俺のFIRE漂流記⑤-2(お仕事小説)
工程5-2 奢れるもの、ひさしからず(後編)
1、トンネル通過の儀式
帯広に到着したのは13時を大きく過ぎた頃だった。朝6時台に出発したというのに、あり得ないくらいの遅さだ。
それというのも、10月下旬に峠越えをするという事実を、俺たちはすっぽりと頭から抜け落ちていた。道民は、えてしてタイヤ交換をギリギリまで粘る傾向がある(一部か? 俺だけか?)。
スタッドレスタイヤに履き替えなければならない! もうそろ高速のICに差し掛かるという時点で、あっと同時に声を上げ、慌てて自宅へ引き返した。高速に乗る前でよかったが、あんなに意気込んで動き出しておいて何をやっているんだか。
車庫からタイヤを引っ張り出して、自ら交換へと取りかかった。朝早すぎて、対応をしてくれるガソリンスタンドがなかったからだ。ここで約1時間足止めを食らう。こんなに目の色を変えてタイヤを交換したのは、後にも先にもこの時ぐらいだろう。F1レースのピッチ内スタッフの心境ってこんな感じか?
ハアハア息をつきながら、おやっさんへ欠勤の連絡を入れた。大型工事の初期における大事な段階なので、本来なら休んでいる場合ではない。だが事情を説明したら、おやっさんはひとつも躊躇うこともなく、快く送り出してくれた。おやっさんはそういう人なんだ。
札幌から帯広まで高速道路を使い、道路状況がよければ早くて2時間半で着くと、車中で凛々子が説明した。
俺が知っている道のりは、北海道の3分の2を南北に分断する、背骨のような山脈を横断という結構な大ロード。休憩なしでひたすら国道を走り続けて、片道4時間ほどになる。だがそれは夏場の話で、冬ともなると時間の予測がつかないどころか、状況次第では幾つもある峠越えを諦めざるをえないこともあった。当時、高速道路なんて便利な代物は北海道の背骨の西側だけの話だろうと思っていたくらいだ。
俺は中学に上がると同時に帯広を離れて以来、一度も帰郷したことはない。小学校を卒業してすぐ、札幌の中学校へ編入という形で入学した。
すでに札幌市内の高校教師となっていた兄・真治が、俺の選任保護者になった形だ。当時の俺を養ってくれていたのは、父ではなく12歳離れた兄だった。
夕張へ至るまでの途中、事故があったりなど足止めを食らう。時刻は10時を過ぎていた。夕張を抜けて日高山脈へといよいよ差し掛かる。片側一車線とはいえ、高速道路での走行は快適すぎるだろ。この、昔は不可能とも思えた文明の発達を目の当たりにして、自分が年老いて時代に取り残されているような感覚を覚えた。
それにしても、どんだけ長いんだ。このトンネルは。それも抜けたと思ったらまたトンネル。どこまで行ってもまたトンネル。そしてトンネル。
いくつ目なのか、もう数えるのをやめた。何個目かのトンネルから飛び出たとき、目の前にスカッと大パノラマの景色が広がった。
日高山脈のど真ん中に舞い降りた俺たち。迎え入れてくれたのは紅葉で鮮やかに燃え上がる色彩の洪水。365度山岳に囲われた道路は、高みから緩やかにカーブを描き、はるか先の中腹にぱっくりと口を開いている先へと延びている。そこへ俺たちはまるでジェットコースターのように、前方にみるみる迫る山の腹の中へと吸い込まれていった。隣で凛々子が感嘆の声を上げていた。再び長い長いトンネルに入って、凛々子は呟いた。
「なんだか産み出した我が子をまた体内へかき戻されたっていうような感じ」
「なんだそれ」
俺はトンネルが嫌いだ。運転がしづらいのもそうだが、この行き場のない閉塞感が半端ない。だから凛々子が口を開いてくれてありがたかった。
何でもいいから会話が欲しかった。
「あの何かのプレゼントのような大絶景の後にこのトンネルだもの。何だか産道を連想しちゃうわ」
「たしかにな」
