【短編小説】泡の消えた後に 第一話「午後二時のシャンパン」
ホテルのカフェは、午後の光に満ちていた。
木のテーブルの上に、ありすのノートパソコンと、少し冷めたカフェラテが置かれている。
原稿はほとんど仕上がっていた。
会社を辞めてから、何度も迷った。収入も不安定で、周囲に心配もされた。それでも書くことを選んだのは、ほかに選びようがなかったからだ。
いま、こうして記事を書き終えようとしている自分を見ていると、ようやく人生の中に立てた気がした。
窓の外には、冬の終わりの森が静かに広がっている。
風に揺れる枝の影が、カップの縁に細く落ちていた。
時計を見ると、午後二時を少し過ぎている。
チェックインの時間だった。
ありすはスマートフォンを手に取り、さっき送ったメッセージを開いた。
「あなたと過ごす時間を楽しみにしてる」
短い一文。
送りながら、少し照れたのを覚えている。
既読は、まだついていなかった。
理由を考えないようにした。
飛行機かもしれない。電波が届かない場所にいるのかもしれない。
彼は、いつも風のように移動する人だった。
「チェックインのお時間ですが、いかがなさいますか?」
顔を上げると、スタッフが柔らかく微笑んでいた。
ありすは一瞬だけ言葉を探し、それから小さく頷いた。
「もう少し、待ちます」
その言葉を口にした瞬間、待つという行為が思ったよりも長い時間を含んでいることに気づいた。
ありすはカップを持ち上げ、残ったラテを飲み干した。
ぬるくなった甘さが、喉の奥に静かに残った。
フロントで鍵を受け取り、エレベーターに乗る。
鏡に映る自分の顔は、少しだけ期待に満ちていた。
ドアを開けた瞬間、柔らかな光が部屋の奥から差し込んできた。
大きな窓のカーテンが、午後の風にわずかに揺れている。
白い壁。
白いベッド。
まだ誰の気配もない、静かな空間。
荷物を置く音だけが、やけに大きく響いた。
窓際のテーブルに目を向けたとき、シャンパンが一本、氷の入ったバケットに立てられているのが見えた。
グラスは、二つ。
思わず小さく笑ってしまう。
こういうことをするのは、きっと彼だ。少しキザで、でも憎めない人だった。
ありすはスマートフォンを取り出した。
画面は、さっきと変わらないままだった。
「あなたと過ごす時間を楽しみにしてる」
その言葉の下に、既読はついていない。
カーテンがまた、静かに揺れた。
祝福のために用意された泡は、まだ開かれないまま、午後の光を受けて淡く光っている。
幸福は、手に入れた瞬間から過去になり始めるのだと、ありすはどこかで読んだ気がした。
その言葉を思い出しきれないまま、彼女はしばらく、光るボトルを見つめていた。
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ありすは、
スマートフォンを伏せて立ち上がった。
気づけば、
神楽坂までタクシーを走らせていた。
知らない店だった。
“Solitaire”
重い扉を開けると、
カウンターの奥で、
男が静かにグラスを磨いていた。
「1人でも大丈夫ですか?」
斑目は手を止めずに言った。
「もちろんです。」
