岸まで運びました。
人魚姫は、王子の耳にそっとささやいて、海へもどりました。
やがて王子は目をさまし、そばにいた娘を
「命の恩人」だと思いこんだのでした。
どうしても、もう一度会いたい。
その思いにゆれて、人魚姫は魔女の家をたずねます。
魔女は言いました。
「おまえの美しい声とひきかえに、人間の足をあげよう。
ただし、王子と心をかよわせなければ、海のあわになってしまうよ。」
「声……?」
人魚姫は、おどろいて声をあげました。
「それ、こっちが不利すぎん?」
魔女は言い返しました。
「いや、この魔法にどんだけの時間と労力をかけたか、あんたわかってる?
特許もとってますからね?」
「にしても、声はキツいわー。
だって喋れなくなるんでしょ?
わざわざ足まで生やして王子様に会いにいったとて、どうやって状況説明すんの!」
「筆談とか、やりようはいくらでもあるでしょうが」
「……声の代わりに、違うもんと交換ってのは?」
「違うもんて何よ」
「人魚の脇毛」
「“人魚の”ってつけて、付加価値を演出しても無理です。
魔女の力使って、タダで脱毛処理しようとすな」
「脛毛もつけます」
「だめです」
「じゃー髪の毛。頭丸めるわ」
「どうせまたすぐ伸びるからいっかー、じゃねえのよ。
声一択です」
「……わかりました。
では、昨日とおとといのはざまに落っこちた、
声の欠片を差し出しましょう」
「うわ、この人、覚えたてのファトラジーで乗り切ろうとしてる。
しかも声を細分化して、どうにか手元に残そうとしてる。
落とし物の声だけじゃなくて、いまある声も、未来の声も、全部です」
「あーもう。しんど。じゃあさー、声あげるからさー、足交換よりも、
“絶対に王子と心がかよう”魔法にしてよ」
「こっちがしんどいわ!そんな万能薬ありません」
「惚れ薬とか媚薬とかあるじゃん。ファンタジーの定番でしょうが」
「未成年には販売できません」
「あのさ」
人魚姫は言いました。
「――そもそも、このヤバそうな薬、厚労省の認可は降りてるんですかねぇ?
まあ、私としても?事を荒立てるつもりはありませんが、そちらの出方しだいでは、こちらといたしましても」
「正規ルートで販売されてますが」
「そうなの!?」
「あたし薬剤師と登録販売者の資格も取ってんの。ふつーに。
これ、正規ルートだと、
・本人確認書類(マイナンバーカード等)の提出
・陸上移動安全講習(3時間)
・誓約書の提出
・環境アセスメントの提出(レポート10枚)
が課せられてます。
そこを免除してやるっつってんの。
あと、メーカー保証1年のところ、うちなら追加料金なしで5年延長サービスします」
「ぐぬぬ…」
頭を抱える人魚姫に、魔女はやさしくいいました。
「あんた、もう帰りなさい。
あんたの恋は、本気じゃない」
「本気だもん!」
「いいえ。あなたには、覚悟がない」
魔女は、ひとつ深く息をつきました。
銀の髪が肩をすべり落ちて、
遠い昔の思い出の糸みたいに光をひそめました。
「……昔、“つう”という鶴の娘がいたのよ」
魔女はそっと椅子の背にもたれ、
両手の指を組んで、ぎゅっと握りしめました。
「人間の男に恋をしてね、
それで、あたしのところへ助けを求めに来た。」
「……魔女さんが、その人(ヒト?)を、人間にしてあげたの?」
「つうはね、すべてを差し出したんだ。
羽根も、命も、削って」
魔女のその声は、海底に沈んだ石のように静かに落ちていきました。
「そんな… そんなの……
そんなことされて、与ひょうさんは嬉しかったのかな」
人魚姫が、思わず口を滑らせます。
「愛ってね。すべてを差し出すことなの。
その意味がわかったとき、もう一度ここに来なさい」
魔女は目を閉じました。
そのまぶたの裏に、白い羽がひとひら、落ちていきました。
*
魔女がつうの物語を語り終え、
部屋に深い静寂が落ちました。
「なるほど」
静かにそう言った人魚姫の指先には、
温かい湯気のたつティーカップがありました。
「……ちょっと!?
