出て行くべきは、誰なのか――「雪女」伝説を再構築する『氷血』
*本稿は結末を含む内容に触れております。
「子どもがいるから命は取らない。しかし、子どもが酷い目に遭ったらおまえを許さない」――映画の冒頭、悠希が幼い息子・晶に読み聞かせる絵本『雪女』の結末。この古い怪談の掟こそ、本作『氷血』の底に流れる絶対的な「契約」である。
猛吹雪の雪国を舞台にした本作は、一見すると、閉鎖的な環境に嫁いだヒロイン・悠希が、認知症の義父・茂と、徐々に壊れていく夫・稔に追い詰められていくサイコスリラーである。彼らの家の玄関は、太い鎖と南京錠で「内側から」閉ざされる。徘徊癖のある茂が勝手に出ていかないようにする優しいケアのようでいて、家のなかに何世代にもわたって掛けられてきた、目に見えない「鎖」の象徴でもある。そして、その鎖は二本ある。
一本は、男たちを繋ぐ鎖だ。夫の稔は父・茂に虐待されて育った。彼は「あんな父親にはなるまい」と良き父を演じようとするが、ふとした瞬間に暴力のフラッシュバックに襲われ、次第に妻や子への支配を強めていく。その変質は、彼の言葉そのものにあらわれる。穏やかな夫の顔を見せるとき、稔は標準語で話す。だが妻を罵り、牙を剥くとき、口からこぼれるのはこの地の言葉――父たちから、土地から、代々受け継がれた言葉だ。標準語は彼が必死に演じる「新しい自分」であり、土地の言葉は、その下から噴き出す血の継承である。終盤、稔のなかで演技と本性を隔てていた境目はついに消える。彼は自らの被害体験(殴られ、打ち捨てられた子どもであること)を免罪符のように振りかざす。被害が抵抗ではなく、加害の永続的な根拠へと変質した存在――本稿ではこれを〈ヴィクティム・キラー〉(犠牲者であり加害者)と呼びたい――としての姿を露わにするのだ。「俺はこんなに傷ついているのに」と泣き崩れたかと思えば、次の瞬間には妻の顔を狂ったように蹴りつける。彼が受け継いだ暴力は、確実に次の世代である晶へと向かおうとしている。
鎖のもう一本は、女たちを「イエ」に縛りつける。稔の家には、消えていった女たちの痕跡が不気味な形で残されている。稔の母をはじめ、彼女たちの顔はある瞬間に至るまで、はっきりとは分からない。大人しそうで優しげな、黒くて長い髪の女性の姿としてくり返し立ちあらわれるばかりだ。悠希はこの長い系譜に加えられたひとりにすぎない。近所の人々が集まる場で、稔は息子を名前で紹介しながら、妻のことは「嫁」としか呼ばない。彼女は、この地縁社会のなかで固有の名前を持つことすら許されないのだ。介護のために戻ってきた彼女を人々は「嫁の鑑」と称え、夫は平然と「嫁の代わりならまだいる」と吐き捨てる。この家は、世代ごとに女を消費し、すり潰し、顔と名を奪って「嫁」という交換可能なパーツに変えていくシステムなのだ。男は暴力を継承し、女は名を消されて補充される。
本作がJホラーとしての矜持を示しているのは、キャロル・J・クローヴァーが論じた「ファイナル・ガール」の命題を、東の果てで更新している点だ(先に稔を〈ヴィクティム・キラー〉と呼んだのは、クローヴァーが反撃に転じる犠牲者を〈ヴィクティム・ヒーロー〉と名づけたことの、私なりの裏返しだ)。従来のホラー、とくに殺人鬼と対峙するスラッシャーが「彼女は生き延びられるか、凶器を奪い返せるか」という個人の生存を問うていたのに対し、本作の問いの中心は「個人」から「血筋」へと移っている。家父長制の暴力の連鎖を、いかにして断ち切るか。
決定的な瞬間は、暴走した稔に対し、幼い息子の晶が背後から手斧を振り下ろす場面に訪れる。クローヴァーの論じた「奪い返された男根的凶器(斧)」を、本作では虐げられた女ではなく、次の鎖の輪になりかけた少年が、男の血筋を断つために振るうのである。そして悠希は血の繋がりのない晶を抱きしめ、「私が母だ」と宣言する。女を取り替え可能なものとする家父長制の論理への、決死の拒絶である。この場面に、一本の映画を思い出した。マチズモの蔓延する街を舞台に、少女の姿をしたヴァンパイアが「女を害する男」を静かに裁いていく、アナ・リリ・アミリプール監督『ザ・ヴァンパイア 残酷な牙を持つ少女』(2014)――世界のホラーは、同じ問いを共有しはじめているのではないだろうか。
ただし、この結末を手放しの希望(カタルシス)として受け取れるかは微妙なところだと思う。少年は父を斬ることで連鎖を断ったのか、それともついに斧を握り、血の味を知り、新たな暴力の輪へと足を踏み入れたのか。晶を救うこと自体が、次の連鎖の始まりかもしれないという不穏さは、真っ白な雪の上に黒々と残る。
時に貞子のような怪物の顔でコード化され、狂った母になりかけ、ラストでは無数に立つ白いドレスの雪女たちと重なり合う悠希の姿に、私はバーバラ・クリードが論じた「怪物的女性性」を想起した。悠希は虐待される側から脱して怪物化し、祓われるのではなく、この家で、この地で消費され消されてきた女たちの亡霊的な集積として、複数形で回帰するのだ。
「子どもが酷い目に遭ったら許さない」――冒頭の契約は、文字どおり履行される。晶を苦しめた稔は吹雪のなかで迷い、雪女の伝説のとおりにぐるぐると円を描きながら凍死し、無惨に散らばる。悠希を傷つけた呪いの言葉を二度と吐けぬよう、口に雪を詰められて。雪女は実在したのか。地元の老人が言うように「人は右か左に傾いているから、吹雪では勝手に円を描く」という合理的な死なのか。映画はその解釈を観客に委ねて幕を閉じる。
すべての惨劇が終わったあと、この土地そのものが、もう一人の登場人物だったことに気づく。30年ぶりの大雪に閉ざされ、一歩外へ出れば命を落とすこの地は、外から来た者を旧い秩序へと呑み戻す、抗いがたい引力を持っている。吹雪のなかで人が知らぬ間に同じ場所を回ってしまうという土地の理(ことわり)は、この家の呪いの姿そのものでもある。個の思惑というより、世代から世代へ、土地のしきたりとして、ただ受け継がれていくのだ。逃げ場のない家父長制の暴力と出口のない雪の閉塞とが、ここでは分かち難くひとつに凍りついている。
かつてお雪は、契約が破れたとき、子を置いてひとり雪へ消えた。悠希は違う。罰を下し終えたその手で、血の繋がらぬ我が子を抱き上げ、自らの意志で扉の外へ踏み出す。出て行く――それは今や、追放ではなく、選び取られた行為だ。お雪が手放したものを、彼女は抱いて出る。百年のあいだ女に出て行けと命じてきたこの物語は、その指のさす先を、ようやく取り違えに気づいて変えたのかもしれない。
【作品情報】
『氷血』
監督:内藤瑛亮/脚本:片桐絵梨子
2026年製作/98分/PG12/日本
配給:ショウゲート
劇場公開日:2026年7月3日
