”その”夜を越えて
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「ね~。まだなの?」
母からの電話は、時節の挨拶のように決まって毎回その話題に触れた。
曖昧に笑ってごまかすのも、いつの間にか上手くなっているようだ。
彼女とは五年になる。
一緒に暮らし始めてからは、記念日も、将来の話も、いつの間にかどこか日常の中に溶けてしまった。仲が悪いわけではない。ただ、これと決め手がお互いに見つからなかった。
スーパーでは彼女がレジでの支払いまで終わらせ、僕は受け取った重い荷物を持つ。
帰り道、特別な会話はない。沈黙が特に気まずいわけでもなく、すでに疑問も抱かなくなっていた。
その日、僕は仕事で致命的なミスをしたことに気付いた。
取り返しのつかない失敗だと思われた。
――少なくとも、これまでの人生では。
結果的にその日は誰にも相談できぬまま、いつもより遅く帰宅した。
「おかえり。」
彼女はそう言って、台所に立ったまま笑顔で振り返った。
いつもながら、今日の出来事を振り返させられることはなかった。
食卓には、温め直されて少し柔らかくなった唐揚げと味噌汁がある。
箸を取る僕の手が少し震えていることにも、伏し目がちであることにも、気づいているようだが、彼女は何も言わなかった。
「今日は疲れたみたいだね?」
このセリフを聞くのは、実は3回目だ。前の2回は、僕は苛立って言い返してしまい、一方的な喧嘩別れになってしまった。
しかし今回は、その一言で張り詰めていた何かがほどけていくのを感じた。
説明しなくていい夜。強がらなくてもいい時間。
暗い目をしたまま、黙って座っていても許される場所なのだ……。
――不思議だった。
何度目でも……、彼女は心地よい言葉をくれる。
ふと気づいた。
この人の前では、無理に成功しなくてもいいのだと。
一般的には……人生においては、勝つ日より、負ける日の方が多いと思う。
そして僕は、それを何度も“やり直し”てきた。
失敗するたび、分岐点まで戻される……いや、戻ることができる人生。
仕事、選択、人間関係。
正解を探し続けて、修正し続けて、それでもなお“同じ夜”に帰ってくる。
しかし彼女だけは、いつの人生でも変わらなかったように思う。
食器を下げる彼女の背中を見ながら、僕は小声ながらもはっきりと言った。
「ねえ…結婚しようか」
彼女は少し驚いた顔をしてから、小さく笑った。
「急だね」
そして、この次の選択はこれで最後になると僕は理解していた。
この先へ進めば、また人生は続く。
成功も、失敗も、修正も、繰り返される。
しかしここで留まれば、これまでのループは終わる。
その夜、僕は初めて「帰る場所」を選んだのだと思った。
最適解ではないのかも知れない。
――もはや正解ですらないかも知れない。
それでも毎回、必ず戻ってくる場所。
しかしこれからは“繰り返し”ではない、本当の意味で“かけがえのない”毎日。
かけがえのなさ…理由はそれだけだった。
しかしそれは明確であり、
繰り返しの人生を終わらせるには、十分すぎる理由でもあった。
“その”夜を越えて分岐点まで戻る選択肢を、僕はついに手放した。
★★★★ 以下はAIによる講評です ★★★★
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P.N 四九十三(しく・じゅうぞう)拝
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