産道か。父親にはない発想だな。このトンネル群を抜けたら、膜が剝がれるように生まれ変わっていたらいいのに。あるいは、記憶がすべて清らかなものに一新されているとか。
帯広が近づくにつれ、どんどん口数が少なくなっている俺に気遣っているのか、凛々子がまたぽつりと言った。
「ゴロちゃん。準備はOK?」
俺は返事を返さなかった。まだだ。まだ……。まだトンネルを抜けていない。延々と続くと思われるトンネルロードは終わりを迎える。
一つ目の狩勝トンネルを抜けた途端、辺りは濃霧に覆われていた。トンネルを抜けるとそこは雪国なんて有名な一文があるが、世界は濃霧一色。幽玄の世界。これは濃霧というより紙だな。真っ白な紙を張りつけられた出口に突っ込み、飛び出た先は紙で覆われた空間に閉じ込められましたっていう感覚だ。方向感覚を狂わされる。先行車両がいないから余計ひやりとした。
凛々子は俺に気遣ってか、驚いただろうに微動だにしなかった。実に冷静だ。何て女だよ、まったく。それなら俺も余裕綽々に振舞わなきゃならないだろうが。
分厚い膜と化した白の世界を、神経を研ぎ澄ませて進んでいく。前方に車が現れたら一巻の終わりだな。視界50mではとてもよけきれない。恐らく急に発生した霧だろうから、今規制が出始めているだろう。無事、二つ目の狩勝トンネルに逃げ込み、俺たちはそっと安堵の吐息をついた。そこで俺の携帯が鳴った。スピーカーにすると、兄貴の声が大音量で響いた。
「吾郎、いた。いたぞ、柔道! 特養のケアマネさんから連絡がきたんだ。昼前に、中学生くらいの男の子が父さんを尋ねてきたって」
息を呑み、俺は素早く凛々子の顔を見た。凛々子は少し目を見張っているが、どこかほっとした笑みを浮かべている。
「ほんと、すげえなおまえ」
「え? なんだって?」
思わず漏れ出た呟きに敏感に反応され、即座に話の続きを促した。兄貴も凛々子のように行動を読んで施設に連絡をいれていたわけではない。
いきなり子供が一人で現れるなり、孫だから祖父に合わせてほしい、伯父の亘真治の許可をもらっていると言ってきたそうだ。懇意にしている兄貴の名を出されて、子供であるうえ、昼前の時間帯で人手も手薄だったことから、希望通り面会は果たせたようだ。
休憩から戻ってきた施設付きのケアマネージャーは、報告を聞いて不審に思った。すぐに兄貴に問い合わせをしてきて、対応した施設の職員の不手際が発覚した。が、責められないだろうな。柔道のことだから、子供であることを最大限活用してだまくらかしたとみる。その職員には気の毒な役回りをさせてしまったな。電話をくれた時点でまだ施設内にいるというから、何か理由をつけて引き留めておいてくれと頼んでくれたそうだ。さすが兄貴だ、用意がいい。
「今、オベリの杜へ向かっているから。うちに連れて帰るから安心しろ!」
この時点で、時刻はちょうど12時。俺たちも今施設へ向かっていて、13時30分ごろに到着できそうだと告げると兄貴は仰天していた。ま、普通はそういう反応だよな。兄貴は公立高校の教師で午後の授業があるのに、生徒たちを放り出して動いてくれている。俺がそのことを詫びると、「おまえだって、逆の立場なら同じことをしているぞ」と笑いながら返してきた。
通話が終わった時点で、最後のトンネルを通過した。十勝の大平原が現れた。本格的な冬が目前と迫った、茶と黒と灰色の寒々しく厳しいが、自然あふれた豊かな景色。トンネル通過の儀式は効果を奏したのか。ハンドルを握る手に力がこもる。
「準備はOKだな。たぶん」
脱皮は出来ていないが、ひとつ腹を決めることはできた。柔道のお陰かもな。
2、いくじなしのルーツ
「間に合わなかったよ」
きっかり13時30分、特別養護老人ホーム『オベリの杜』到着。エントランス前に広がる車寄せへ停車すると、ポーチで待っていた兄貴が走り寄ってきた。挨拶するのももどかしいようで、車から降りるや否や、残念そうに告げてくる。
