見出し画像

”#わくわくする瞬間” 参加作品 

用事があったわけではない。
母の介護に通うついでだが、ふと心によぎった“豊津駅”だった。
時間にはまだ余裕がある。
いつもは直進する道だが、
信号が変わる直前にウィンカーは右折を周囲に予見させた。

降りてみようか――
そう思った理由を自分でもうまく説明できないまま、
私はホームに立っていた。

駅は思った以上に静かだった。
人の気配がないわけではないが、不自然な音が少ない。
列車が去ったあとの空気だけが、
冷たい鉄の軌道に沿ってゆっくりと流れている。
ここが、かつて毎日のように利用していた駅だとは、
すぐには信じがたかった。

高校生だった頃、当時の国鉄田川線豊津駅は、生活の一部だった。
この駅を利用する生徒は少なかった。
だが通学時間帯には、つかの間の賑わいがあった。
かといって、私に特別な想い出があったわけではない。
ただ、改札を抜け、8時限までの授業を受け、
列車に乗り、帰っていく。
そして都度「退学したい」という想いが顔をもたげ、
そして静かに押さえ込まれた。
だが、その繰り返しの中に当時の自分は確かに存在していた。
田畑の風景や、季節ごとに変わる空の色を、
車窓から意識することもなかった。
あの頃私の周りでは、
”誰か”にとっての、わくわくする瞬間が確かに弾んでいた。
私を残して、周りにだけは。

四十五年ぶりだろうか。
降り立った駅は、名前こそ同じだが、別の場所のようだった。
今は平成筑豊鉄道と名を変え、駅は無人となっている。
周囲の景色も少し整理されているようだ。
しかし記憶の中にあったはずの“何か”が、見当たらない。
その一方で、ホームの長さや線路の位置には、
不思議なほどにズレがない。
変わったのは駅なのか、それとも自分なのか――
そんなことを考えながら、私はただ立ち尽くしていた。

懐かしい、という言葉は少し違う気がした。

多分だが、確認しに来ただけなのだろう。
あの頃の自分が、確かにここにいたという事実を。

一両だけのワンマン列車を待つこともなく、私は駅を後にした。
豊津駅は、これからも変わらずそこにあるだろう。
だが私はもう、この駅を通過すらしない人間になった。
それでいいのだと思いながら、振り返らずに車に向かった。

残された時間を、ふと意識する。
少しでも母に、わくわくするような瞬間を
父へのお土産に持たせてあげたいと思う。

いつもより少しだけ優しい音を立てて
ドアが閉まったような気がする。


いいなと思ったら応援しよう!