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短編小説 『逢瀬』 第三話(最終話)

 人類のおよそ半分が火星に移住したころ、私の父も火星行きのめどが立った。病気で体が弱っていた母が生きているうちは、地球の環境がどうなろうと火星には行かない、母のそばを離れない、と父は決めていた。そんな母が亡くなって周囲から強く説得されたこともあり、父は漸く重い腰を上げて火星行きの準備を始めたのだった。
「父さん、わたし地球に残ってもいい?」
母さんの四十九日を過ぎ、移住に伴う実家の整理を手伝いに行った際、私は父に恐る恐る尋ねた。
「……そうか」
父は作業の手を止めてぎゅっと目をつむり、ゆっくりと息を吸い、吐く。驚いているだろう。一緒に火星に来るように諭されるだろうか。
「なんとなく、そういわれるような気がしていたよ」
「え?」
そう言って寂しそうに微笑む父に呆気にとられる。
「お前のこと、誰が育てたと思っているんだ。意地になって母さんのそばを離れなかったこの父さんだぞ」
聡子は父さん似だな、とこちらを見ることなく冗談めかして零す。
「ほら、叔父さん叔母さんとかキョーコちゃんとか、俺の職場の人とかが必死に俺を火星に連れ出そうとしてただろ、でもお前は何も言わなかった。私は研究があるから、まあそのうちねなんて言ってさ」
そう、叔父さん叔母さん、いとこのキョーコちゃん一家の説得は、それはもう鬼気迫るものだった。私は研究を言い訳にしてその説得から何とか一時的に逃れたものの、この先も火星に移住するつもりがないことを伝えると彼らは卒倒してしまいそうだ。
「自分は移住しないつもりだから、自分のこと棚に上げて父さんのこと説得するなんてできなかったから、何も言わないでいてくれたんだろ?お陰で最期まで母さんのそばに、ここにいていいんだって思えたよ。ありがとうな、聡子」
「え、あ……いや、うん……」
宇宙船の衝撃や火星という異環境と、悪い方向にどんどんと変化していく地球。どちらが母の体に良いかなんて誰にも判断できなかった。何が正しかったかなんて誰もわからなかった。そんななかで母は、生まれ育った地に骨をうずめることを選んだ。父は母の選択を尊重した。
予想に反する言葉の数々に動揺し、言の葉をこねて、まるめて、それでも完成しない返事にやきもきしていると、少し目線をこちらに寄せた父が言葉を紡ぐ。
「本音を言えば火星に、より安全なところに一緒に行ってほしいよ」
「そ、う、なんだ……いや、そうだよね……」
動揺が口から溢れでたような間抜けさで相槌をうつ。
「でも、父さんは、父さんはな。父さんの選択を尊重してくれた聡子の選択も、尊重したい。本当に感謝しているんだよ、お前にそんなつもりがなかったとしてもね」
父は私の右手を両手で優しく包みながら、祈るようにして私に感謝を伝える。私は返事をするかわりに左手で重なった手を強く握り返した。
「それに、父さんみたいに老い先短い奴の意見なんか聞かなくてもいいんだよ。お前の人生の方が長いのだから。 聡子が納得できる、自分に責任を取れる決断をしてくれ」
たとえ父に否定されたとしても、ここで父と決別することになったとしても、私は地球に残るつもりだった。それほどの覚悟をもって伝えた。それなのに父はこんなにもやわらかくあたたかい。大気汚染で簡単に窓を開けることが出来なくなったこの場所で、人工的な風が肌を伝う。目が乾いて、視界が歪む。唇を強く噛み締めながら微笑んで皺の寄った父の目じりを見つめた。
「父さん、ありがとう」
「こちらこそありがとう、聡子。お前がどこに居ようと、父さんはお前のことを愛しているよ」
ああ、私はこのひとに、この人の与えてくれる愛情に対してどれほどのものを返すことができているだろうか。窓から差し込む太陽の光が足元をぬるく照らしている。父は私の冷え切った手のひらをさすって温める。いつだって与えられてばかりだ。
 私が地球居住願届を提出したのはその次の週のことだった。

