少しだけ自分のことを…|炭酸泉でキック先輩を思い出す|水を断つ減量と時代で変わる「プロの常識」|AI時代に残る「身体で読み取る力」
※お知らせ
毎度ですみませんが、相変わらず絶賛「スキ」制限中でありまする。
必ずやお伺いしますので、少々長い目で見てやってくださいませ。
今日も、いつもの炭酸温泉へ行ってきました。
今日も往復2時間、お風呂に4時間、計6時間の小旅行ですかねw
こちらの温浴施設では、その日によって色々なイベントが行われています。
サウナで熱波を送ってもらえる日があったり、変わり湯が用意されていたり、何らかのサービスが行われていたりします。
イベントがある日は、当然ながら人も多くなります。
しかし、今日は何もありません。
ノーイベントデーです。
つまり――
ヒマな日です(笑)
もちろん、施設の方には少々失礼な言い方かもしれません。
しかし、静かに温泉へ浸かりたい私にとっては、この「何もない日」が非常にありがたいのです。
イベントなし。
人も少なめ。
露天風呂も静か。
炭酸泉の中で手足を伸ばし、身体にまとわりつく小さな泡を眺めながら、何も考えずにボォ~~っとすることができます。
何もないというのは、何も得られないということではありません。
むしろ、何もないからこそ、遠い昔の記憶が浮かび上がってくることもあるようです。
今日は、そんな日でありました。
夏仕様になった温泉ループ
暑い季節になり、私の温泉での入り方も少し変わりました。
まず炭酸泉へ入ります。
身体が温まったところで、水風呂へ。
そこからサウナへ入り、再び水風呂。
そして、また炭酸泉へ戻ります。
炭酸泉→水風呂→サウナ→水風呂→炭酸泉。
途中に必ず水風呂を挟む、夏仕様のループです。
サウナだけに長く入るよりも、私の身体にはこの方が合っているようです。
炭酸泉でゆるみ、水風呂で引き締まり、サウナで温まり、もう一度水風呂で冷やし、最後に炭酸泉へ戻る。
温める。
冷やす。
また温める。
身体からすると、
「結局、どっちなんですか」
と聞きたくなるかもしれません(笑)
しかし、この温度差を行ったり来たりしていると、頭の中に溜まっていた余計なものも、少しずつ薄くなっていくような気がします。
今日も、そのループを繰り返していました。
サウナへ入り、しばらく汗を流します。
すると、いつも以上に強い喉の渇きを感じました。
これはいけません。
私はサウナから出ると、給水器の前へ向かいました。
そして、ゆっくりと水を飲みました。
冷たい水が喉を通り、身体の中へ落ちていきます。
いやぁ、水は美味しい。
サウナのあとに飲む水というのは、どうしてあれほど美味しいのでしょうか。
普段は何気なく飲んでいる水が、ご馳走のように感じられます。
その瞬間でした。
遠い昔の記憶から、一人の先輩が突然現れたのです。
私が中学3年生だった頃、高校3年生だった先輩(かれこれ40数年前になりますwww)。
今回は、その人を、
「キック先輩」
と呼ばせていただきます。
空手道場に一人だけいたキックボクサー
私が中学生の頃に通っていたのは、空手とキックボクシングの両方を教えている道場でした。
空手の練習生は、たくさんいました。
小学生もいれば、中学生もいます。
高校生も、大人の練習生もいました。
道場へ行けば、誰かが突きを打ち、誰かが蹴りを繰り返し、あちらこちらから掛け声が聞こえてきます。
なかなか賑やかな道場でした。
しかし、キックボクシングの練習生は一人しかいませんでした。
それが、キック先輩です。
基本的には先生とマンツーマンで練習をしていました。
とはいえ、先生は大勢いる空手の練習生も見なければなりません。
そのため、キック先輩が一人で黙々と練習している時間も、かなり長かったように思います。
サンドバッグを打つ。
縄跳びをする。
シャドーボクシングを繰り返す。
ミットを持ってもらえる時は先生と練習をする。
しかし先生が空手の指導へ戻れば、また一人で練習を続けます。
私たち空手組の横で、キック先輩だけが別の時間を生きているように見えました。
誰かとおしゃべりをしながら練習をするわけでもありません。
一人で、自分の目標へ向かっていました。
中学3年生の半ば頃だったでしょうか。
その先輩が、プロのキックボクサーを目指しているという話を耳にしました。
なるほど。
だから一人でも、あれほど黙々と練習していたのか。
そう思っていたところ、ある日、先生が空手の練習生に聞きました。