どうやら柔道は引き留められていると勘づいたようで、そっと施設から抜け出したようだ。わが子ながら、一見ボーッとしているのに、やることなすこと実に抜け目がないな。まだ14歳だというのに。
施設の人たちに詫びをしたいが、まず柔道の行方を追うのが先だ。施設を出てそんなに時間が経っていないはずだから、近隣を探せば見つかる確率は高いだろう。ここは帯広中心部から離れた南側の市の外れにある。札幌へ帰るにせよ、どこか他の土地へ行くにせよ、移動の要である駅へ必ず向かうはずだ。俺たちはバス停を確認しながら帯広駅へ向かい、兄貴は高校へは戻らず、辺り一帯の寄りそうなコンビニエンスストアやファーストフード店を回ってくれることになった。
途中、道端で背格好が似た少年を見つけると、車を寄せて確認をする行為を繰り返す。やっていることが不審者なので、あまり続けていると通報されそうだな。
「たぶん、とっとと駅へ戻ってるんじゃないかな。あの子のことだから、施設からの帰りのバス時刻も事前にちゃんと調べていそう。……となると」
凛々子はチャチャッと、さっきから隣でグーグル先生を駆使して調べ上げている。
「バスターミナルから出る札幌行きの都市間バスは、次が14時30分。その後は16時30分。乗るとしたら、14時30分だね。ゴロちゃん、急いで! あと15分しかない」
「バスに乗るとは限らないんじゃないのか? JRだってあるし。そもそも家に帰るかどうかも……」
「JRはないね」
「なんで」
「運賃が高いから。高速バスの方がずっとお得なんだよ。JRの半分の料金で行ける」
「マジか」
半信半疑な発言をしておきながら、俺はとっくに先を急いでいる。褒められたことではないが、ちょっとスピードも出してるな。信号無視は辛うじてしていないが。必要とあらば……。
「家に帰るかはわからないね。まあ、帰る前提でとにかく急いでみよう」
凛々子の肝の座り方は、やっぱりちょっと俺が知る周りの母親がたとは違う気がする。恐らく『相当変わっている人』的な部類に入るのではないか。ちゃんとママ友がいたのかな、と今さらながらに思ってしまった。
出発まであと6分前。帯広駅前にあるバスターミナルが見えてきた。ロータリーに侵入しようと車線変更をすると、大型バスがすっと目の前へ滑り込んだ。そのゆっくりとした動きに続いてロータリーへ侵入する。
「もしかして、このバスがそうじゃないか?」
凛々子が窓を開け、身を乗り出してバスの陰から見え隠れする乗り場を確認する。バスのお尻から現れた、ひとつの乗り場に並ぶ人の列が見えた途端、凛々子が鋭く「いるね」と告げた。
バスが完全に停まる前に、俺は車を急停止した。俺からも姿をはっきりと確認できた。スマホをいじりながら背中を向けているので、こちらに気づいていない。急いで車を降りて、最後尾に並んでいる細い姿に二人で近寄った。まだ成長途中の細くて頼りなげな後ろ姿だ。俺は背中に背負ったリュックに手をかけ、声をかけた。
「こんな時間に私服でうろついてたら補導されちまうぞ」
ビクッとして振り向いた顔を、俺はこの先ずっと忘れないと思う。反抗的でもない怯えでもない、色んな感情がせめぎ合っているような顔。俺だとわかり、その感情を柔道は即座に隠したようで、顔つきがすっと変わった。
「どうしてここに……」
驚いているようだ。そして俺の背後にいる母の姿を見つけて、更に目を丸くしている。
「伯父さんが連絡をくれたんだよ。おまえが爺さんのところに現れたって」
「ふーん。……ていうか、来るの早すぎない?」
「まあな。親の愛ってやつだ」
説明が面倒になってそう済ませたが、簡潔に言うとそういうことだ。
「全然わかんないんだけど」
と言って、バスに乗り込もうとする息子を俺は慌てて捕まえる。
「おい、こら。何してんだ。おまえが乗るのはそっちじゃない。一緒に帰るぞ」