 父と都合が合ったのは、火星に来てから2週間後のことだった。十一番地区政府管理集合住宅A四棟五〇七号室。携帯のメモと地図を頼りに春也くんの家からはるばるやってきた。インターホンを押すと、廊下に電子音が響く。パタパタとフローリングを歩く音が微かに扉の隙間から漏れた。
「いらっしゃい、おかえり聡子」
「久しぶり、父さん」
幾年ぶりに会った父は、以前より老け込んだように見えた。柔らかに微笑み細められた目、その横のしわが増えたせいだろうか。
「……元気だったか?」
「うん、まあそれなりに。父さんは?」
「うん、こっちもそれなりに。病気はしてないよ」
「そっか、良かった」
白髪も増えていて、初めて訪れる玄関にはもう新築の匂いではなく実家の匂いが満ちていて、会話のキャッチボールも思うように続かなくて、それら全て、この三年がしっかりと過ぎていたことを妙にはっきりと伝えてくる。
「久しぶりだな。いきなり連絡が来るからびっくりしたよ」
「ごめん、ちゃんと連絡した方がよかった?」
「そうしてくれたら、もっと早く会えたしもっとちゃんと迎えられたのに」
「特別なことなんてしなくていいよ。会えればそれで」
「そうは言ったってなあ……」
もごもごと小言を言う父を横目に流しながら室内を見渡す。実家より大分狭いリビングはこざっぱりとしていた。それでも奥の部屋には沢山の本が積まれ、所狭しと写真立てが並んでいる。母がいなくなってから、それらは大分乱雑に保管されるようになったらしい。
「父さん、これ貰ってもいい?」
そのうちのひとつ、シンプルな額に収まった家族写真を手に取る。母が亡くなる数年前に行った家族旅行の写真。車いすに座った母とそれを支える父さん、隣に立つ私。まだ晴れた空が青色だった頃の地球で撮った最後の写真。
「ああ、いいよ。新しくプリントアウトしようか?」
「いいや。これがいい」
旅行の直後から、百均で買ってきたこの額に住んでいる紙切れ。母はスクリーンで見る映像よりこの古臭いかたちを好んでいた。タブレットで読むテキストより文庫本を好む父はその習慣を自然に受け取り、現在のこの無秩序な部屋に至っている。
「そうか。持っていきなさい」
「ありがとう」
手に取ったそれを鞄の中にしまうと、部屋の中から探し出した文庫本をぽっかり空いたその居場所にそっと置いた。母が好きだった本。 

