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【歴史小説】寧らかの波 第一章(1)「死なないでくれ、ジイ」


あらすじ

 16世紀。
 異国の血を引く楠葉くすば入鹿いるかは、淡路国あわじのくに沼島ぬしまで育ての親ジイや幼馴染おえいと穏やかに暮らしていた。
 ところがある日、突如ジイに襲われ、とっさに反撃してその命を奪ってしまう。
 同時に沼島は武士の船団に囲まれ、管領かんれい細川ほそかわ高国たかくにと美貌の明国みんこく人・宋素卿そうそけいが現れる。
 かつて細川の戦友だったジイは、住民の命と引き換えに、剣の技を授けた入鹿を差し出す密約を交わしていたのだった。
 連れ去られるように故郷を離れ、宋素卿と行動をともにすることになった入鹿。果たして彼を待ち受ける運命とは……

本編

第一章
 
     一
 
 燃えるような日が、頭上で揺らいでいる。
 空はのっぺりと青い。
 海は、それを照り返す鏡だ。すぐ目の下では濃い群青色だが、遠くなるほどに白くかすみ、やがて一つに溶け合ってゆく。
 肉のように盛り上がった雲が、空のふちに群がっている。
 潮のにおいが、人の恥部のようにえていた。
 煮えたぎった風で息苦しい。鼻の奥にも、目の裏にも、逃げ場はない。ただ一つ、海の中を除いては。
「おえい」
 と、楠葉くすば入鹿いるかは呼びかけてみた。
 返事はない。代わりに水柱を立て、よく日に焼けた腕が波間から突き出された。
 続いて、ふくらはぎまで引き締まった、しなやかな脚。入鹿は笑った。
「海の中で踊ってるのか」
 お互いに十七歳だ。
 入鹿は裸のまま、両腕をまっすぐ平らに広げ、岸辺の岩礁に立っていた。割れた貝殻が足裏を刺す痛みさえ心地いい。
 総身から吹き出す汗を、薄く肌にまとっているかのようだ。
 肉の内側で泡立つ力が、ふっと傾くだけで、たちまち口を破って溢れ出してしまいそうになる。
 逃げ場を求めて、入鹿は跳んだ。
 飛沫しぶきを立て、足の指から水の中へ入り込んでいった。あぶくが皮の表を撫で上げ、たちまち海と一体になる。
 目を開けると、降り注ぐ日を透かした水の向こうで、くるくると回転している姿がある。すべらかで毛も鱗もない。
 入鹿は脚を蹴りながら、そちらへ泳いでいく。
 海の中でも波は強く押し返してくる。ある程度それに流されてやりながら、体を波打たせて水の合間を縫っていく。
 伸ばした指先が、届いた。
 相手もそれを握り返し、二人は波の下の光に揉まれながら、肌をこすり合わせた。
 細長い魚の群れが、銀色の腹を輝かせつつ、周りでおおらかな渦を巻いている。
 おえいの髪が、海藻のようになびいている。胸を反らしたかと思うと、たちまち一回転した。入鹿もそれに倣うように、後ろ向きに海面を仰いで大きく脚を広げた。
 波の上の太陽は、夢の中のようにぼやけている。
 泳ぎながら、おえいはこちらへ顔を寄せ、口を動かして何事か話したようだった。
 もちろん、何も聞こえない。ただ小さなあぶくが生まれては消えていくばかりだ。海の中とは、そういうものだ。だから入鹿は笑った。おえいも笑い返してきた。それでいい。何も欠けたものなどなかった。
 岸へ上がると、互いの濡れた体をまじまじと見つめ合い、また笑った。磯の岩場に、夥しい水が落ちて、二人の周りだけ色が濃くなっている。
「でっかい胸じゃのお」
 と、入鹿は言ってみた。
「悪いか」
 と、おえいは答えた。濡れ髪が縮れたまま、ぴんぴんと雫を撥ねている。
「悪くはない、ようわからんが」
「近ごろ、どんどんでかくなってくる」
 上目づかいで、こちらを見つめ返してくる。よく潤んだ、大きな瞳だ。むしろ鼻が小作りなことに驚かされる。孔が小さく、細工物みたいなのだ。鳶の嘴のような自分の鼻とは、同じものとも思われない。
「でかくなるのを、止めてくれんか、入鹿」
「わしらの体も、すっかり違ってきたのお」
 話を変えるようにして、入鹿は目をそらした。波頭はきらきらと光を揉んでいる。
 昔は、そうではなかった。二人ともつるつるした、同じような体つきだった。
 それがここしばらく、入鹿の方はごつごつして角張り、おえいの方は丸っこくなって、やけにあちこち張り出している。その異なり方は、もはやごまかしようもなかった。
 しかし卜山ぼくさんのジイが言うには、それで自然なのだ、ということらしい。何も間違っているところはない。だからこれ以上、あれこれと言葉を並べ立てる必要もなかった。
 竹魚籠びくの中には、三匹ばかりの魚が泳いでいる。手づかみで掬い上げてきたものばかりだ。
 魚取りは、この島へやってきた日から続けているので、もう慣れきったものだ。
 今日の魚は、昨日獲ったものとは、いつもどこか違っている。ひれの尖り方だったり、えらのえぐれ方だったり、目玉の血の溜まり方だったり。そういう一つ一つ異なる命を、自分たちは日夜食らっている。
 入鹿はおえいの細い肩に手のひらを乗せ、ツンと差し出された口を吸った。お互いに目を閉じていると、潮の味がした。
 遠からず、夫婦めおとになるのだろう、と入鹿は思った。おえいも同じように考えているはずだ。
 それが自然なことで、何も間違ったところなどないのだから。
 