「誰か、キックボクシングに興味があるやつはいないか?」
私は手を挙げていません。
少なくとも、手を挙げた記憶はありません。
しかし、なぜか先生の視線がこちらを向きました。
そして、本人の承諾を得ることもなく、
「お前ね」
と指名されました。
白羽の矢が立ったと言えば、少し格好よく聞こえます。
実際には、逃げ道を塞がれただけです(笑)
こうして私は、キック先輩と一緒に練習することになりました。

週に2回だけその練習相手をしていました。
中学生には少々重すぎる練習
当然ながら、空手とキックボクシングは同じではありません。
構えも違います。
距離も違います。
パンチの使い方も違います。
蹴りの出し方も、受け方も違います。
そして何より、実際にパンチを打ち合うということに、空手とはまた別の怖さがありました。
先生から指名された以上、
「やっぱり興味ありません」
とも言いにくいものです。
キック先輩と一緒に、パンチや蹴りの練習を始めました。
もちろん、中学生だった私が、プロを目指している高校3年生のすべての練習相手になれるわけではありません。
体格も違います。
経験も違います。
目指している場所も違います。
私が相手をしたのは、週に2回ほど道場へ行った時だけでした。
それでも、なかなか大変でした。
キック先輩にとっては練習の一部でも、私にとっては十分に命懸けです。
こちらが必死になって構えていると、先輩は普通の顔でパンチを打ってきます。
おそらく、かなり加減をしてくれていたのでしょう。
しかし、中学生の私からすると、
「これで加減しているのですか」
という世界です(笑)
それでも、不思議と嫌ではありませんでした。
怖い。
痛い。
疲れる。
しかし、その向こうに、自分がそれまで知らなかった世界がありました。
プロを目指している人間が、どのような練習をするのか。
目標を持った人が、どのような目をしているのか。
私は、その一部を間近で見ることになったのです。
ニンニク一片と水だけの減量
プロとして試合へ出るためには、決められた体重まで落とさなければなりません。
キック先輩も、試合へ向けて減量をしていました。
その減量方法が、とにかく壮絶でした。
当時、先輩から聞いた話では、食事がニンニク一片と水だけという日さえあったそうです。
ニンニク一片。
そして、水。
以上です。
現在であれば、栄養や水分、体調管理を考えながら、計画的に体重を落としていく方法も色々と研究されています。
しかし当時は、
「食べなければ体重は落ちる」
「水を飲まなければ、さらに落ちる」
「苦しさに耐えてこそプロである」
という考え方が、かなり強かったように思います。
試合直前になっても体重が落ち切らなければ、最後は水を止めます。
水分を摂らず、その状態でサウナへ入ります。
もちろん、練習が休みになるわけではありません。
食べられない。
飲めない。
それでも走ります。
ミットを打ちます。
サンドバッグを叩きます。
スパーリングも行います。
減量だけでも大変なのに、そこへさらに激しい練習を重ねるのです。
荒行というより、もはや拷問です。
現在の感覚で見れば、
「それは危ないです」
となります。
しかし当時は、それがプロになるための正しい道だと考えられていました。
水を欲しがることも弱さ。
空腹を訴えることも弱さ。
身体の悲鳴に耐えることが根性。
苦しさを見せないことが強さ。
そのような価値観が、確かにあったのです。
水洗トイレの水を飲もうとした先輩
減量の最終日、キック先輩は喉の渇きに耐えられなくなったそうです。
しかし、水を飲めば体重が増えてしまいます。
飲みたい。
しかし飲めない。
身体は水を求めています。
頭では我慢しなければならないと思っています。
その二つが限界までぶつかり合った結果、先輩は水洗トイレの水を飲もうとしたそうです。
後になって、本人は笑い話のように話していました。
私たちも、
「さすがにトイレの水はまずいでしょう」
と笑いました。
しかし、中学生だった私には、その話が強烈に残りました。
人間は、そこまで水を欲しがるのか。
普段なら絶対に飲もうと思わない水でさえ、命をつなぐものに見えてしまう。
空腹には、ある程度耐えられるかもしれません。
しかし、水を失うと、身体だけではなく、考え方まで変わってしまうようです。
蛇口から水が出る。
冷蔵庫を開ければ飲み物がある。
