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第一章 始まりの温度

始まりは、鏡越しに重なる視線と、指先の温度だった。

彼は十五歳年上の美容師。

私は、ただの客。

美容室という場所は不思議だ。

初対面でも髪に触れられる。

顔との距離が近くても、それは仕事だから許される。

だから私は、胸が高鳴る理由まで仕事のせいにした。

彼は必要以上に話さない人だった。

鏡越しに目が合うと、少しだけ笑う。

その笑顔はどこか儚くて、すぐにいつもの落ち着いた表情へ戻ってしまう。

髪を梳かす手は驚くほど丁寧だった。

急ぐこともなく、乱暴に扱うこともない。

その指先が前髪を整え、耳にかかった髪をそっと払う。

ある日、不意に頬をかすめた。

「すみません。」

彼は何気なくそう言って、また髪に向き合う。

「大丈夫です。」

私も何気なく笑った。

それだけだった。

それだけの出来事なのに、帰り道、私は何度も頬に触れてしまった。

家に帰れば、夫がいて、娘がいる。

私は妻であり、母親だった。

だけど、美容室の椅子に座っている時間だけは違った。

誰かの妻でもなく、誰かの母でもない。

ただ、一人の女性として名前を呼ばれる。

その時間が、少しずつ好きになっていた。

期待なんてしない。

好きになんてならない。

そう言い聞かせるたび、鏡越しに彼を探してしまう自分がいた。

あの頃の私は、まだ知らなかった。

人生は、壊れる音ではなく、気づかないほど静かな気配から変わり始めることを。

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