 家は高台へ続く登り口の、竹藪のただ中にある。
 むしろ、いおりと呼んだ方がいいかもしれない。
 柱は皮つきの丸太で、屋根は軒先の広がった茅葺きだ。白い土壁で、格子を組んだしとみが外向きに巡らされているが、決して立派な建物ではない。
 おえいと別れてそこへ帰ってくると、入鹿はどこか妙な気配を感じた。
 いや、むしろ、何も感じなかった、と言った方がよいのか。
 聞こえなさ過ぎるのだ。誰もそこにいないのではないか、というほどの静けさが漂っている。
「ジイ」
 土間へ入りながら呼びかけてみたが、やはり返事はない。
 どこへ行ったのか。
 また高台の方へ上がっているのか。だがここ数日、膝の古傷が痛むと言って、むしろへ寝転がったきりになっていた。
 元から右脚は、健が切れて使い物にならなかった。たった一本きりでその身を支えている、左膝の方が悪いと訴えていたのだ。
 昨夜などは、立ち上がるのも大儀だとうなるので、下帯を脱がせ、用便の世話までしてやったくらいだ。
 それがすぐさま、独りで動き回れるとは思えない。
「ジイ、どこにいる」
 どこかで行き倒れていたら大変だと思い、外の裏手へ回って簀子すのこえん沓脱くつぬぎを見た。
 すると、平らに磨かれた石の上に、黒く細長いものがごろりと置かれていた。
「これは」
 入鹿は歩み寄り、それを拾い上げてみた。黒漆金縄巻くろうるしきんなわまきの短刀こしらえ。ジイがあたかも家宝のように、ささやかな飾り棚の鹿角へ掛けていたものではないか。
 確か、藤四郎とうしろう吉光よしみつといったか。
 父の形見だ、と一度だけ、ぽつりとつぶやいたことがある。ジイの父となれば、入鹿にとって言わばヒイジイに当たるわけで、はるか昔の人物のように思われる。
 ジイは、かつて偉い武家だった。言葉遣いや身ごなし、ぽつぽつと漏れる物語からもそれはわかる。
 なので、ヒイジイも武士だったのか、と尋ねてみると、当たり前だろうが、と言うように目を剥いて、
 カンレイだ
 と答えた。ぷいと顔を背けたので、問答はそれっきりになってしまった。
 カンレイとは、一体何なのか。入鹿にはよくわからなかった。わざわざ尋ねてみたこともない。だがどことなく、大立者おおだてものらしい感じは受けた。
 そういうヒイジイから受け継いだ宝物の短刀が、ひどく無造作に沓脱石へ転がされている。
 いよいよ、ただ事ではない。
 すぐさま走り回り、ジイの姿を求めるべきだったろうが、入鹿はむしろ、手の中の鞘をゆっくりと抜き放っていた。
 海を渡ってくる朝ぼらけのような輝きが、目を焼いた。
「おお」
 と、思わず声を発していた。妖しい。これが、人を魅入らせる宝の力なのだろうか。
 ふと、背後に気配を感じた。
 とっさに鞘を抜き放って振り返ると、ジイがそこにいた。
「ジイ」
 しかし、異様だった。
 砂浜の枯れた石のような、いつもの様子ではない。五尺ほどもある長柄ながえを上段に構えている。先端の穂が真夏の日差しを受け、血を吐くようにぎらぎらと輝いていた。
「抜いたな、薬研やげん藤四郎を」
 小袖に広口ひろぐちばかまをはき、灰色の総髪を鉢巻きでまとめ上げている。足元は裸足だった。普段は真っ黒く見える奥目が、今ばかりは飢えた猛禽のように輝いている。
「ジイ、何をしてる。薙刀の稽古か。膝の具合はどうなんだ。昨夜まであんなに痛がってたじゃないか。下手にそんなもの振り回したら、かえって怪我しちまうぞ」
 入鹿はたなごころを差し出しながら、笑い交じりに訴えかけた。