「お金払ってチケット買ったんだから、乗らないともったいないじゃん。
それになんでそっちに乗らなきゃならないの」
揉み合っている俺たちを遠巻きで見守っていた凛々子が近寄ってきた。
「ジュドー。きみ、うちに帰るつもりでいたの?」
俺の腕の中でもがいていた柔道が一瞬大人しくなった。
「……当たり前じゃん。オレのうちだし」
その発言に俺は拍子抜けした。家出じゃないのか? いや、家出だよな。音信不通でひと晩帰ってこなかったのだから。山ほど質問を浴びせたかったが、とりあえずこいつを車に押し込めなければならない。ここは力ずくかと考えていたら、凛々子が動いた。
「そう。じゃあ、その自分のうちに帰るんなら一緒に車に乗っていきなさい。こっそり帯広から帰って来たかったんだろうけど、こうして見つかってしまったのなら諦めることだね」
それでも歯向かうかと思っていたのだが、柔道は口をへの字に曲げて大人しく車に乗ってくれた。
バスの運転手にキャンセルを告げて、急いで車へ駆け戻る。バス以外の車両は進入禁止のロータリーに入って迷惑駐車しているわけだから、後から来た路線バスの運転手や乗客からの非難の視線が痛かった。頭を下げて詫び、逃げるようにバスターミナルを後にした。
すぐに兄貴に電話を入れ、見つけて無事保護をしたと知らせた。兄貴はそのままその流れで札幌へ帰れと言ってくれたが、施設には挨拶ぐらいはしたかった。施設の人たちが知らせてくれたから、こうして途中で柔道を見つけることができたのだ。それは、家にいつのまにか帰ってきている柔道を発見するのとは、意味が雲泥の差ほど違ってくると思う。
兄貴の案内で、俺は初めて『オベリの杜』という特別養護老人ホームへ足を踏み入れた。
6年前にできた最新設備の整った機能型老人ホームで、今の時代のデザイン技術の高さに内心唸ってしまう。仕事柄、つい空調の位置やら間取りやら建築材料の納め方やらを見てしまうのが癖になってしまっている。
上京した田舎者のようにきょろきょろと辺りを見回しながら、2階の詰め所にいるケアマネージャーさんを尋ねていった。凛々子と柔道は車で待機している。
迷惑をかけたことを詫び、そして協力をしてくれた礼を言うと、俺とそう大して歳の変わらなさそうな女性は心配そうな笑顔で労ってくれた。
「ここまで息子さんを探しに来られたなんて。それにお爺さんに会いにはるばる来た息子さんも、皆さん素敵な方たちですね」
事情は分からないですけどね、と言い添える。そんなことを言ってくれた。いい人だな、この人。改めて頭を下げて帰ろうとする俺を、ケアマネージャーの星野さんは呼び止めた。
「お父さんに会って行かれませんか?」
踏み出した足が止まる。傍らの兄貴が俺の様子を息を詰めて窺っているのが感じられた。
「あそこでちょうど皆さんと談話しているんですよ。この時間帯はいつも広間で過ごすのが、与次郎さんのお気に入りなんです」
ほら、と促され、つい目線を向けてしまった。手で指し示された先に、緩やかに仕切られたホテルのロビーのような談話室があった。入所者と職員の輪があちこちに固まっている。そのうち、こちらに背を向けて車椅子に座った老人がちらりと見え、俺はぎくりとした。傍らの男性職員に何やら話しかけられて、ゆっくり頷いている姿。その猫背になって丸めた後姿と少し尖った後頭部に見覚えがある。頭がだんだんと横に向けられてくるように見えて、俺は踵を返した。
「今日は本当にどうもありがとうございました。また改めてご挨拶に伺います」
星野さんへ丁寧に頭を下げて、俺は一目散に元来た道へと引き返した。
兄貴が何も言わずに後を追ってきた。とにかく俺は一刻も早くこの場から去りたかった。
帰りの車中、しばらく俺たちは無言だった。兄貴とは施設の前で別れた。あまり長く立ち話も出来ず、「また連絡するから」と、いつになるかわからない約束をした。兄貴には、四十にもなった今でも、相変わらずこうして世話になりっぱなしだ。
