見出し画像

私の日本での奮闘史③―異文化を、はじめて飲み込んだ夜


「人は、人生で何度か
世界が一変する瞬間に立ち会う」
それが、私にとっては
1991年3月31日だった。

その日、私は車で迎えられた。
成田国際空港から、これから生活する場所――赤羽へ。

都内の高速道路に差し掛かると、車窓の外には息をのむような夜景が広がっていました。


両側に立ち並ぶ高層ビル、そのビルの窓からこぼれ出す万の灯火。点滅しつつネオンライト。

高速道路では、車の流れが光の川となって蜿蜿と続いていました。

田舎で生まれ育った私にとって、
それは今まで一度も見たことのない風景だった。

「ここが、日本なのか」

胸の奥で、
驚きと高揚と、少しの不安が
静かに入り混じっていくのを感じていた。

車が赤羽へ向かう途中、
不思議な光景が何度か目に入った。

「湯」


大きな一文字が染め抜かれたのれん。

私はそれを見て、心の中で首をかしげた。
「スープだけを飲む店なのだろうか?」

中国語で「湯」は、スープを意味する。

だから私は本気で、
「日本には、スープ専門店があるのだ」と思っていたのだ。

後になって、それが銭湯だと知り、
一人でくすっと笑った。

異国に来たのだ、
そう実感させられた、最初の小さな出来事だった。

その日から暮らすことになるアパートは、2階建ての古い建物だった。外観は黒っぽく、年季の入った佇まい。大家さんは2階に住み、私と、ほかの2人が1階に住む。

1階には、4.5畳と6畳の部屋があり、通路に簡易的なキッチン、その奥には、古い沸かし式のお風呂。私は4.5畳の部屋に一人。

部屋の中には、シングル用のマットレス、小さなテーブル、洋服タンス。決して広くはない。けれど、必要なものは揃っていた。

「ここが、私の居場所になる」

そう思えただけで、不思議と満足感があった。

その日の夕飯は、思いがけず豪華だった。とりわけ頭に残ったのは、舟型の器に盛られた刺し身の盛り合わせだった。

けれど私は、いきなりの“生もの”を前に、箸が止まった。

正直に言えば、食べるのを拒みたかった。

すると、中国人の友人が言った。「せっかくの贈り物だから、食べないと失礼になるよ」

その言葉に背中を押され、私は象徴的に一枚だけ、口に運んだ。息を止めるように、必死で噛み、飲み込んだ。

喉を通った瞬間、胸が少し苦しくなった。
けれどそれは、異文化を“飲み込んだ”最初の感覚だったのかもしれない。

こうして私の日本での生活は、驚きと勘違いと、小さな覚悟の積み重ねとして静かに始まった。

まだこの先に何が待っているのか、そのときの私は、まったく知らなかった。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
スキやフォローは、とても励みになります。どうぞよろしくお願いします。

いいなと思ったら応援しよう!