【国語の先生達へ】少年時代の私が、国語の授業に失望した話。 『蜘蛛の糸』のカンダタの罪から考える
はじめに

どうも平良リョウジです。
今回私が話すテーマは、
小説などの物語には様々な解釈があり、どんな解釈が正しいのかは作者にしか分からない。だから我々は読者の特権としてどんな解釈だってしていいけれど、自分の解釈を他人に押し付けてはいけない。
です。
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』

皆さんは芥川龍之介の『蜘蛛の糸』をご存知でしょうか?
カンダタという地獄に堕ちた極悪人が、お釈迦様が下ろした蜘蛛の糸をよじ登り、極楽を目指すお話です。
蜘蛛の糸を登っていたカンダタがふと下を見ると、自分の他にも沢山の罪人達が蜘蛛の糸をよじ登っている姿が見えました。
カンダタは言います。
「この蜘蛛の糸は己(おれ)のものだぞ。お前たちは一体誰に尋(き)いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」
途端に蜘蛛の糸は切れ、カンダタを含めた罪人達は全員地獄に落ちていってしまいました。

【中学生時代】国語の授業への失望

私が中学1年生の時のことです。
国語の授業にて、担当の先生は上記の『蜘蛛の糸』の内容を生徒達に話した上で、
「どうして最後、蜘蛛の糸は切れてしまったのでしょうか?」
と、クイズを出してきました。
国語の授業が好きだった私は早速挙手をし、
「カンダタが極楽へ行く権利を独り占めしようとしたからです」
と答えたのですが、先生は「残念。不正解です」と答えました。
先生が出した答えは、
「蜘蛛の糸が、地獄の罪人達の物理的な重みに耐え切れずに切れてしまったから」
でした。

そんな薄っぺらい理由でお釈迦様の蜘蛛の糸が切れるのだろうか?
私は意味が分からなくなり、混乱したのを覚えています。
ちなみに、その1年後、中学2年生になった私は、新しい国語の先生に
「芥川龍之介の『蜘蛛の糸』では、最後どうして蜘蛛の糸は切れてしまったのでしょうか?」
と質問をしてみたところ、
「カンダタが極楽へ行く権利を独り占めしようとしたことによる罪だよ」
とお答えになりました。

私は国語の授業とその教員達に対して深く怒りと憎しみの感情を抱きました。
世の中の国語の教師達は、人の作品を自分で勝手に解釈してそれを授業で問題に出し、生徒の解答に対して⚪︎×を付けていたのです。
ふざけているのか? こんなものが教育と呼べるのか?
以降私は国語の授業が嫌いになってしまいました。
キリスト教の『聖書』と、『ごんぎつね』事件から考える物語への解釈
さて、どうすれば、国語の授業が実りあるものになるのか?
私はそれについてずっと考え続けたところ、以下の勉強になる文献、事案を見つけることができました。
・ 聖書『使徒言行録』と、『原典ユダの福音書』

皆さんはキリスト教の『聖書』を読んだことはありますでしょうか?
私は中・高・大とキリスト教の学校に通っていたため、『聖書』は日常的に読んでおりました。
その内容には、西暦元年に生まれたイエス・キリストという神の子供が、自身による教え「キリスト教」を布教し、最後は自身の弟子・イスカリオテのユダに裏切られて十字架に磔にされて死んでしまう物語が記されています。

イエスの弟子が記した聖書の一節には、イエスを裏切ったユダについて、以下の記載があります。
ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。
文面からしてこれを書いた人は、ユダのことが心底嫌いだったように感じられます。
しかし、裏切り者のユダ本人が書いたとされる『原典ユダの福音書』では、
なんと、ユダはイエスの指示によって、わざとイエスを裏切ったのだと記載されているのです。
大昔の出来事である以上、真相は分かりませんが、中高生時代にお世話になったキリスト教に詳しい先生曰く、ユダはイエスを裏切った後、自責の念に耐えかねて、首を吊って自殺したのが有力説だとのこと。

・ 『ごんぎつね』事件について思うこと

次に挙げる例が、
小学校の国語の授業でお馴染みの『ごんぎつね』にまつわる事件です。
どういう事件かと申しますと、
とある小学校4年生の国語の授業にて、担任の先生が
『ごんぎつね』の、ごんが兵十(最後にごんを銃で撃ってしまう男)の母親の葬儀に出くわした際に、村の女たちが大きな鍋で料理をしている場面を取り上げ、
生徒達を班に分け、「鍋で何を煮ているのか」について議論させてみたところ、
「兵十のお母さんを鍋で煮ている」という趣旨の解答が続出したとのこと。

担任の先生や、授業見学をしていた方達はその解答に愕然としたそうですが、私はそこまで驚きませんでした。
何故なら、私は十年ちょっと前までは小学生だったこともあり、わずかながらそのような猟奇的な解答をしてしまう子供達に共感できたからです。
そもそも、私がこの事件の概要を読んで、不思議に思った点として、
授業で出た「鍋で何を煮ているのか」というお題そのものが簡単すぎてつまらない点です。
このお題を幼稚園児達に出したのなら、楽しい議題になったのかもしれません。しかし、このお題を出されたのは小学4年生です。
もう様々な常識を覚え、反抗期に入りつつある彼らの年齢になると、「味噌汁」だとか「鰹出汁」だとか、あまりにも正当な答えが思いつくので、お題が簡単すぎてつまらないのです。
出された側からすれば「俺達を舐めているのか?」と思ってしまいます。
だからこそ、小学生達は簡単でつまらない国語の問題に対して、わざと猟奇的で残酷な答えを面白おかしく、大喜利のように言いまくるのです。
何故、私がそこまで確信を持って言えるかというと、小学生時代の私もそうだったからです。