コンビニへ行けば、いくらでも水が売っています(当時はありません)。
普段の生活では、水があることを当たり前だと思っています。
しかし、その当たり前がなくなった時、人間は初めて水の本当の価値を知るのかもしれません。
私が、
「何はなくとも、まず水を確保する」
という考えを持つようになったのは、このキック先輩の話が大きかったように思います。
山へ行くにしても。
災害に備えるにしても。
どこか知らない場所へ行くにしても。
まず水です。
食べ物よりも先に、水です。
中学生だった私は、キック先輩の減量を通して、人間にとって水がどれほど大切なのかを、教科書ではなく身体に近い場所で学んだのでした。
プロになっても、お金はもらえない
キック先輩は、厳しい練習と減量を乗り越え、プロテストに合格しました。
プロライセンスも取得しました。
そして、プロとしてリングへ上がりました。
初戦を戦い、2回戦も頑張って勝利しました。
プロテストに合格する。
ライセンスを取る。
リングへ上がる。
そして試合に勝つ。
ここまで聞けば、夢へ向かって順調に進んでいるように思えます。
しかし、試合後に待っていた現実は、なかなか厳しいものでした。
ファイトマネーがお金ではなかったのです。
渡されたのは、
次の試合のチケット。
そのチケットを自分で売り、その売上の一部が自分の取り分になります。
つまり、
「試合に出たので、お金をお支払いします」
ではありません。
「次も試合がありますので、このチケットを売ってください」
という世界です。
む~~ん。
プロとは何でしょうか。
一般的には、お金をもらって仕事をする人をプロと呼びます。
しかし、キック先輩はプロライセンスを持ち、プロのリングで試合をし、身体を張って戦っているにもかかわらず、お金ではなく次の試合のチケットを受け取っていました。
プロなのに、ファイトマネーが現金ではない。
プロなのに、自分でチケットを売らなければならない。
勝っても、生活できるわけではありません。
あれだけ苦しい減量を行い、激しい練習を続け、実際に殴られ、蹴られ、それでも受け取るものは次の試合のチケットです。
なかなか厳しい世界です。
当時は、プロレスなど一部を除き、日本では格闘技そのものが今ほど広く知られていませんでした。
昔のメディアと言えばTVにラジオ、週刊誌に新聞です。
今では選手個人がSNSでファンを集めることが出来ますが、昔はありません。
動画を配信、夢のようなことです(笑)
今であれば、試合以外にも色々な道があります。
YouTubeで練習風景を見せる。
SNSでファンを増やす。
オンラインで指導する。
スポンサーを募る。
自分の知識や経験を商品にする。
しかし当時は、そのような道具がほとんどありませんでした。
リングへ上がる。
チケットを売る。
試合に勝つ。
さらに上へ進む。
ほぼ、その一本道です。
キック先輩はプロになりました。
しかし、プロになった瞬間に、プロとして食べていくことの難しさも知ることになったのです。
時代によって「常識」は変わります
今振り返ると、キック先輩の減量も、ファイトマネーも、その時代の常識の中にありました。
水を止める。
サウナへ入る。
食べずに練習する。
苦しさに耐える。
チケットを自分で売る。
それが当たり前だと言われれば、選手は従うしかありません。
しかし、常識というものは、永遠に変わらないものではありません。
その時代に多くの人が信じている方法を、私たちは常識と呼んでいます。
少し時代が進めば、
「なぜ、そんな危険なことをしていたのですか」
と言われることもあります。
反対に、現在では当たり前だと思っていることが、未来の人から見れば、
「どうして、そのような方法を使っていたのですか」
と驚かれる可能性もあります。
根性がすべてだと思われていた時代があります。
水を飲むと弱くなると言われた時代もあります。
そもそも、スポーツ時に水を飲むことは良くないこと、という時代でした。
練習中に休むことが、怠けだと考えられた時代もあります。
しかし現在は、身体を壊してしまえば、長く競技を続けることはできないと考えられるようになりました。
水分補給も必要です。
栄養も必要です。
休息も必要です。
身体のデータを確認しながら、効率よく練習することも大切です。
もちろん、現在の方法がすべて正しく、昔の方法がすべて間違っていたという話ではありません。