帯広から出立する前に、おやっさんへひとまずLINEで一報を入れておいた。息子を無事に保護し、明日通常通り出勤する旨を報告すると、「労わってやれ」と短く返ってきた。
16時過ぎると陽がかなり落ちて、山間部は残照が影絵のように山の形を黒く、曇った秋の空を茜色に染め上げている。黄昏時の高速道路はどこかファンタジックで、俺たち3人をどこか非日常的な世界へ連れて行ってくれそうだ。最後に3人でドライブをしたのはいつだったか。会話はなくても、ずっとこのまま一緒にいられたらいいのに。
「行きと景色が違う」
後部座席からぽつりと独り言が聞こえてきた。ルームミラーに目をやると、シートに寝転がっていた柔道が起き上がって流れていく景色を眺めていた。
「なんで何も聞いてこないの? 普通、怒るか、問い詰めるか、泣くかじゃない?」
自ら切り出してきやがった。俺たちがあまりにも静かだから居心地が悪いのだろうな。ちらりと助手席へ目を向けると、凛々子は目を瞑って完全にシートに凭れかかっている。
まさか寝ているのかよ……。かなり驚いたが、そっとしておいてやった。
「たくさんありすぎて、何から聞いたらいいかよくわからん」
実際、あの施設訪問が余計だった。あのお陰で、俺の心がかき乱され、平常心を取り戻すのにこんなに時間がかかっている。情けない。行きはあんなに覚悟を決められたと意気込んだのに、全然だった。なにが準備OKだよ。
あいつの姿を見ただけで動揺した自分に腹が立っている。息子の一大事だというこんな時にでさえ、今この時に集中できない。つくづくダメな父親だな、俺は……。
「どうしてお爺ちゃんに会いに行ったの?」
起きてたのか。急に凛々子が口を開いた。もしかして、俺を慮って代わりに聞いてくれてるのか? それにしても、聞き方がストレートだな、相変わらず。ほれ、みろ。柔道が黙ってしまってるじゃないか。
フォローしなければと考えている矢先に、また凛々子が畳みかけた。
「小さい頃に一度会ったきりだったのに。あたし、感心したよ」
感心? びっくり仰天じゃなくて? そこは褒めるところなのか?
ルームミラーに映る柔道の顔もちょっと困惑気味だ。その後、凛々子が再び口を閉ざすので沈黙が続いた。しばらくして、柔道が様子を窺うように少しずつ話し始めた。
「お父さんが……一生会いたくないお爺ちゃんってどんな人なのか知りたくなって」
俺のせいか?! 俺にとっては衝撃の告白に、一瞬ハンドルを握っていることを忘れそうになった。しかも、何故そんなことを知っている?
「誰かから何か聞いたのか?」
誰かといっても、凛々子と兄貴しかいないだろうが。どちらも、そんなことを子供に話して聞かせるとも思えないが。
「聞かなくても……わかるよ。だって、お爺ちゃんの話、一切しないじゃん。不自然なほど。触れちゃいけないことなんだな、って幼稚園くらいの頃から思ってた」
これはショックだ。俺は息子にそんな長い間気を遣わせていたのか。しかも、いい年して子供じみた葛藤がバレバレだったとは……。これ以上みっともない姿を見せられない。動揺を力ずくで抑え込んで、俺は冷静な口調で尋ねた。
「学校を休んでいるのはどうしてだ? それと爺さんが何か関係あるのか?」
「別にないよ」
「ただの思い付きで、往復7000円近くも出して帯広まで行ったっていうのか? しかも中坊のくせに外泊までしやがって」
都市間バスの運賃はとうに調べ上げているので(凛々子が)、知っている。
「駅前のカラオケボックスにいたから。オレみたいなの他にもいた」
そんなことだろうと思ったよ。未成年が一晩過ごせるところなんて、カラオケボックスかスーパー銭湯くらいなものだろう。他にもまだあるかもしれないが、それ以上は知らん。
「いじめられているのか?」
一応、確認してみた。正直に答えてくれるだろうか?