ちなみに、私が小学生だった10年以上前では、「桃太郎」を始めとした昔話を、下ネタや猟奇的なネタで魔改造しまくり、ブラックジョークとして友達に披露しまくって笑い合っていたものでした。
当時流行っていたニンテンドーDS付属の「うごくメモ帳」というペラペラアニメを作って投稿できるゲームでは、ワクワクさんとゴロリくんが殺人鬼になる手書きアニメや、マリオとピーチ姫の「ウンコを踏んじゃった」等の下ネタのやり取りの手書きアニメが大人気になったものです。
この『ごんぎつね』事件について記事を書いた著者の方がおり、
その方は記事の中で「子供達は何も分かっていない」、「読解力以前の問題」、「想像する力と結びつけて考える力が欠けている」等、子供達に対する心配の想いを語っております。
私からの、著者の方に対するコメントとして、
もうちょっとだけ、子供達と同じ目線で考えてみませんか?
彼らがいつもどんな気持ちで授業を受けているのか、想像したことはありますか?
我々が小学生だった時は、どんな気持ちで国語の授業を受けていましたか?
もう少しだけ、子供達の気持ちに寄り添ってみませんか?
※以上、『ごんぎつね』事件について炎上覚悟で意見を申し上げました。
↓上記の著者の方が書いた記事のリンクを貼っておきます。
私が考える、これからの国語の授業のあり方

以上の、キリスト教の『聖書』の記述と、『ごんぎつね』事件から考えると、
時代によって作品への解釈、捉え方、感じ方も変わるということです。
小説などの物語には様々な解釈があり、どんな解釈が正しいのかは作者にしか分からない。だから我々は読者の特権としてどんな解釈だってしていいけれど、自分の解釈を他人に押し付けてはいけない。
だからと言って、好き勝手に解釈していいか?と思うかもしれませんが、それも違うと思っています。何故なら、国語において、解釈をするということは、その人の人間性がはっきりと現れるからです。

では、どのように国語の授業を行えばいいのか?
私が悩む中、とある書籍にて面白い記述を見つけましたのでご紹介します。
重要だと感じた箇所を太字で表記しております。
私は現在、公立中学校の国語教師をしています。その授業の中で、年に数回程度、『ウルトラマン』シリーズを視聴させ、ワークシートに取り組ませています。
生徒にとって、今や『ウルトラマン』は意外な教材であり、身近な存在ではありません。初めて見る生徒も多くいます。あるいは幼い頃にとっくに「卒業」しており、一〇代前半の生徒にしてすでに「懐かしい」と言わせる存在です。
しかし、思春期に入り少し大人の目線で社会を見るようになった生徒たちは、『ウルトラマン』「故郷は地球」、『ウルトラセブン』「盗まれたウルトラ・アイ」「第四惑星の悪夢」、『帰ってきたウルトラマン』「毒ガス怪獣出現」「怪獣使いと少年」、『ウルトラマンガイア』「悲しみの沼」など種々の作品を真剣に見ます。見終わったところで、ワークシート配布です。
ワークシートには「この作品で正義として描かれているのは誰ですか」「この作品の犠牲者は誰ですか」「作者の訴えたかったことは何ですか」といった設問の他、感想を書かせて提出させます。最初は、「何で最初から変身しないのか」とか「ウルトラマン、街破壊してる」という、定番化されたパロディーや、表面的な見方で解答をしてくる生徒もいるのですが、深い読みをしている生徒の答えを紹介することで、多くの生徒が、作品世界を詳細に読解し出します。
私が生徒に求めるのは、あくまで〈読解〉です。これを題材に、生徒に道徳的な価値観を教え込むということはしません。国語の授業に道徳を持ち込むと、解釈が一定の方向に収斂されがちになります。ストーリーの中には対峙し合う〈他者〉が存在し、そこには複数の価値観、殊に対峙し合う正義観があることを読解させる。それが授業の目的です。
「怪獣が常に悪者で、正義の味方ウルトラマンが人間を助ける話だと思っていた。しかし違った。悪いのは人間の方だった」「ウルトラマンが問題を解決し、人間を助けてくれるのだと思ったけれど、人間が自分たちで問題解決をしなくてはならないと知った」「よく考えたけど、誰が悪いのかわからない」という解答が出始めます。時には、私の視点にはない、鋭い読みをしてくる生徒もいます。
以上のことから考えて、国語の授業で大切にすべきことは、道徳を持ち込むことではありません。
文学を通して、明確な答えを求めず、様々な答えを集めて紹介することで、児童・生徒だけでなく、教員も共に文学を〈読解〉する力を磨き続けることにあるのだと思いました。
さすれば、国語科の授業は更に魅力的なものになる。
私はそう胸に刻み込み、次の世代の子供達が、私達のような悲しみを背負い込まないように、取り組みたいと思っております。
最後に、私がこの記事を書くきっかけの一つになった、お笑いコンビ・空気階段さんによるコント「14才」の動画をご紹介します。
コントの内容は、本記事のテーマと大きく繋がるものとなっております。
お楽しみいただけますと幸いです。