昔の厳しい環境だからこそ育った強さもあるでしょう。
身体だけではなく、精神的な粘りも身についたのかもしれません。
ただ、その時代の常識の中にいると、それ以外の道が見えなくなることがあります。
「みんながやっている」
「昔からそうしている」
「プロとはそういうものだ」
その言葉によって、身体の悲鳴まで消されてしまうことがあるのです。
キック先輩の話を思い出しながら、私はそんなことを考えました。
3回戦の相手は、本場のタイ人
意気消沈しながらも、キック先輩は3回戦へ進みました。
しかし、その時の対戦相手は、それまでとはまったく違いました。
本場タイの選手です。
当時、先輩から聞いた話では、タイでは貧しい家庭の子どもが生活を変えるための道として、ムエタイの世界へ入ることがあったそうです。
大きなサクセスストーリーとしてムエタイがあったのです。
早い子どもは、4歳や5歳頃から練習を始めます。
家族の生活を背負いながら、リングへ上がる選手もいます。
もちろん、すべてのタイ人選手が同じ事情を抱えていたわけではないでしょう。
しかし、キック先輩が対戦した選手は、少なくとも先輩には、
「自分とは背負っているものが違う」
と感じられたようです。
リングへ上がり、お互いに顔を合わせます。
まだゴングは鳴っていません。
パンチも飛んできていません。
蹴りも受けていません。
何も始まっていません。
しかし、そのタイ人選手の目を見た瞬間、キック先輩は思ったそうです。
「あっ、これは勝てない」
技術を比べる前です。
身体の強さを確かめる前です。
実際に打ち合う前です。
ただ、相手の目を見ただけでした。

自分とは背負っているものが違うと感じたそうです。
しかし、その目の奥にある何かに、飲み込まれてしまったようです。
自分は、プロになった。多少の経験も積んだ。
相手は、勝たなければ生きていけない。
もちろん、本当にそこまで明確な違いがあったのかは分かりません。
相手の人生を詳しく聞いたわけでもありません。
それでも、キック先輩は相手の眼光から、自分とは違うものを感じ取ったのです。
案の定、試合はKO負けでした。
そしてキック先輩は、さらに上へ進むことの難しさを悟ったようです。
その試合を最後に、引退を決めました。
人間は「目」から何を読んでいるのでしょうか
この話の中で、私が今になって気になるのは、キック先輩が相手の目から何を読み取ったのかということです。
相手は何も話していません。
自分の過去を説明したわけでもありません。
家族の事情を語ったわけでもありません。そもそも言葉も通じません。
「私はあなたよりも多くのものを背負っています」
と宣言したわけでもありません。
ただ、見つめただけです。
しかし、キック先輩は、
「背負っているものが違う」
と感じましたそうです。
人間は、相手の目から多くのものを読み取ります。
怒っている。
怯えている。
迷っている。
嘘をついているように見える。
何かを隠している。
こちらを警戒している。
好意を持っている。
助けを求めている。
言葉では何も言っていなくても、目を見ると分かることがあります。
もちろん、すべて正しく読み取れるわけではありません。
思い込みもあります。
誤解もあります。
こちらの状態によって、相手の目の見え方が変わることもあります。
それでも、人間は太古の昔から、相手の目や表情、身体の向き、呼吸、声の変化などを見ながら、
「この相手は安全か」
「近づいてよいのか」
「逃げた方がよいのか」
を判断してきたのでしょう。
キック先輩がリング上で感じたものも、単なる思い込みだけではなかったのかもしれません。
相手の視線。
まばたきの少なさ。
顔の筋肉。
呼吸。
立ち方。
身体全体から放たれる緊張感。
そうしたものを一瞬で受け取り、その総合結果を、
「眼光に飲まれた」
という言葉で表したのかもしれません。

距離感などを一瞬で受け取り、言葉になる前の何かを感じ取っています。
五感解析ラボでも、一つの表情や一つの仕草だけを見て、その人の心を決めつけることはしません。
目の動きだけではなく、声の調子、呼吸の変化、身体の向き、相手との距離、身体が緊張する場所など、いくつもの反応を重ねながら、その人が何を受け取っているのかを観察していきます。
(勿論、虹彩解析にて相当のことがわかります。)
人間の反応は、計算式のように一つの答えが出るものではありません。