「地球には帰るのか」
「……どうしようかな。帰りたいとは、思っているんだけど。父さんはどう思う?」
「前も言っただろう、子どもの安全と健康を祈らない親なんていない。でもそれよりも、聡子が後悔しない決断をすることのほうが大切だろ?決断を下すのも、責任を取るのも聡子なんだから」
悩んでいるんだったら、相談くらいにはのってあげるよ。父は手元の包丁から目を離さず私に告げた。自分以外の人間に決断を依存してはいけないのだと、静かに諫められているような気がした。火星に帰ってもいいかと尋ねるのは、貴方を傷つけてもいいかと尋ねるのと同じだ。
「……料理、手伝おうか?」
「いや、大丈夫。父さん、もう一人でもご飯作れるようになったんだぞ」
ふふん、と誇らしげな顔をして父はキッチンに立っている。久々の父との夕食は、父の手作りだった。父は元来料理をしない人だったが、母の筆跡で記されたレシピノートを見ながら調理する父の姿ももう手慣れたものになっていた。カチャカチャと食器と菜箸がぶつかり合う音が響く。
二脚の椅子が向き合って並べられるほど広くはないダイニングには、真新しい二人掛けのソファとローテーブル。クッションを床に並べて、ローテーブルの上の新聞紙を畳んで、クッションの上に膝を抱えて座りながら父の運んでくる料理たちを待つ。
「さ、できたよ。食べようか」
トレーいっぱいの食器をテーブルに置き、どっこいしょ、と私の正面の床に座ろうとする父に、膝が良くないのだからソファで食べなよ、と促す。じゃあ二人でソファに、と返される。しぶしぶ立ち上がって父の隣の僅かなスペースに腰を下ろして手を合わせた。
「ありがとう、いただきます」
「うん、いただきます」
アサリの味噌汁と肉じゃが、柴漬け、白米、きんぴらごぼう。
「最近料理が楽しくてね。母さんのおかげだよ」
この柴漬けも、市販のじゃなくて自分で漬けたものなんだよ、だって。母のと同じ味がする肉じゃが。一人でも生きていけるようになってしまった父。父はちゃんと、母のいない生活に向き合っている。人生に誠実で、そして生きるのがとてもうまいひとだ。傷と共に生きることがうまいひと。
「おいしい」
「よかった、おかわりもあるからな」
「うん、ありがとう」
二人ソファに座っているから、表情を伺うことなく真正面を向いたまま二人で黙々と箸をすすめる。強く優しい父。私はこの人を傷つけることよりも、誠実に向き合えないことを恐れるべきではないのか。父だけではなく、他のみんなに対しても。ずっと帰る意思は固かったのに、誰に対してもいつまでもはぐらかしていた。ただ彼らを傷つけることを恐れていたからだった。それに気が付かないふりをしていたのは、自分と向き合うことを恐れていたから。でも、このままではダメなのだ。傷つけるのを恐れることは、相手の強さを疑うことと一緒なのかもしれない。
「と、父さん。わ、私、帰る。地球に、帰るよ!」
伝えなければ。思いが先行して先走った言葉はひどく不格好だった。でも、そもそも父に対して格好つけた言葉を紡ぐ必要もなかったのかもしれないな。だってどんなに不格好でも、いつだって父は真っすぐ受け止めてくれる。
「うん、そうか。わかったよ」
私の言葉を受けて深く一呼吸分置いた後、噛み締めるように父は深く頷く。突然箸をおいたと思うと、そうだ、渡したいものがあったんだった、と立ち上がった。
「地球にいる母さんに、宜しく伝えておいてくれるか」
そう言って父はキッチンの奥から持ってきた桃色の紙袋をわたしに手渡した。
「なにこれ?」
がさがさと音を立てながら紙袋の中身を物色する。見たことのない包みにくるまった直方体。
「蕎麦まんじゅうだよ」
「……なんで?」
母はあんずと味噌カツが好物だった。これは、見たことがない。再び私の隣に腰を下ろした父はきんぴらごぼうをつまみながら答える。
「母さん、それ好きだったんだよ。聡子が蕎麦アレルギーだからって家ではずっと食べてなかったけど」
「……知らなかった」
「そうだろうね」
ちらりと覗き見た父の顔は、温かい記憶を思い出すように、懐かしむように微笑んでいた。母がいなくても生きていけるけれど、母とこの人が共に生きた時間は消えない。目尻によったしわがなにより温かい。父さん、私、地球に帰るよ。

 「それじゃあ、お邪魔しました。ご飯美味しかったよ、ありがとうね」
「お邪魔、なんて他人行儀だな。いってきます、とかにしてくれないか」
「……うん、いってきます」
曖昧に微笑んで、学生の頃のような言葉を投げかける。
「いってらっしゃい、いつでも帰っておいで」
いつだって、帰ってきていいから。そう言って玄関扉に寄りかかりながら手を振る父に手を振り返して、団地の階段を降りていく。父は最後まで、私がどこへでも逃げることが出来るようにしてくれているのだ。
いってきます、と伝えたいと思った。私の帰る場所は地球だけれど、それでも。
 玄関を出た頃にはもうすっかり夕方になっていた。青い太陽が沈んで、街灯がシンメトリーに街道を照らした。異世界に迷い込んだみたいなこの光景は、きっともうわたし以外の人々の日常。等間隔に街路樹が植えられた通りには、買い物袋を抱えた老人、腕を組み何処かへ向かうカップル、何かを待っているサラリーマン……。この街の生活はここにあり、営みは絶えない。
ベビーカーを押す若い夫婦とすれ違う。そうか、この子はきっと火星生まれの子。ベビーカーの中で赤子は花を咲かせるようにキャッキャと笑う。あの赤子は火星生まれの新人類で、私は地球の亡霊。このさき全ての人間が火星生まれとなり、地球が古代の星として、歴史上の出来事として綴られる日が来てしまうのだ。私たちは今、時代の節目に立っている。
 青い夕暮れの中、蝉が鳴いている。取り残されているような気分だけど、それに何処か安心している自分がいることも確かだった。 