あんたそれ、どこから出したの?」
人魚姫は、まるで最初からそこにあったかのように
カップを軽く傾けて香りを確かめました。
「この茶葉――マーメイディアですね?
深層茶葉のわりに軽い香り。おもしろい紅茶です」
「いや、聞けよ。人んちの紅茶勝手に飲むなよ。」
人魚姫はもうひと口だけすすってから、
ゆっくりとあごに親指を当てました。
「愛とは果たして、すべてを差し出すことなんでしょうかねえ」
人魚姫の声は、盤上の駒をそっと動かすみたいに
水底に静かなきらめきを落としました。
それは魔女が欲し、魔女を惑わした、
まさにチェスの美しい一手のように響く声音でした。
人魚姫は姿勢を直して言いました。
「私がついさっきやろうとしていたことを、フィリップにまとめてみました。
こちらです」
「フィリップ!?え?は?」
たじろぐ魔女をよそに、人魚姫はかまわず紙束をめくりました。
声を失う
身体を変える
世界を捨てる
家族・生活・文化全部捨てる
痛みに耐える
王子に尽くす
「一方、王子はどうでしょう」
一目惚れされるだけ
死にかけてたところを助けられただけの人
なんもやってない
しかも他の女と結婚する
「あんた、いつのまにこんなものを…(既視感)」
「昨日徹夜で作りました。進めますね。次。
今回の物語構造についてです」
自己犠牲=美徳 という価値観で書かれている
悲恋や犠牲が“美しい”とされていた歴史
「女は愛のために身を削るもの」という古い思想
「人魚姫の視点だけ」で描かれてるから偏ってる
王子が海に来る、という発想すらない
人魚姫は、まっすぐ魔女を見つめました。
「おわかりいただけたでしょうか。
これが、あなたが崇拝する“愛”とやらの正体です」
「おわかりって…あんた…」
呆気に取られていた魔女でしたが、
すぐに体勢を立て直します。
「あんたは愛を知らないね。
つうは惜しまずすべてを差し出した。
あんたみたいに損得で動いたりはしなかった。
愛はね、見返りなんて求めないことなんだ」
人魚姫の瞳が、炎のように揺らめきます。
「はい、そこ!すとーっぷ!
損得で動かない?見返りなんて求めない?
ずいぶんと傲慢じゃないですか?」
人魚姫の声は、鋭くまっすぐでした。
「だって、そこには相手の意志がない。
つうさんはただ、身勝手な情念を押し付けただけ。
彼女は、一度でも相手の気持ちを考えたことあったでしょうか。
もしも私がつうさんの恋人なら――
私はつうさんにも幸せでいてほしい。
彼女に犠牲になってほしくなんかない。
それが愛じゃないですか?」
「……あんた、本当に何もわかってないね」
魔女の声は、深い夜の底からにじみ出るように、
静かだけれど、強く響きました。
「愛ってのは、相手の意志なんか待ってたら、届く前に消えてしまうんだよ。
つうは身勝手だったよ。そうさ。
でもね、愛なんてだいたい身勝手から始まるんだ。
好きになったその瞬間から、もう暴走するんだよ。
幸せになってほしい?
犠牲になってほしくない?
……優しい子だね。優しい、優等生だ。
あんたは、安全な愛しか知らない。
つうはね、あの男と生きたかった。
それを傲慢だと言いたいなら、そう言えばいい。」
魔女の声は、かすかに震えていました。
怒りなのか。
悲しみなのか。
その正体は、人魚姫にはわかりませんでした。
「つうさんの気持ちは、つうさんだけのものじゃありませんよ!」
人魚姫は急に大きな声をだして、
顔をぷるぷるさせました。
しかしその波立ちは一瞬で静まり、
海面にそっと光が戻るように、すぐ落ち着きを取り戻しました。
「彼女を愛した人たち全員の記憶でできているんです。
つうさんは全部を差し出しちゃいけなかった。
だって、つうさんが彼を愛したのと同じだけ強い愛で、
つうさんを愛していた人たちがいるんです。
つうさんが命を削ったら、彼女を愛した人たちは、
その削られた空白を、ずっと抱えて生きるんですよ。
あなたが美しいと呼ぶそれは、残された人の心に、
永遠に穴をあけるんです」
魔女の瞳の奥が、硬質な光を帯びました。
人魚姫は、なお言います。
「つうさんの愛は、つうさんと、つうさんの世界を救いましたか?