「そんなんじゃない」
「本当か? 隠さなくてもいいんだぞ。行きたくないのに、無理に行けとは俺は言わない」
「そうなの?」
柔道が顔を上げて、ルームミラーに映る俺の目を見た。一瞬、目と目が合い、すぐに顔は伏せられたが、少し安堵したような表情を俺は見逃さなかった。
「……いじめられてるわけじゃない」
お? これは話してくれるということか? 俺たちは言葉を挟まず、じっと待った。
「なんか、居場所がないって感じ。ノリや話を合わせようと意識しないと、あの世界に入っていけない。すごく疲れるし……やだ」
車内という特殊な空間で、そのうえ後部座席に一人ということもあって、いつも以上に話しやすいのかもしれないな。辺りは宵闇に包まれ、静かな山間部をひたすら高速で走り、BGMは井上陽水の《カナリア》という相乗効果もあるだろう。自分語りには最適な舞台だ。
「……そうか。気づいてやれなくてごめんな」
「別に気づいて何かしてほしいわけじゃないし。お父さんが何か気づいたとしても、俺はこうしてたと思うし」
ふてくされたように言っているが、若干照れ隠しなのが見え隠れしているな。そしてまたルームミラーへちらちらと視線を向けてくる。
「なんで怒らないの?」
気になるのはそこなのか。逆に、どうして目くじらを立てて問い詰めなければならないのかがわからん。
「……大人だって、嫌な所から逃げ出したいことくらいある。それを子供がやっちゃだめだなんておかしいだろ」
俺の語彙力のなさ。また寝ているのかと思うくらい静かだった助手席から、溜め息混じりで声が発せられた。
「お父さんも同じようなことしてるから。ジュドーの気持ちがわかるということ」
「え? ほんと? いつ?」
「それはね、高3の———」
その話はヤメロ。話が変な方向に行きそうになったので、俺はオーディオのボリュームを上げた。陽水の《小春おばさん》が大音量で社内に轟く。
「もう陽水飽きたよ! 違うのにして。BTMとかさ」
「無駄無駄。この車に乗ったら陽水さんはセットだから」
話が逸れたみたいなので、音量を元に戻してやった。しかし、選曲に難をつけられて少し気分を害したぞ。
「柔道。ひとつ怒ることがあるとしたら、音信不通になるのだけはやめろ。あれはだめだ。まじで心配する。すぐに帰る気がなかったにしろ、何かひと言でも無事がわかるようなことを返せよ」
少し調子に乗ってきた様子の柔道が、神妙な顔をして小さな声で謝ってきた。反抗的とはいっても、こんな感じでまだまだ素直だから大丈夫だろう。話を学校の方へ戻しておくか。
「学校へ行くこと自体が辛くてしようがないのなら、しばらく離れてみることをしたっていいと俺は思っている。先生と相談しながらだとは思うけど、昔と違って今は色々な学習の仕方があるというじゃないか。オンライン授業とか、午後から登校、午前だけ登校とか他にもいろいろ」
全部凛々子からの受け売りだが、今の時代の学習環境にはちょっとしたカルチャーショックを感じている。どんなに問題を抱えていても、登校する以外に選択肢のなかった俺たちの世代以前では考えられないほど、今の子供たちは手厚い配慮と処置で守られていると思う。
「だから、少し気持ちの整理をしてゆっくりと進め——」
「明日から学校行くよ、オレ」
「え?」
話を端折られ、あまりにもあっさりと言ってきたので、ぽかんとしてしまった。ルームミラーに目をやっても、窓に顔を寄せて夜景を眺めているので表情が確認できない。
「別に二度と行かないつもりで休んだわけでもないし。まあ、また行きたくない日も来ると思うけど、とりあえず行く。3日間好き勝手したら少し気が済んだ」
随分切り替わりが早いな。この辺は俺とはずいぶん違うから、息子とはいえ理解しがたい所だった。母親である凛々子は俺にとって未だに謎めいた部分が多い思考回路をしているのだが、柔道はそれによく似ていると思った。
「施設に行って何か得るものがあったとか、か?」
ぽろりと口から出た。馬鹿なことを聞いたなと、口に出してから自分に舌打ちしそうになる。俺から祖父の話題を振ったのが意外だったらしく、柔道の顔がルームミラーに再び現れた。
「よくわからない。全然話通じなかったし……。でも、さ。そのう…………」
柔道の目が右に左にと泳ぎ始めた。言おうかどうしようか躊躇っているようだが、結局話したい欲求が勝ったらしい。おずおずと伝えてきた。
「オレのこと、吾郎って呼ぶんだよね。何度も何度も」
