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幕末から明治を生きた「立派な日本人」――柴五郎・岡倉天心・石光真清に学ぶこと

茨城五浦海岸の六角堂(津波で流される前)

幕末から明治にかけての日本には、いま振り返ると「立派な日本人」と呼ぶしかない人たちがいました。

政治家でいえば 伊藤博文、思想家・教育者でいえば 福沢諭吉、そして軍人や知識人では 柴五郎、岡倉天心、石光真清 がその代表でしょう。

この人たちは、単に「偉かった人」ではありません。時代の大きな変化の中で、自分の頭で考え、自分の責任で決断し、自分の背中で生きた人たちです。

私は、こういう人たちを見るたびに、現代の日本人に最も欠けているもの――主体性、インテグリティ、そして責任感――を考えさせられます。

その中でも、ここでは柴五郎、岡倉天心、石光真清の三人をひとつのグループとして見てみたいと思います。

岡倉天心――「亜細亜は一つなり」と言った人

岡倉天心 は、「亜細亜は一つなり」という言葉で知られています。

しかし彼の本質は、単なるスローガンではありません。日本美術、東洋美術の価値を、西欧に対して堂々と英語で語ったことにあります。著書『茶の本』はその象徴です。

明治36年には Museum of Fine Arts, Boston(ボストン美術館)の顧問として迎えられました。彼は芸術家であると同時に、人材育成者であり、プロデューサーでもありました。私は、こういう「インキュベーター」としての天心を非常に尊敬しています。

2009年8月末にNYを引き払い帰国してすぐ、私は茨城県北端の 五浦海岸 を訪ねました。

ここは、アメリカ、ヨーロッパ、インド、中国、朝鮮半島を見てきた天心が、「世界中で一番美しい」と言った場所です。ここに自宅を建て、六角堂 を作り、晩年を過ごしました(六角堂は東日本大震災で波に流されましたが、今は再建されています)。

世界を知った人が、最後にたどり着いた場所が五浦だったのです。

そして、岡倉天心らしい有名な逸話があります。

明治36年、天心は弟子の横山大観らを伴って渡米し、羽織袴のままボストンの街を歩いていました。その時、若いアメリカ人から冷やかし半分にこう声をかけられました。

「おまえたちは何ニーズだ? チャイニーズか、ジャパニーズか、それともジャワニーズか?」

それに対して天心は、流暢な英語でこう言い返しました。

「我々は日本の紳士だ。あんたこそ何キーだ? ヤンキーか? ドンキーか? それともモンキーか?」

この気骨がいいのです。

西洋に迎合せず、しかし英語で堂々と渡り合う。日本人としての誇りを失わない。

幼少期から横浜で英語に囲まれ、同時に寺で『論語』『孟子』を叩き込まれた。西洋と東洋の両方を知ったからこそ、彼は日本人としての軸を失わなかったのでしょう。

そして、その軸を最後まで引き受けた。日本の美を守る責任を、自分の仕事として背負った人でした。

石光真清――孤独な情報戦を生きた男

石光真清 は、明治元年、熊本に生まれました。

少年時代を神風連、西南戦争の空気の中で過ごし、陸軍中尉として日清戦争に従軍し、台湾でも実戦を経験しました。その後、ロシア研究のため留学し、特務を帯びて満洲を駆け巡り、さらにロシア革命後にはシベリアで諜報活動を行いました。

まさに、日本のインテリジェンス(スパイ)の先駆者です。

『石光真清の手記』(中公文庫・全4巻)は、本当に凄い手記です。

三島由紀夫が強く共感していた神風連から西南戦争の頃の日本の様子、日清戦争と日露戦争の間の緊張、そしてロシア革命後の満洲・シベリア・アムール川周辺を舞台にした国際情勢――そこには、ロシア人、中国人、朝鮮人、そして日本人の複雑な勢力関係が、驚くほど生々しく描かれています。

それがなぜ凄いのか。

それは、歴史小説ではないからです。

石光真清という一人の人間が、自らその場にいて、命をかけて見た現実だからです。直接体験した真実だからこそ、時代の空気がそのまま伝わってくる。

だから私は、日本人なら『坂の上の雲』だけでなく、『石光真清の手記』を読むべきだと思っています。なお、石光は少年時代に柴五郎の家に下宿していました。この縁もまた面白いところです。