しかし、バラバラに見えていた小さな反応を並べてみると、
「なぜ、この人といると疲れるのか」
「なぜ、この場所では呼吸が浅くなるのか」
「なぜ、頭では大丈夫だと思っているのに身体が動かないのか」
という、自分でも説明できなかった感覚へ近づけることがあります。
キック先輩が一瞬で受け取った「眼光」も、目だけではなく、五感と身体がまとめて受け取った情報だったのかもしれません。
フィジカルAIには「目」があります
そして、ここから話は一気に未来へ飛びます。
最近、フィジカルAIやヒューマノイドロボットの話題を目にする機会が増えました。
2026年7月14日に行われたSoftBank World 2026では、孫正義氏が、2040年頃には世界で10億台規模のヒューマノイドロボットが稼働するという未来予測を語りました。
10億台です。
10億人ではありません。
10億台の、人間のような姿をしたロボットです。
もちろん、これは未来予測です。
本当にその数字になるかどうかは、まだ誰にも分かりません。
しかし、現在よりもはるかに多くのロボットが、人間のすぐ近くで働くようになる可能性は高そうです。
工場だけではありません。
物流。
建設。
介護。
医療。
接客。
警備。
家庭。
街の中。
人間と同じ空間を動き、人間の言葉を聞き、人間の表情を見ながら行動することになるのでしょう。
そのフィジカルAIにも、おそらく「目」があります。
人間と同じ目玉ではありませんが…
しかし、外の世界を認識するためのカメラやセンサーは必要です。
そのカメラは、人間の目をどこまで読めるようになるのでしょうか。
怒っている人の目。
怯えている人の目。
悪意を持って近づいてくる人の目。
助けを求めている人の目。
大切な人を見つめる、愛情のこもった眼差し。
そして、キック先輩がリング上で感じたような、
「この相手は、自分とは背負っているものが違う」
という眼光。
フィジカルAIは、その違いを理解できるようになるのでしょうか。
AIは「殺気」を数値にできるのでしょうか
人間が相手の目から感じるものには、簡単に言葉へ変えられないものがあります。
殺気。
圧。
気迫。
迷い。
覚悟。
愛情。
安心感。
不気味さ。
こうしたものは、目だけから発せられているわけではないのでしょう。
瞳孔の大きさ。
視線の動き。
まばたきの回数。
まぶたの開き方。
眉や頬の筋肉。
呼吸の速さ。
首の角度。
姿勢。
声の高さ。
身体全体の緊張。
おそらく人間は、それらを一つずつ分析しているわけではありません。
目に見えるものと、耳に聞こえるものと、身体で感じるものを、一瞬でまとめています。
そして、
「この人は危ない」
「この人なら安心できる」
と判断します。
AIの場合は、それを一つずつデータへ変換するのでしょう。
瞳孔が何ミリ広がった。
視線が何秒固定された。
まばたきが何回減った。
口元の筋肉が何度動いた。
声の周波数がどのように変化した。
体温が何度上がった。
呼吸がどのくらい速くなった。
そのような情報を大量に集め、
「この人は強い緊張状態にあります」
「攻撃行動へ移る可能性があります」
「この人は安心しています」
と判定するのかもしれません。
実際、目の動きや瞳孔の変化から、注意、緊張、認知負荷などを推定しようとする研究は進んでいます。
ただし、それはまだ、
「目を見れば、その人の心が完全に分かる」
という話ではありません。
瞳孔は感情だけでなく、光の強さや疲労などでも変化します。
同じ表情でも、人によって意味が違うこともあります。
AIが数値を読めるようになっても、その人の人生まで理解できるとは限らないのです。
虹彩を解析するのではないでしょうか
私は当初、フィジカルAIは人間の「虹彩」を解析するのではないかと考えました。
虹彩とは、黒目の中にある色のついた部分です。
人によって模様が異なるため、現在でも本人確認などに利用されています。
ただ、少し考えてみると、感情や殺気を読むためには、虹彩の模様だけでは足りないように思えます。
虹彩は、その人が誰なのかを見分けることには向いています。
しかし、その人が今、何を感じているのかを見るのであれば、AIが観察するのは虹彩だけではないのでしょう。
瞳孔の拡大や収縮。
視線が向かう場所。
目をそらすまでの時間。
まばたきの変化。
まぶたや眉の動き。
さらに、顔全体や声、姿勢、手の動きまで組み合わせる。