「春也くん、気をつけてね」
「うん。ありがとう」
人の多い国際線のゲート。火星都市ボレアリス設計計画は順調に進行し、彼は今日火星に移り住む。
「聡子さんは、いつこっちにくるの?」
「うーん、はは。どうだろう」
どうやって伝えるべきだろう、わたしがここに残ること。スマホを開けばすぐその中に、地球環境保全活動機関東京支部居住許可証がある。見せれば、もう一緒にはいられないのだと伝えることになるのだ。彼は何も知らず、地球を去ることを決めた。当たり前のように、わたしもついて行くと思っていた。ごめんね、わたしはここを離れない。ここで、考え続けなければいけない。わたしたちの愛する故郷のことを。
私の返答を聞き、隣を歩いていた春也くんが足を止めて私の顔を覗き込んだ。
「どうしたの、聡子さん」
長年一緒に居たからやはり気が付いてしまうのだろう。わたしが返答を濁した裏に、何か伝えるべきことを抱えているって。眉間に皺を寄せる彼。これは、心配している顔。
「ごめん春也くん」
「なにが?」
眉間のしわが一層強まる。心配かけてごめんね。
「わたし、火星には行かない」
「……は?」
火星行き025番線、ゲート入場時間は十時三十分までです。お乗りのお客様は、至急ゲートまでお越し下さい。アナウンスが響く。

 わたしが火星を訪れてからもう1ヶ月が経とうとしている。春也くんが送ってくれた航空券は、地球発火星行きの片道切符だった。本当に、ずるい人だな。わたしも大概小賢しい人間ではあるけれど。
そろそろわたしは火星に残る気がないということ、地球に帰るということを彼に伝えなければいけない。あの日父のもとで固めた決意を伝えなければならない。本当は、私達二人とも、曖昧にこの日々を過ごしているだけではいけないんだとわかっている。そういう意味では今日はきっと言葉を贈る日和だ。だって今日は、窓の外がこんなにも晴れている。明るい気持ちも暗い気持ちも全て、天気のせいにはさせられない。
もうずいぶんと住み慣れてしまった満月色のゲストルームを出て、端の部屋から順に春也くんの姿を探していく。五つ目の扉、その先のキッチンで彼の背中をみつけた。
「あ、聡子さん。今日は……」
「春也くん、わたしそろそろ地球に帰る」
彼の言葉を遮る。
なあん。静寂の中、このだだっ広い家で今まで一度もわたしの前に姿を現さなかった白ネコが鳴く声が、どこからか聞こえた。

「……ねえ、聡子さん。どうしても戻るの」
二人で使うには少し大きいダイニングテーブルのイスに隣り合って座り、彼の淹れてくれた暖かい紅茶を飲む。リビングの大きな窓からは晴れた星空がよく見える。あの小さな光が地球だろうか。こんなにも遠い、わたしたちの故郷。
「うん、わたしの故郷はここじゃない」
「ここで生きてれば、そのうち火星が故郷になるよ」
「そうかもしれない……。けど、ここに月は無いから」
ここにはあの日々に見上げた美しい色の、形の、愛おしい月はどこにもなく、歪な形のフォボスやダイモスがぽっかりと浮かんでいるだけだ。私が愛したあの日々は、ここには存在しない。
「ここで仕事して、ここで恋して、ここで家庭をもって、ここで老いていく未来は、考えられない?」
「うん、それも良いかもしれないけれど。でも……わたしはそれを選べない……選ばない」
隣にいる彼のほうを見つめる。紅茶のカップから目を離さない彼の、目を細めて口をきゅっと結ぶ顔。わたしは地球で老いていくことを選んだ。貴方を傷つけることを選んだ。ここに私の居場所はない。
「……いや、ごめん、解っているんだ。きっと、ここに残る未来も、故郷に帰る未来も。きっと、きっと聡子さんにとってどちらも間違いじゃ無い」
「そうだね。選ばなかった未来も愛おしいと感じられる日が、いつかは来て欲しいと思うよ」
彼は俯いていた顔を、わたしと目を合わせるようにして上げる。伝えようとしている彼の瞳を正面から受け止めて、深く息を吸い吐いた。
「それでも、聡子さんには穏やかに、健やかに生きて欲しいと思っているんだ。聡子さんの考えを否定したいわけじゃない」
そう言って、組んだ腕に顔をうずめて縮こまってしまった彼の頭をそっと撫でる。春也くんがわたしのことを大切にしてくれていること、わたしの選択がわたしのことをこんなにも大切にしてくれる春也くんを傷つけること、互いのことが大切なわたしたちはきっとわかり合えないこと、こうなる前からずっと解っていた。
「うん、わかってるよ。ごめんね」
春也くんはただひとえにわたしの幸せを願っている。だからこそわたしに火星で生きてほしいと思っていて、だからこそわたしの選択を尊重したいと思っていて、その狭間で苦しんでいる。傷つけてごめんね。わがままでごめんね。
「あやまらないで……」
鼻をすする音とくぐもった声が鼓膜を揺らした。こんなとき、どう返したらいいのだろう。わたしの決断を、受け入れる努力をしてくれている彼に。
「……ありがとう」
春也くんのもじゃもじゃ頭をもう一度ゆるりと撫でる。白ネコが足元をするりと通り抜けた。わたしは、泣くべきではない。