彼は、国家の未来という見えにくいものに対して責任を負った人でした。誰にも褒められず、表舞台にも立たず、それでも自分の任務をやり抜いた。その孤独にこそ、本物の責任感があります。

柴五郎――日本人最初のグローバル・リーダー

柴五郎 を知っている日本人は、いったいどれくらいいるでしょうか。

私は、柴五郎こそ日本人最初の「グローバルで通用するリーダー」だったと思っています。

幕末から明治を生きた、有徳の人です。

会津藩士の家に生まれた柴は、戊辰戦争で官軍の攻撃を受け、母も祖母も自刃しました。城が落ち、生き残った家族は津軽へ流され、凄惨な生活を強いられました。

まだ十歳でした。

この地獄を見た少年が、その後、陸軍幼年学校から士官学校へ進み、ついには陸軍大将になります。

人間の極限を見た人は、人間を知る。

柴五郎のリーダーシップの原点は、この会津での実体験にあったのだと思います。

特に有名なのは、1900年の義和団事件(北京籠城戦)です。

各国軍の寄り合い所帯で意思疎通も難しい中、柴五郎は総指揮をとり、抜群の統率力を発揮しました。

事態収拾後、日本人からだけでなく欧米人からも、そのリーダーシップに賛辞が寄せられました。柴は、英語、フランス語、そして中国語にも堪能だったそうです。

国際社会の中で、日本人として信頼される。

これは簡単なことではありません。
しかし柴五郎は、それをやってのけた。

だから私は、彼を「日本人最初のグローバル・リーダー」だと思うのです。

彼の遺書『ある明治人の記録』(中公新書)には、その華々しい活躍よりも、苦労して士官学校に上がるまでが書かれています。

そこに私は、この人の本質を見る気がします。
苦労した人は、簡単に自分を誇らない。

それが本物の品格だと思います。

そして柴五郎の最大の凄みは、「最後に自分が引き受ける」という責任感だったと思います。極限状態の北京で、判断を避けず、人命を守るために決断した。その責任を他人に押し付けなかったからこそ、世界から信頼されたのです。

三人の共通点――主体性・インテグリティ・責任感

この三人を貫く最大の共通点は、福沢諭吉 の言う「独立自尊」だと思います。それは単なる自立ではありません。

主体性、インテグリティ、責任感――この三つを持って、一人の人間として立つことです。

まず、自分で考え、自分で決める。
これが主体性です。

次に、損得ではなく、何が正しいかを判断する。
これがインテグリティです。

そして最後に、その決断の結果を自分で引き受ける。
これが責任感です。

責任を取らない主体性は、ただのわがままです。
インテグリティのない責任感は、単なる自己犠牲です。

この三つが揃って初めて、本物の人格になる。

柴五郎は「人道」を、石光真清は「国家の未来」を、岡倉天心は「日本の美」を、それぞれ自分の責任として背負いました。

しかも三人とも、「境界線の外」を見ています。
中国、ロシア、アメリカ、ヨーロッパ。

日本という村の外の、厳しい現実を知っていた。
だから、安易な排外主義にも、逆に盲目的な西洋崇拝にも陥らなかった。

岡倉天心が『茶の本』で東洋の美を語ったように、彼らは「日本の核」を守りながら、世界と向き合っていました。

これは、伊藤博文や福沢諭吉にも通じるものです。

若き日に命がけで海外を見た人間だけが、本当の意味で日本を設計できたのです。

三鷹の隠居として思うこと

現代の日本では、「主体性」が空洞化しているように見えます。
教育も企業も、「正解を当てること」に偏りすぎています。
前例、空気、上司の顔色。

その境界線の中でだけ生きる人が増えた。
そしてもっと深刻なのは、誰も責任を取らなくなったことです。

会議ばかり増える。
確認ばかり増える。
誰も決めない。
誰も最後に引き受けない。

結果として、国も企業も、ゆっくり空洞化していく。

しかし、AIがHow(実務)をどんどん代替していく時代に、本当に必要なのは、HowではなくWhyです。

なぜやるのか。
何を守るのか。
何を捨てるのか。

それを自分で決め、その結果を自分で引き受けられる人間だけが、最後に残る。

柴五郎、岡倉天心、石光真清。
彼らは、その答えを背中で示した人たちです。

明治という時代の凄みとは、こういう人間が本当に存在していたことなのだと思います。

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