それとも、つうさんの世界を、ひとつずつ壊しましたか?」
「恋や愛が暴走してもいいなら、
それを受け止める世界は、誰が守るんですか?」
*
魔女は長い息を吐きました。
羽の記憶を抱えたまま、静かに問います。
「……で?言いたいことは、それだけかい?」
人魚姫は、すっと背筋を伸ばしました。
そして、あのチェスの“一手”の声で答えました。
「はい。全部言えて、すっきりしました。
――なので、契約します」
「はァ!? どういうこと!?」
人魚姫は微笑みました。
深海の光が揺れるような、確信のある笑み。
「私は、愛が自己犠牲だとは思わない。
自分を捨てる恋じゃなくて、
“自分を選び直す恋”をするの」
「うん。…………うん?」
「あんたに見せてあげる。
“本物の幸せな恋”ってやつを。
さあ、薬をちょうだい!」
魔女は口を開けたまま固まりましたが、
ゆっくりと手首を返し、指先を整えました。
「……ったく。あんたみたいなの、初めてだよ。
そんな価値観、見たことない。……少し、見てみたくなったよ」
「どうもありがとう」
人魚姫は渡された契約書にサインをしました。
そして、もうすぐなくなる鱗を一枚だけはがして、
名前の後ろにぺたりと貼りました。
「じゃあ、声をもらうよ。契約成立だ」
魔女が手を伸ばした瞬間。
人魚姫は、にっこりと微笑んで言いました。
「――残念ですが、この契約は無効です」
「……は?」
その刹那。
海底の戸が乱暴に叩かれました。
「はいはい、そこまでー!
あなたを薬機法違反・入管法違反・強要未遂の容疑で逮捕しまーす」
カーキ色のフライトジャケットを翻して、
六十代とは思えない若々しい男が入ってきました。
「誰よ、あんた……」
「警視庁特命係、海亀薫と申します。
この人の相棒やらせてもらってます」
「遅かったですね、海亀君」
「人魚さぁ~ん、ほんと、勘弁してくださいよぉ」
魔女が何かを言いかけましたが
海亀のあとからやってきた三人組が
「あとはこっちが引き取ります」とかなんとか言いながら
手柄を横取りして魔女を連れていきました。
「人魚」
魔女は連行されながら振り返り、言いました。
「あんたは正しい。
でもね、正しさだけじゃ、人の心は動かせないよ。」
「そうですか」
人魚は、無表情のまま、言い放ちました。
「おたがいさまです。
あなたの美学も、私の論理を動かせなかった」
魔女はふっと笑い、背を向けて歩いていきました。
*
海亀が人魚ににじり寄って言いました。
「にしても、自分から“与ひょう”って言っちゃうあたり、
人魚さん、ドジすぎじゃないですか。
魔女がスルーしてくれたからよかったものの」
「動揺したんですよ、私としたことが。
まさか魔女が“夕鶴失踪事件”にも関与していたとは」
「惚れ薬の件、結局ボロ出ませんでしたね。
あれも魔女なりの美学ってやつなんですかねぇ?」
「……でしょうね。
彼女は彼女で、自分の正義を持っているんです」
海亀は少し笑いました。
「でも人魚さん、迫真の演技でしたよ。
“王子様に恋しちゃったの!”って。
……いやぁ、こっちまで騙されそうになりましたよ」
人魚姫は答えませんでした。
ほんの一瞬だけ、彼女のまつ毛が揺れたことに、
海亀は気づきませんでした。
*
青の果て。ひかりの向こう。遠い記憶。
再会したあの日――
王子は、たしかに人魚を見つめていました。
その瞳には、言葉では説明のできない揺らぎがありました。
そして、
王子の唇だけが、ゆっくりと動いたのです。
人魚姫は、はっと息を呑みました。
それは、あの嵐の夜、
彼女が王子の耳元に、そっと託した言葉。
この世にまだ存在しない言葉。
文字を持たない言葉。
「 ―――――――― 」
けれど、その日は王子と隣国の王女との
結婚パレードの日でした。
王子は真実を知っていた?
知らなかった?
知らないふりをした?
じゃあ、なぜ「まだ存在しない言葉」を、
私に向けて?
なぜ――?
どうして――?
人魚姫の問いは泡のように浮かんでは、
答えを結ぶことなく、静かに消えていきました。
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