おそらく、そのような総合解析になるのではないでしょうか。
人間が「眼光」と一言で感じ取っているものを、AIは何百、何千という小さなデータへ分解するのかもしれません。
しかし、ここで新しい疑問が生まれます。
データへ分解できれば、本当に理解したことになるのでしょうか。
愛情のある眼差しを、AIは感じられるのでしょうか
例えば、母親が子どもを見る時の眼差しがあります。
長く一緒に暮らした夫婦が、言葉を交わさずに相手を見る時の眼差しもあります。
飼い主がワンコを見る時。
ワンコが飼い主を見上げる時。
そこには、単なる視線の角度や瞳孔の大きさだけでは説明しきれない何かがあるように思えます。
AIは、
「口角が上がっています」
「瞳孔が変化しています」
「視線が長く固定されています」
という分析はできるでしょう。
その結果として、
「好意的な感情である可能性が高い」
と判定することもできるかもしれません。
しかし、その眼差しを受け取って、胸の奥が少し温かくなることはあるのでしょうか。
自分が大切にされていると感じることはあるのでしょうか。
反対に、相手の目を見た瞬間、理由は分からなくても背中がゾワッとする。
そのような身体感覚を、AIは持つのでしょうか。
人間は、相手を分析してから感情を持つとは限りません。
頭で考えるより先に、身体が反応します。
呼吸が浅くなる。
肩が固くなる。
お腹が縮む。
胸がゆるむ。
安心して力が抜ける。
キック先輩も、タイ人選手の経歴を調べてから恐怖を感じたわけではありません。
目が合った瞬間、身体が先に、
「これは違う」
と感じたのです。
ここに、人間の五感と身体が持つ、非常に大きな特徴があるように思います。
AIは嘘を見破れるのでしょうか
さらに考えてみます。
人が悪いことを考えている時。
何かを隠している時。
やましいことがある時。
AIは、その目をどのように判定するのでしょうか。
視線をそらしたから、嘘をついている。
まばたきが増えたから、怪しい。
瞳孔が開いたから、危険である。
もし、このように単純に判定されたら、かなり怖い話です。
人は緊張しただけでも、視線が不自然になります。
人と目を合わせることが苦手な人もいます。
過去の経験から、強い警戒反応が出てしまう人もいます。
体調が悪ければ、表情も変わります。
眠ければ、まばたきも増えます。
つまり、目に現れた変化と、その人の本当の意図が一致するとは限りません。
人間同士でも、相手の目を読み違えることがあります。
AIが大量のデータを持ったとしても、読み違いが完全になくなるわけではないでしょう。
むしろ、AIが出した判定を人間が絶対に正しいと思い込んでしまうことの方が、危険なのかもしれません。
「AIが危険人物と判定しました」
その一言によって、何もしていない人が疑われる。
そのような未来は避けなければなりません。
AIが人間の目を読む時代には、読み取る技術だけでなく、
読み違える可能性を忘れない仕組み
も必要になるのでしょう。
キック先輩が読んだもの
では、キック先輩がリング上で読んだものは何だったのでしょうか。
相手の瞳孔だったのでしょうか。
視線の固定時間だったのでしょうか。
まばたきの少なさだったのでしょうか。
おそらく、本人にも分からなかったと思います。
ただ、
「勝てる気がしない」
と感じました。
これは、データとして見れば不合理だったかもしれません。
まだ戦っていません。
技術を試していません。
一発も受けていません。
しかし結果として、先輩はKO負けしました。
だからといって、最初に恐怖を感じたから負けたのか、実際に相手が圧倒的に強かったのかは分かりません。
もしかすると、眼光に飲まれた瞬間、すでに身体が縮んでしまったのかもしれません。
呼吸が浅くなった。
動きが固くなった。
いつもなら見えるパンチが見えなくなった。
普段の力が出せなくなった。
相手の目から何かを読み取ったことが、試合の結果に影響した可能性もあります。
人間の身体は、頭で考えている以上に、相手の存在から影響を受けます。
強そうだと思えば、身体は固まります。
安心できると思えば、身体はゆるみます。
相手の言葉だけではありません。
目。
声。
距離。
匂い。
呼吸。
姿勢。
そのすべてを身体が受け取っています。
これは、五感解析ラボで考えていることにもつながります。
人は、言葉だけで生きているわけではありません。