柔道が様子を窺うようにルームミラー越しに俺を見ている。その時のことを思い出したのか、少し口元が笑っていた。
「オレとお父さん、全然似てないのにさ。小さい時に一度会っただけなのに、びっくりしちゃったよ。なんでわかるんだって」
「そうか」
正直、そんな返事しか出てこなかった。何の感情も湧き出てこないなと自分を傍観しながら、帯広を出発して10個目のトンネルを通過する。もうすぐ夕張を抜ける頃だ。そこでハンドル横のスタンドに設置してあるスマホが、またブルブル震えた。夕方から3度目だが、仕事関連ではないので申し訳ないが後回しにしていた。ちらりと見えた通知は葛西からだった。何だか嫌な予感がする。早くメッセージを確認したかったが、まだ建て込み中なのでぐっと堪えた。
「きみたちはそっくりだよ、あたしから見たら」
凛々子がまた、俺のシャットアウトした空気を打ち破りに会話に入ってきた。柔道はそうかなあと納得いかない様子だ。
「ブックカフェでさ、杵柄さんが言ってたんだ。自分のルーツを最近よく考えるようになったんだって」
「ルーツ?」
「うん、杵柄さんも親と縁が薄いって自分で言ってたよ」
凛々子は俺たち双方からブックカフェのことを聞かされているので、杵柄嘉臣が何者であるかは知っている。いきなり飛び出してきた杵柄に興味が引かれたようだ。
杵柄は柔道にこう言った。肉親だからという理由で縛られる必要はない。だが、血の柵というものは確かに存在するのも事実だと。
その発言を聞き、無性にその柵とやらを自分の目で見て、会って、知っておきたい衝動に駆られたのだという。自分自身の柵でもないくせに、真っ先に思い至ったのが祖父だったというわけだ。要するに自分のルーツのひとつを確認したかったという事だな。
「確かめたからといって、なにがわかるということでもないけど」
などと、いっちょまえに大人びたことを漏らしやがった。……この思考回路は俺にはない。明らかに凛々子の血を引いているな。
「お爺ちゃん、お父さんを見てちゃんとわかってた? 息子だって」
柔道が無邪気に聞いてくる。こうして施設に足を運んだ以上、祖父と対面するのは至極当然と信じて疑いもしていないのだろう。世の中、王道でコトが運ぶばかりとは限らないんだよ。
「……どうだろうな。わからなくても、どうでもいいけどな」
「え? まさか会ってないの?」
勘づいた柔道は驚き、俺を非難するように問い詰めてきた。
「ここまで来ておいて、なんで? ホームにも入ったんなら、会ってもよかったんじゃ……」
「ジュドー」
凛々子が興奮気味の柔道を低く窘めた。柔道が何に刺激されたのかわからんが、何十年ぶりかに祖父に再会したと思っていた俺に何かを期待していたのかもしれない。そんな柔道には、「今じゃない」とだけ答えておいた。
3、忘却のツケ
わが家へ到着したころには19時を回っていた。一緒に夕食を食べようと誘ったのだが、凛々子は用事を中断してきたからといって家に着くなり、早々に帰って行った。思ったより柔道が元気で、精神状態も安定しているように見えるから安心したのだろう。柔道はそんな母親をつまらなさそうな目つきで見送っていた。
「おまえ、最近お母さんと喧嘩でもしたのか?」
「してないよ、ケンカなんて」
いい機会だから、夏あたりからずっと気になっていたことをズバリと聞いてみる、と即座に否定してきた。
「そうか? その割には、おまえのお母さんへの当りがきついな」
俺の指摘に、柔道は少し口をへの字に曲げる。そして怒ったような口調で言った。
「あの人、オレに関心がないんだよ、もう」
「関心? 何言ってんだ、おまえ」
いきなりどうしたんだ、こいつは。関心ってなんだよ。恋人同士でもあるまいし、親子の間柄で感心って一体……。
「オレとお父さんの家族以外で他に大切な人ができたんじゃないのかな。
そんな気がする」
「まさか。そんなわけあるかよ」
反射的に否定しておいて、笑いが途中で凍りつく。そんなわけあるよ、充分。あれだけ美人で金もあって社会的に成功もしているとなれば、周りが放っておかない。今までいなかったことがおかしいくらいなんだ。
「もうここずっとあっちの家へ行けてないし。きっとデザイン事務所の誰かなんだよ。扇谷さんとか」
扇谷充。凛々子と同じインテリアデザイナーでもあり、一級建築士免許も持っている40歳のイケメン野郎の顔が目に浮かんだ。凛々子の大学の後輩で、アメリカ帰りの奴は凛々子と一緒に合同会社を立ち上げたのだ。それに事務所の誰かといっても、扇谷しかいなんだよ。