 が、ジイはまるで顔色を変えなかった。
 それどころか、得物の刃を、こちらの脳天めがけて振り下ろしてきた。
「ああっ」
 入鹿は思わず声を発し、とっさに身をかわした。穂先が足元の梢を叩き割り、土へめり込んでいた。すぐにまた、汲み上げるように頭上へ構え直した。
「避けよったか」
「今、俺を殺す気だったな」
 入鹿は、まなじりを決して相手を睨みつけた。殺気は感じられない。が、心を露わにせずとも人を殺める振る舞いはできる。今この身を襲ったのは、そういう類いの力だった。
「そうだ。わしは、お前をこの場で殺すつもりだ。反対にわしを殺さなければ、お前が死ぬことになる」
「なんで」
 問う暇もなく、二度目の斬撃が降りかかってきた。さらに速い。
 避けるのは間に合わない。そう見た入鹿は、短刀を跳ね上げ、黄金こがねのはばきで薙刀の刃先を受け止めた。
 金のぶつかり合う音が、甲高く耳をつんざいた。
 血走ったまなこが間近にある。獣のような鼻息がまともにかかってくる。
 ろくに動かせない脚で、繰り出せる速さではない。むしろ今までの稽古の時も、構えを直したり口先で指図するのがほとんどで、自ら得物を振り回すということはなかった。
 一体何が起こっているのか。
「手筋悪からず。さすがはわしが、ここまで鍛え上げた弟子よ」
「どうしてだ、ジイ。どうしてこんなことをする。ほんのつい今朝まで、二人で暮らしてきたじゃないか」
「こうなることは、初めから決まっていた。それがたまたま今日、訪れたというだけのことよ。せめてもの情け、お前にはその藤四郎をくれてやる。生き延びたくば、今ここでわしを殺めてみせよ」
「ふざけるなよ」
 入鹿は、心の底からの怒りを感じていた。いずれ自分の手で始末するため、今日まで育ててきたというのか。何の前触れもなく、いきなり襲いかかってきたりして。
 二人で日が暮れるまで川魚を釣った日も。
 山へ分け入って籠いっぱいの野蒜のびるを採った日も。
 自分が追い立てた猪を、ジイが狩俣かりまたの矢で仕留めた時も。
 全て偽りだったというのか。
「俺が、異人の子だからか」
 相手は何も言わなかった。ただ刹那、目の中の光が物思わしげに翳った、ような気がした。
「ちええいっ」
 答えの代わりに、迷いのない突きが来た。
 やっぱり、殺す気だ。
 それと悟った瞬間、入鹿の方からも戸惑いは消えていた。そこに残っているのは、剥き出しの命と命の奪い合い、ただそれだけだった。
 ほんの少しの勘所で、膝を柔らかく使って身をそらすと、鈍く光る穂先はおのれのすぐ胸元を、時が凝ったようなゆるやかさで通り過ぎていった。
 あとは体が勝手に動いた。
 やり返さなければ、と感じるまでもない。かえって足を前へ踏み出していた。長柄を伝って懐まで入り込むと、抜き身の短刀の刃を、自分のただ一人の家族である老人の左胸へ、あやまたず突き立てていた。
「ジイ」
 そこで我に返ったように、入鹿はつかから手を放していた。
 が、骨と肉の間にめり込んだ刃は、もはや戻ってこなかった。そのままくずおれてゆく老人の体を、すんでのところで抱き留めた。両の腕が不吉に生温かくなり、筒袖の内側が赤く濡れそぼった。
 その場に膝をつきながら、入鹿は喉を破らんばかりに叫んだ。
「死ぬな。どうか死なないでくれ、ジイ」

~(2)へ続く

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