目に見えるものだけで判断しているわけでもありません。
自分でも説明できないほど多くの情報を身体で受け取りながら、次の行動を決めているのです。
五感解析ラボで扱っているのも、まさにこの**「言葉になる前の反応」**です。
ある人と会ったあとに、理由もなくどっと疲れる。
ある場所へ行くと、なぜか肩や背中が固くなる。
変わりたいと思っているのに、いつもの場面になると同じ反応へ戻ってしまう。
頭では納得しているのに、身体だけが「違う」と訴えている。
そうした反応を、性格や根性の問題として片づけるのではなく、目、耳、匂い、触れた感覚、呼吸、身体の緊張、過去に覚えた反応など、いくつもの角度から読み直していきます。
何か特別な能力で心を見透かすのではありません。
本人の身体にすでに現れている小さなサインを、一緒に拾い直していく解析です。
キック先輩がリングで受け取ったものを、当時は「気持ちで負けた」の一言で終わらせていたかもしれません。
しかし五感と身体の側から見れば、相手と目が合った瞬間に呼吸や筋肉、視野、身体の予測が変化したとも考えられます。
結果だけを見るのではなく、その少し前に身体で何が起きていたのか。
そこを観察することが、自分の反応を知るための入口になるのです。
昔の常識と、未来の常識
キック先輩が現役だった頃、水を断つ減量は珍しい話ではなかったようです。
プロになっても、ファイトマネーがチケットという世界がありました。
相手の眼光に飲まれたという話も、
「気持ちで負けた」
「根性が足りない」
と片づけられていたかもしれません。
しかし、時代が変わると、見方も変わります。
水を断つ減量は、身体への危険として考えられるようになりました。
練習も、ただ量を増やすだけではなく、データを使って効率を上げるようになりました。
心の状態や、試合前の心理的な準備も重視されます。
そしてこれからは、AIが選手の動きだけでなく、視線、呼吸、疲労、緊張まで分析するようになるかもしれません。
かつては先生の経験と勘だけで見ていたものを、AIが数値で示す。
「今日は反応が遅れています」
「疲労が蓄積しています」
「相手を見た直後に瞳孔と呼吸が変化しました」
そんな助言を、フィジカルAIがするようになるのでしょうか。
リングの横に、人間のセコンドとAIロボットが並ぶ。
人間のセコンドは、
「気持ちで負けるな」
と言います。
AIのセコンドは、
「相手と目が合った直後から、呼吸数が18%上昇しています」
と言います。
む~~ん。
どちらも必要なような気がします(笑)
人間の経験と直感。
AIのデータ分析。
どちらか一つではなく、両方を使う時代になるのかもしれません。
AIが進化するほど、人間の五感が必要になります
AIが人間の目を読むようになったとしても、人間が自分の身体を感じる力まで、手放してよいわけではありません。
AIが、
「あなたは緊張しています」
と教えてくれる。
しかし、その前に自分で、
「少し呼吸が浅くなっているな」
と気づくことも大切です。
AIが、
「この人に対して警戒反応が出ています」
と教えてくれる。
しかし、自分の胸やお腹がどのように反応しているかを感じることも必要です。
AIが進化すると、人間は自分で感じなくても、多くのことを教えてもらえるようになります。
眠りが浅い。
疲れている。
ストレスが高い。
集中力が落ちている。
相手を警戒している。
数字が先に教えてくれるでしょう。
これは便利です。
とてもありがたいことです。
しかし、数字が出なければ自分の状態が分からない人になってしまうと、それは少し困ります。
AIは外側から観察します。
人間は内側から感じます。
この二つは、同じではありません。
外側から見れば正常でも、本人は苦しいかもしれません。
数字では問題がなくても、なぜか胸がザワつくこともあります。
反対に、数字では緊張していても、本人にとっては心地よい興奮かもしれません。
だからこそ、AI時代には五感が必要なのだと思います。
AIに任せるためではありません。
AIが示したものを、自分の身体で確かめるためです。
外側のデータと、内側の感覚。
その両方を持っていることが、これからの人間には必要になるのかもしれません。
五感解析ラボが目指しているのも、AIと張り合って人間の心を当てることではありません。
自分の身体に起きていることを、自分自身がもう一度受け取れるようにすることです。