「 あ、月だ」
「え?どこどこ?」
「ほら、あそこ。あの白いマンションの斜め上」
「おお、本当だ」
煌々と輝く十五夜の満月の、くすんだ黄色が美しい。まだ火星移住計画なんて言葉すらなかった頃、私達はよく月を眺めながら帰路についていた。あの色が、見上げる時間が、なによりも愛おしかった。
「ついこの間も満月見た気がする」
「そうだね、どんどん時間が過ぎるのが早くなる」
「やだなあ、歳をとっているって感じがして」
人気のない道を歩く。歩道と車道の間のブロックを、バランスをとりながらつたう。少し後ろを歩く彼の声が聞こえる。
「でも聡子さん、月好きだよね」
「そうだね、大好きよ」
「なんで好きなの?」
「あの色が好き。日に日に形が変わっていくのも、面白いよね」
深い底無しの海のような空に、何処にいても存在を示してくれる月。
「たしかに、綺麗だよな。今度夜景でも見に行く?」
「何処にいても見られるから月がいいんじゃないの」
「そういうもの?」
「そういうものなの」
にひひと笑いかけると彼は口角を強張らせた。もうわかる、この顔は笑っている顔。

  黄色いキャリーケースをひいて歩く春也くんの少し後ろを歩く。せかせかと動く大きな革靴をぼんやりと眺めているとふいにその足が止まり、頭上から声が降ってきた。
「本当に帰るんだね」
「うん、帰るよ」
わたしの故郷に。帰るべき場所に。振り返った彼はわたしの右手を大事そうに両手で包んだ。少し冷えた手。
「体に気をつけて」
「うん」
「また手紙書くから」
「うん、気が向いたら返事書いてあげる」
「気が向いたらじゃなくて、ちゃんと返してよ」
「まあ、考えておく」
「ひどいなあ」
目元をくしゃりとさせた彼に笑いかける。面倒だけど、今まであなたがくれた手紙全部、取っておいてあるよ。これはすぐそこの墓場まで持っていく秘密だけれど。
「それから、あの部屋は、あのままにしておくから」
春也くんは目をつぶって、呟くようにそう言った。月に住んでいるような、あの柔らかな黄色の部屋。春也くんの優しさを余すことなく詰め込んだようなあの部屋。
「いや、それはいい」
彼の冷えた手をそっと離した。閉ざされていた目の前の瞼がパッと持ち上がり、口元がきゅっと引き締められた。わたしのもとから離れた手が迷子の子供のように宙をさまよう。
「あの部屋は、あのままじゃなくていい。家具も、全部新しいのに変えなよ。あの家にあの部屋は合わないから」
情けないわたし、きっとよりどころがあるだけで決意なんて簡単に揺らぐ。情けない彼、きっとわたしのために踏み込まない、伝えない。
「そっか……そっか。わかった。ありがとう、此処に来てくれて」
「いいえ、こちらこそ。一緒に過ごせて楽しかったよ」
甘えてごめんね、と言えないわたしをわたしは死ぬまで忘れてはいけないし、彼のために赦してはいけない。このおもさがわたしを地球でゆるゆると生かすのだろう。
「うん。またね」
「じゃあね。さよなら」
別れを告げる。もう二度と見ることは無いだろう彼の笑顔を、忘れないように目に焼き付ける。わたしは泣くべきではない。笑って手を振り搭乗ゲートを通り抜けた。彼はまだそこにいるのだろうか。それをわたしは、知らない。これから わたしはひとり、宇宙へ投げ出されるのだ。
 故郷へ、帰る。



最後まで読んでいただきありがとうございました。

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