「まあ、それはお母さんの自由だからな。誰と付き合おうが、結婚しようが。だからといって、おまえをないがしろにしてるって怒るのは違うぞ。
今日だって、あんなにおまえのことを心配して探し回ってただろう。どうでもいいと思っていたら俺に全部任せて、一緒に帯広にまで行ったりなんかしない。そう思わないか?」
「それはそうだけど……」
「あんまり気になるなら直接聞いてみろよ。そういうの邪推っていうんだぞ」
通り一遍、柔道を諭しながら自分を落ち着けていた。そういう俺自身も、すっかり邪推の思考にはまってしまっている。柔道のひと言に不意打ちを食らって、それまで逃げていた可能性に向き合わされた。
俺は何でもないふりを装いながら、まだ面白くない顔をしている柔道を手伝わせて夕食の支度をした。帰り道に買ってきたとんかつチェーン店のデリバリーが今日の晩飯だ。久しぶりに柔道と顔を見て、会話をしながら食事をする。父と息子の心の触れ合いは楽しくもあったが、柔道の発言のお陰で、また妄想と雑念に頭が支配される。加勢からのメールを確認するのが更に後回しになっていった。
20時半近くになり、いよいよまずいと危険信号が頭の中で鳴った。ひと晩と半日も相場から離れていたのは非常にまずかったとわかっていたが、俺はあえてそこから目を逸らしていた。ほんのちょっとの期間だ。たった一日くらい相場を監視していなくても大丈夫だろうと高を括っていた。なんせ、俺の資産はかなりの額まで膨れ上がっているのだから。
ランドリールームで洗濯機を操作しながらスマホをようやく手に取った。まだ家事が終わらない。この分じゃ、手が空くのがいつになるかもわからないので、とりあえずスマホでながら作業をしようと思った。
すこしビクつきながら、LINE通知を開く。目に飛び込んできたのは、加瀬からの『日銀の為替介入あるかもという話、本当かも! ある情報筋から』の一文。日付は昨日の17時半。ちょうど凛々子や学校とやり取りしていたり、家事をしていた頃だ。ドクッと鼓動が大きく音を立てた。
『急激な円乱降下でひと晩振り回されちゃいました! でも予想通りだったからギリギリセーフww 持つべきものは情報筋、大感謝』
次は翌3時33分。洗濯物を放り投げ、仕事部屋へ走った。
『大丈夫っすか? 亘さんはもちろん乗り切りましたよね?』
『仕事忙しそうですね』
今日の午後のLINE。PCに飛びつき、すぐに起動をかける。次々と立ち上がる2台のモニターを確認し、血の気が音を立てて引くのが聞こえた。血が凍る思いとはこのことか。俺のFXにつぎ込んだ資産が半分以上無くなってしまっている。絶叫しかけたが、狼狽えるより先に、まずストップをかけなければ。さばかなければ、もっと損失がでかくなる。負債を抱えてしまうことになる。冷たくなって痺れた頭で繰り返し自分に言い聞かせながら、いつも繰り返している操作と手続きをした。その間、指が震えて何度もキーボードを打ち間違い、必要以上に時間がかかった。
目の玉が飛び出る昨夜の損失額。0が一桁多くないか? レバレッジをかけすぎたせいだ。損切りの設定もしていなかった。なにもかも、欲をかいた。証拠金はかろうじて残ってはいる。18.000.000万円、投資していた8割以上を一日半で失ってしまった。
なすべき緊急処置をすべて終えた後、もう何も冷静に考えられなくなってしまった。無念。ただ無念の二文字だけがこびりついている。後悔はしてはいけない。それをしてしまうと、昨日から起こった出来事に対する、つまり息子たちに対する恨みつらみとなってしまう。それだけは戒めとすべきだ。そう、呪文のように自分に言い聞かせた。
吾郎よ、その考え自体が責任転嫁だぞ。その通りだ。根拠のない短絡的な予想に逃げて、できたはずの対処をしなかったのは俺自身だ。誰のせいでもない。為替は常に見張っていなければならない。高額投資をしているのならなおさらだ。一日どころか、ひと晩目を離すのは非常に危険だと理解しているからこそ、仕事に支障をきたすほど連日明け方近くまで操作をしていたのだ。それを一度の自分の怠慢のせいで、築き上げた資産の大半を失った。
これではあいつと同じだ。あんなに忌み嫌ったあのろくでなしと。ああはなるまいと心に誓った親父と同じ穴のムジナだろうが!
エコモードで暗くなったモニターに、鬼のような形相の自分の顔が映っていた。
~次作、「工程6 地力」 へつづく