なぜ、あの言葉にだけ強く反応したのか。
なぜ、この人の前では言いたいことが言えなくなるのか。
なぜ、安心したいのに身体が警戒を解かないのか。
目に入ったもの。
耳に残った声。
匂いや空気。
相手との距離。
呼吸や身体のこわばり。
過去の経験から身体が覚えている予測。
そうしたものを一つずつ見ていくと、正体の分からなかった違和感にも、小さな輪郭が現れることがあります。
解析とは、その人に答えを押しつけるものではありません。
現在地を確かめ、身体が何を守ろうとしているのかを知り、次に進むための道具を見つける作業です。
AIが外側から大量の情報を解析する時代だからこそ、人間には、内側から自分を感じ直すための解析も必要になるのではないでしょうか。
サウナで飲んだ一杯の水
そんなことを考えながら、私は再び炭酸泉へ戻りました。
身体には、小さな泡がまとわりついています。
先ほど飲んだ水が、まだ身体の中を通っているような感覚がありました。
キック先輩は、あの減量の最終日に、この一杯の水を飲むことができませんでした。
私はサウナを出れば、すぐに水を飲めます。
飲みたいだけ飲めます。
誰にも止められません。
そう考えると、いつもの水が少し違って見えます。
昔の常識では、水を我慢することが強さでした。
現在の常識では、身体を守りながら力を発揮することが大切だと考えられています。
そして未来には、AIが水分不足になる前に、
「そろそろ水を飲んでください」
と教えてくれるのかもしれません。
しかし、最後に水を美味しいと感じるのは、人間の身体です。
喉が潤う。
身体が落ち着く。
頭が少し冴える。
生き返ったように感じる。
その感覚まで、AIに代わってもらう必要はありません。
キック先輩は、プロとして長く活躍することはできませんでした。
しかし、中学生だった私に、色々なものを残してくれました。
水の大切さ。
時代によって常識が変わること。
プロになることと、プロとして食べていくことは違うという現実。
そして人間は、相手の目から、言葉にならない何かを読み取るということ。
キック先輩本人は、私に何かを教えようとしていたわけではないでしょう。
ただ、プロを目指して練習し、減量し、リングへ上がっただけです。
トイレの水を飲みそうになっただけです。
いや。
最後の部分は、なかなか強烈ですが(笑)
しかし、こういう強烈な実話ほど、何十年経っても身体に残るものです。
教科書で、
「水分は人間にとって大切です」
と読んだだけなら、私はここまで覚えていなかったでしょう。
しかし、キック先輩が水洗トイレの水を飲もうとした。
これは忘れられません。
人生の教科書というものは、時々、とんでもない形で現れます。
学校の机ではなく、空手道場に。
立派な先生の講義ではなく、減量中のキックボクサーに。
そして何十年も経ったあと、炭酸泉とサウナの間に、突然戻ってくるのです。
キック先輩。
ありがとうございました。
あなたが命懸けで我慢した一杯の水を、私は今日、サウナのあとに美味しくいただきました。
そして、あなたがリングの上で見たタイ人選手の眼光は、何十年も経った今、フィジカルAIが人間の目を読めるのかという疑問へつながりました。
時代は変わります。
常識も変わります。
プロの意味も変わります。
人間と機械の関係も、これから大きく変わるでしょう。
しかし、水を飲んで美味しいと感じること。
相手の目を見て何かを感じること。
危険を前にして身体が固くなること。
愛情のある眼差しに触れて、身体がゆるむこと。
こうした感覚は、これからも人間にとって大切なものなのだと思います。
フィジカルAIが10億台になったとしても。
人間の目を精密に分析できるようになったとしても。
最後に問われるのは、
私たちは、自分の目と身体で何を感じ取っているのか。
ということなのかもしれません。
何はなくとも、まず水。
AIより先に、水分補給。
虹彩解析より先に、喉の渇きを感じる身体。
そして、サウナで根性を見せる前に、無理せず水を飲むこと。
キック先輩の時代から、常識はしっかり変わりました。
私は給水器でもう一杯水を飲み、再び静かな炭酸泉へ沈みました。
ノーイベントデーの温泉にて、何十年も前のキック先輩から、時代と水と眼光について教えてもらった木曜日でありました。
いつもいつもクッソ長い文章で申し訳ございません😅😅😅
