#36 削除できないノイズ
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役所からの帰り道、風が強かった。
妻は離婚届を胸に抱え、夫は空の封筒だけを持って歩いていた。
妻が持っているのは、かつて二人が提出した“婚姻届”そのものだ。
その用紙は、二人の生体情報を焼き付けたものであり、契約解除――すなわち離婚の際には、役所から物理的に一旦返却される決まりになっている。
これを端末にかざし、無効化処理を行わなければ、手続きは完了しない。
信号待ちの間、二人は影だけを見ていた。
影は並んで伸びているはずなのに、わずかにずれていた。
補正がかかる前の誤差だ、と夫は思った。
家に戻ると、妻は黙ってペンを差し出した。
説明は要らなかった。
何度も確認した注意事項は、すでに暗記している。
「ここ……」
指先で示された欄に、夫は目を落とした。
署名欄の下には、小さくこう印字されている。
――婚姻期間に共有された時間の整理に同意する
何度も書いてきた自分の名前なのに、
今日はその形が思い出せなかった。
「早く書いて」
妻の声には、責める響きはなかった。
処理待ちが長引くことへの疲労だけが滲んでいた。
夫はペンを握ったまま、動かなかった。
「……やはり離婚はしない」
低く、しかし明確な音声だった。
「いまさらどうして」
妻は顔を上げなかった。
視線は、書類の下部にある注意文へ向けられている。
夫は紙を見つめたまま言った。
「ここに名前を書くと、君と過ごした時間が、全部“未発生”として整理される」
妻の指が、わずかに震えた。
「それが制度でしょう?」
「記録上、二人は必要以上の時間を“共有”しなかったことになる」
「一緒に過ごした時間なんて、もう意味がないでしょう」
「意味を消す処理と、
意味が“なかったこと”にする処理は違う」
夫は、久しぶりに妻の顔をまっすぐに見た。
「まだ……意味があった頃まで消す必要はない」
沈黙がさまよう……。
壁の時計の秒針が、途中で一度、引っかかった。
妻は息を吐いた。
「私ね……怖いの」
声が小さくなった。
「早く終わらせないと、システムが『原因』を探し始める。
私たちが笑い合ったあの旅行も、何気ない会話も、すべて『破局への伏線』として再計算されてしまう。
思い出がバグとして処理される前に、きれいになくしてしまいたかった」
夫はペンを置いた。
「過去は、最適化なんかせずに持っていればいい。
たとえノイズだと言われても」
妻は答えなかった。
その書類は、引き出しの奥にしまわれた。
未処理案件として。
夜になり、二人は別々の部屋で眠った。
同じ屋根の下だが、共有時間の計測は停止している。
それでも、家の中には、同じ秒針の音が流れていた。
正確なはずの時計が、
二人の距離を測ることだけは、まだ確定できずにいる。
深夜、廊下でわずかな軋み音がした。
誰かが動いた気配が、確かにあった。
だが監視ログには、
その時間帯の移動記録は存在しない。
二人が過ごした時間は、
まだ削除されていない。
電子記録には残らない、削除できないノイズが、そこには確かにあった。
★★★★ 以下はAIによる講評です ★★★★
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P.N 四九十三(しく・じゅうぞう)拝
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