暗黒の高校三年間――劣等感も優越感も、人を不自由にする

学校が、自分の居場所ではなかった
私は子どもの頃から『サザエさん』を観ていなかったので、いわゆる「サザエさん症候群」というものはありませんでした。それでも、日曜の夕方は嫌いでした。翌日からまた学校が始まると思うと、気持ちが重くなったからです。
振り返ってみると、高校の三年間は、私の人生の中でもかなり暗い時代でした。
一番の理由は、学校が自分の居場所ではなかったことです。
中学二、三年生の頃から、私は学校の勉強にほとんど興味を持てなくなっていました。その一方で、関心は海外、とりわけアメリカやイギリスへ向かっていました。
なぜか分かりませんが、日本という国が自分の居場所ではないような気がしていたのです。
もちろん、だからといって何か具体的な行動ができたわけではありません。秀でた能力もないし、努力家でもありませんでした。日本を飛び出して海外で生きるために何をすればよいのかも、全く分かっていませんでした。
とりあえず、自分で英語を身につけようとしていました。
アメリカ人女性から英会話を習いました。中西部出身の五十代くらいの主婦で、ご主人が日本人で、京都大学の先生をされていました。
この英会話がどれほど役に立ったかは分かりません。しかし、私にとっては、生まれて初めての「本物の英語」との出会いでした。
教室の外に、私の世界があった
また、『セサミストリート』を観たり、映画で英語を学ぶ月刊誌を読んだりもしました。時には授業をさぼって、それらを眺めていた記憶があります。
音楽にも夢中になっていました。
ギターもハーモニカも上手にはなりませんでした。今から思えば、私の周囲にロールモデルも師匠もいなかったからかもしれません。
それでもバンド活動は続けていました。
ただし、ロックやブルースではなく、友人のバンジョーを中心としたブルーグラスやカントリー音楽でした。友人たちは腕が立ったので、高校生にしては珍しく学園祭を回って演奏していました。私は得意な楽器がなかったので、フィドルやマンドリンを持たされていました。
同じバンドで高校の学園祭でレッド・ツェッペリンを演奏したこともあります。しかし、今でも夢に出てくるほどボロボロのステージでした。
学校の勉強はほとんどしませんでした。成績は下がる一方でした。学校とも教師とも距離ができていきました。
昭和四十年代の高校という息苦しさ
当時はまだ共通一次試験もセンター試験もありません。
昭和四十年代の大阪の府立高校は、今以上に管理主義と詰め込み教育の時代でした。「みんなと同じであること」が重視され、個性はどちらかというと邪魔者扱いされる時代だったように思います。
その中でも、私の高校は当時としては破格に自由な校風でしたが、それでも周囲の価値観になじめない人間にとって、教室という場所は案外息苦しいものでした。
私にとっても、まさにそうでした。
もちろん、真面目な生徒ではありませんでした。授業をさぼって上六でパチンコをしていたところを、一番苦手だった体育教師に見つかり、三日間の停学処分になったこともあります。
また、高校一年の最初の数学の授業で、若い女性教師が高揚して、「国旗国歌なんてない」「君が代なんてろくでもない天皇崇拝の歌だ」と話したことも、なぜか今でも記憶に残っています。
当時の私は、その内容に賛成したわけでも反対したわけでもありません。ただ、大人というものは、こういうことを平気で生徒の前で語るのだという違和感だけは覚えています。
大阪の街が、もう一つの学校だった
高校の最寄り駅は近鉄上本町や鶴橋で、大阪ミナミにも近い場所でした。
学校にはなじめませんでしたが、当時の大阪の街は好きでした。
ライブハウスへ行き、音楽喫茶へ通い、映画館を巡りました。加川良のライブを観にも行きました。ヤクザ映画も怪しい映画もずいぶん観ました。
本はあまり読んでいませんでしたが、横溝正史や松本清張の推理小説には夢中になりました。
学校の外の世界のほうが、よほど面白かったのです。
今から振り返ると、私にとっての学びは、教室の中よりも、大阪の街のほうにありました。音楽も、映画も、本も、後になって振り返れば、すべてが私を形づくる小さな邂逅だったのだと思います。
優越感も劣等感も、人を不自由にする
高校時代には、後に東京地検特捜部で全国的に有名になる検事も同級生にいました。
おそらく彼は、当時の私を軽蔑していたと思います。成績も悪く、学校になじめない変わった生徒でしたから。ほとんど口はききませんでした。
しかし、一方で私は、どこか彼を憐れんでもいました。あまりにも優等生で、あまりにも面白みのない奴だったからです。背が高くて長髪で、バスケットボールの選手でした。
彼は立派な経歴を築きましたが、五十代で早世しました。
人生とは、分からないものです。
高校三年間は、私にとって決して楽しい時代ではありませんでした。
しかし、一つだけ学んだことがあります。
それは、人間は劣等感も優越感も持たないほうがいい、ということです。
私は中学時代、ろくでもない生徒でしたが、成績だけはよかった。だから、劣等感よりも、むしろ鼻持ちならない優越感を持っていました。
ところが高校に入ると、成績は一気に低迷します。一年生の最初の中間試験の順位から、卒業するまで一度も上がりませんでした。
優越感は簡単に消え去りました。そして今度は、自分は駄目な人間なのではないかという劣等感に苦しむことになります。
しかし、アラ古希になって思うのです。
優越感も劣等感も、結局は同じものではないか、と。
どちらも、自分を他人との比較の中に閉じ込めてしまう。人を不自由にするのです。
自分が育つ環境は、自分で見つけるしかない
高校三年間は、人生七十年余りのうちの、わずか四パーセントにすぎません。その時期がつまらなかったからといって、人生全体の価値が決まるわけではありません。
大学に入っても私は相変わらずで、バンド活動ばかりして留年もし、中退を考えたこともありました。音楽も中途半端でした。
けれども、その後、短期間ではありましたがアメリカへ遊学したことが、大きな転機になりました。
「いつか必ずアメリカで暮らし、働いてみよう。」
そう思いました。
そして、その夢は十年後に実現しました。
高校生の諸君に何か言えるとすれば、
「君が今いる場所は、人生のすべてではない。」
そしてもう一つ。
「人と比べて自分を大きく見せようとも、小さく見積もろうともするな。Just the way you are。」
人間に本当に必要なのは、自分の居場所となる環境を整えることなのだと思います。
環境とは、単なる場所ではありません。
そこで出会う人であり、本であり、音楽であり、映画であり、時には一台のギターであり、一冊の時代小説でもあります。
そうしたさまざまな邂逅が、人を少しずつつくっていくのだと思います。
私の場合、それは高校の教室の中にはありませんでした。大阪の街にあり、ライブハウスにあり、映画館にあり、そして遠いアメリカという国への強い憧れの中にありました。
後になって振り返れば、高校時代の暗黒の三年間も、決して無駄ではありませんでした。
学校になじめなかったからこそ、自分が生きられる場所を必死に探し続けたのです。
人は環境によって変わります。
しかし、その環境は誰かが与えてくれるものではありません。
自分で見つけ、自分で飛び込み、そこで踏ん張る。
人間の成長とは、案外そんなことなのかもしれません。
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