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境目の木

夏の終わりが近づくころ、古い一軒家に引っ越した。
祖父が伯父の家に移ってからしばらく空き家になっていた家だ。
転勤が決まり、祖父の家から通えるとわかった私は、すぐ祖父に連絡を取った。

「おじいちゃん、あの家に私が住んでもいい?」

夏休みには、従兄弟たちと集まっていた家。
弟たちは、秘密基地だといって、裏山の木の上によく昇っていた。
従妹たちと庭で遊んだことを思い出した。

庭には樹齢を数え切れないほど古い木がすっくと立っていた。
もしかすると、この家ができる前からそこに居たような気さえしてくる。

引っ越し作業で疲れた夕方、由香は縁側でお茶を飲みながらその木を見上げていた。風が心地よい。

風が吹くたび、葉が囁くような音を立てる。
何百年もの間に吸い込んだ空気が、葉の間から吐き出されるような。
枝と幹からは、太古の森を思わせる苔の香りが漂っていた。

「まるで誰かが話しているみたい」

そう呟いた瞬間、木の根元で何かが動いた。由香は目を凝らした。
緑の影の中、小さな光が一瞬きらめいた。そんな気がした。

次の日から、由香は木の周りをよく観察するようになった。
夕暮れ時、木漏れ日が斜めに差し込むと、木の幹に不思議な模様が浮かび上がるのをみつけた。
何度か、それを見るうちに、それは扉のような形をしているように思い始めた。

ある夜、ふと目覚めた由香は、窓から庭を見た。
満月の光が庭を照らし、夕暮れ時に見る庭とは別の場所のようで、由香は迷子になっているような気さえした。

そのとき、庭の小さな灯りが見えた。
それは蛍のようでもあり、提灯のようでもあり、あの大きな木の根元でちらちらと光っていた。

思い切って庭に降り、静かに木に近づいた。そして、そっと声をかけてみる。

「こんばんは」

由香の声に反応するように、木の幹にある扉の模様が淡く光った。
そして、風のような小さな声が聞こえてきた。
「長い間、誰も話しかけてくれなかった」

由香は息を呑んだ。
「あなたは……」

「わたしたちは、この木と共に生きるもの。人の言葉を理解できる者は少なくなった」

由香は思わず、木に触れた。手のひらに触る樹皮は、ざらりとして、ほんのりと温かだった。

「今夜は特別な夜。境目が薄くなる時」
「だから、どうぞ。こちらの場所へ」

もうひとつの声が聞こえると同時に、幹の扉模様が淡く輝き、いつの間にか由香は緑の光に満ちた空間にいた。

小さな世界、木の皮と苔で作られた小さな建物、そして人間とも妖精ともつかない小さな存在たち。彼らの肌は木の葉のような緑色で、目は月の光を集めたように輝いていた。

「あなたの家族が、この木を守ってくれたことに感謝している」
「あなたのおじいさんは、子供の頃から私たちの声を聞いていたのよ。でも誰にも言わなかった。秘密を守ってくれた」

風のような声は続いた。
「これからも、このつながりを大切にしてほしい」

「ええ、約束しますとも」由香は頷いた。

ふと気がついたら、いつもの布団の中で目覚めた。朝だった。
体には木の香りが染みついていて、手のひらには樹皮に触れた感触がまだ残っているような気がした。

(昨夜の、あれは夢だったのだろうか)
夢うつつの感覚のまま、重い脚を動かし勝手口に向かう。そっと扉を開けると、靴の周りに漂う淡い光。
緑の砂粒が月の名残のように夜明けの中でまだ瞬いていた。

その夜以来、由香は庭の小さな住人たちのために、時々お茶とお菓子を木の根元に置くようになった。朝になると、それらは必ずなくなっている。

秋風が吹き始めた日、由香はあの木の根元に小さな手紙を見つけた。
それは葉っぱで作られていて、露の滴で言葉が書かれていた。

《 ありがとう、友よ 》

由香は微笑んだ。
都会の喧騒から離れたこの場所で、自分は思いがけない隣人たちと暮らしているのだ。

夕暮れ時、大きな木に寄りかかって本を読む由香の周りを、目に見えない小さな存在たちが静かに舞っていた。
時折、耳元で小さな笑い声が聞こえるような気がする。
頬をかすめる風は、誰かの息づかいのようにも感じられた。

別の世界とのつながりは、そっと日常に溶け込み、由香の新しい日常になっていった。


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